第三話 動乱明けて
現神──アメノウズメによる学園襲撃から一週間ののち。
帰りのホームルームを終えた二年四組は、賑やかな雰囲気に包まれていた。
「もうすっかりいつも通りだな。とりあえず一安心か」
クラスの様子を見渡しながら、夜渚明は息をつく。
あの戦いの後、高臣学園は一時混沌のるつぼにあった。
操られていた者たちは程なく意識を取り戻したが、催眠にかかっていた時の記憶は失われていた。
起きたばかりの彼らが目にしたものは、多数の救急車と、これまた多数のパトカーと、損壊した体育館。それと、なぜか申し訳無さそうにしている金谷城望美だ。
警察の調べに対し、生徒たちは口を揃えて「目を覚ましたらこうなっていた」と証言。
通報した少女は「学園に来たらこうなっていた」と証言。
救急隊は「通報を受けて駆けつけたらこうなっていた」と報告書に記載。
結局、誰一人として"こうなった"経緯を説明することはできなかった。
この不可思議な出来事は「謎の集団昏倒事件」としてマスコミに注目され、世間を大いに賑わせた。
が、大衆とはいつの時代も熱しやすく冷めやすいもの。
取材活動は日を追うごとに下火となり、数日後には雑多なニュースの底に埋もれていった。
今朝がた明が確認したところ、昏倒事件を取り上げていたのは地方局と公共放送のみ。SNS上では先月生まれたパンダの赤ちゃんがトレンドを席巻していた。
順当な結果だと思う。日々刻々と成長していくパンダに比べると、この事件は初報から全く進展していない。
人を昏倒させるような有毒ガスが漏れ出した形跡は無く、睡眠薬が使用された様子も無い。
警察は事故と事件の両面から調べを進めているようだが、どちらのルートも行き詰まるであろうことは目に見えていた。
捜査の停滞は、事件に対する人々の興味を急速に失わせる。あと半月もすれば、おのずと忘れ去られるだろう。
(あの時と同じように、か)
明は複雑な思いと共に、七年前の記憶を手繰り寄せる。
当時のことは断片的にしか覚えていない。大人たちにあれやこれやと聞かれていたような気もするが、具体的に何を答えたのかまでは思い出せなかった。
とにかく色々なことがあって、多くの親戚や、知らない人たちが家に詰めかけていた。
母はずっと泣いていて、父はそれを慰めていて、そして自分は……何を考えていたのか、やはり思い出せない。
おそらく、何も考えていなかったのだと思う。
考えないことで、無意識のうちに自分の心を守っていた。
(情けないものだ。本来なら、兄である俺が真っ先に怒らねばならなかったはずなのにな)
目の前で妹を殺されながら、恐怖で何もできなかったこと。しようとすらしなかったこと。
今でもそれは大きな負債となって、明の心にのしかかっている。
だからこそ、明は橿原市に戻ってきた。
抱え続けてきた負債を返すため。そして、兄としての誇りを取り戻すために。
「……そろそろ、動くか」
明は手早く荷物をまとめ、下校の準備を整える。
時刻は十二時五十分。曜日は金曜。
学園側は生徒たちの体調を考慮し、今日まで午後の授業を取りやめにしていた。
しかし、週明けからは平常通りの時間割に戻り、名実共に日常が戻ってくる。
つまり、今日が昼間から自由に行動できる最後の平日なのだ。
あれだけはやし立てていたマスコミは早くも事件に飽き始めているし、捜査員の数も減少傾向にある。調査を再開するにはちょうどいい頃合いだ。
「──ってなわけで、晴れてリベンジマッチだ。ちょっくら面貸せや、転校生」
「馬鹿か貴様は」
席を立った途端に黒鉄良太郎が絡んできた。明は心底嫌そうな顔で、
「あれだけ無様な敗北を喫しておいて何がリベンジマッチだ。黒鉄、お前には恥という概念が無いのか?」
「はー? あんなもんただのまぐれ勝ちなんですがー? 一勝した程度で調子に乗らないでほしいんですがー?」
「銃刀法違反野郎が愉快な負け惜しみを言ってくれるじゃないか。対等な条件で戦えば俺の圧勝だぞ」
「うるっせ、てめえだってインチキしやがったじゃねえか! おあいこだおあいこぉ!」
逃げる明に、しつこく詰め寄る黒鉄。クラスメートの視線が痛い。
(これはもう、完全に同類扱いされているな……)
あの事件以降、黒鉄は事あるごとにちょっかいをかけてくるようになった。以前ほどの凶暴性は見せなくなったものの、明としては動きづらくて仕方がない。
おまけに黒鉄が大声で騒ぐものだから、明が転校早々大喧嘩を繰り広げた事実が皆に知れ渡ってしまった。
今や明は黒鉄に次ぐ危険人物として認知されており、気軽に声をかけてくる者もほとんどいない。
疫病神に憑りつかれてしまった不運を嘆きつつ、明は数少ない友人に救助要請を送った。
「笑ってないで助けてくれ、晄」
そう言って、楽しそうにほほ笑む新田晄に目を向ける。
花咲くような笑顔に邪気は無い。晄は細めていた目をゆっくり開けると、そのまま苦笑に移行した。
「ごめんごめん。でも、夜渚くんと黒鉄くんって本当に仲いいよね」
「おい新田、それ本気で言ってんのかよ? だったら今すぐ眼科に行った方がいいぜ。目ってのは一生もんだから大事にしねえとな」
「そうかなぁ。だって二人ともなんだか楽しそうだし」
「俺と、黒鉄が、楽しそう? どこが?」
「よ、夜渚くん落ち着いて! 顔が怖いよ!」
晄は慌てて席を立ち、小走りでこちらにやってくる。
と、そこで動きが一瞬止まり、体が前に傾いた。
「きゃっ……!」
「おっと」
すかさず手を伸ばし、晄の体を抱き留める。彼女の頭が胸元に当たり、亜麻色の髪が明の首筋を撫でた。
心地よい肌触り。毎日触れている自分の髪とは大違いだ。
その感触にわずかばかりの名残惜しさを感じながら、支えていた手を放した。
「大丈夫か?」
「あ、ありがとう夜渚くん。ちょっと足引っ掛けちゃって」
「それならいいが……事件の後遺症が残っているのなら無理はしないことだ」
「病院の検査ではなんともないって言ってたから、そっちは大丈夫だよ」
晄は恥ずかしそうに制服の乱れを正す。
襟を整え、スカーフを引き締め、スカートを軽くはためかせてから顔を上げた。
「それにしても……あの事件からもう一週間も経つんだね。毎日テレビの取材とか取り調べでバタバタしてたから、全然実感沸かないなぁ」
「こっちは何も知らねえっつってんのに家までしつこく押しかけてきやがって、マジめんどくせえよなあいつら。得したことっていったら半日授業になったことぐらいじゃねえか?」
黒鉄はそこまで言うと、視線を教室の右側へと飛ばした。
「ま、授業が減って不満たらたらの奴もいるみたいだけどな」
そこにいたのは水野猛だった。
教室に残る多くの者が雑談に興じる中、彼だけは黙々と自習を続けている。その表情は真剣そのものだった。
「さっすが水野くん。中間テストの準備は万全だね」
「ありがとう。でも、そういう新田さんはどうなんだい? 一学期の時はテスト直前になってから『勉強教えて』って泣きついてきた記憶があるんだけど」
「私!? 私は……うん……頑張ります」
晄は数秒考え込んだ後、自分のロッカーからリングで繋がれた英単語帳を持ち出してきた。
彼女と猛を見比べて、肩をすくめるのは黒鉄だ。
「お前ら、こんなにやかましいところでよく勉強なんてできるな。同じ生き物とは思えねえ」
「集中すればノイズなんて気にならないものだよ。それに、リョウがうるさいのはいつものことだから」
「そりゃどーも」
黒鉄が笑い、猛もそれにつられて口の端を上げた。
その間もシャープペンの筆先は動き続け、奇奇怪怪な数式を解きほぐしていく。
猛は答案を書き終えた後、持ち替えた赤ペンで答え合わせをする。記した○の数は、解いた問題の総数に等しかった。
「……そういえば、リョウと明は検査を受けなくても良かったのかい? 二人とも学園にいたって聞いたけど」
参考書をめくっていた猛が、ふと思い出したように問いかける。
黒鉄はしばらく口ごもった後、明と事前に示し合わせていた通りの答えを返した。
「お、俺らが起きたのは他の奴らより早かったからな。救急車が入って来た時もピンピンしてたし、大したことないだろって判断されたんだよ」
「それならいいんだけど……不調を感じたら、すぐに診てもらった方がいいよ」
「んなもん大丈夫だってえの。猛は心配性すぎんだよ」
「そりゃあ心配にだってなるよ。家に帰ってテレビをつけたら見慣れた学園が映ってたんだから。しかも、ニュースじゃテロとか毒ガスとか物騒なことばかり言ってるし」
猛は気だるげにつぶやいて、こちらに非難がましい目を向けた。
明は、
「……………………それは、さぞかし、不安だったろうな。心配をかけてすまなかった」
「気にしないで、こっちが勝手に気を揉んでただけだし」
「そうか」
淡々とうなずき、何がしかを思案するように視線をさまよわせる。
その時、ちょうど教室を出ていく望美と目が合った。
彼女は特に表情を変えなかったが、その手はスカートの横面を静かにつついていた。
(ふむ、やはりふとももは良いものだ。目の保養になる)
満足いくまで曲線美を堪能した後、ズボンのポケットを探る。
例によってまた、藁半紙らしき感触が伝わってきた。
二度目の呼び出し。内容は考えるまでもなく、アメノウズメのことだ。
あの蛇女は最期まで口を割らなかったが、それでも台詞の断片から推測できることは多い。調査の再開に先駆けて、一旦情報を整理しておいた方がいいのかもしれない。
明は制鞄を手に取ると、素早い動きで黒鉄の脇をすり抜けた。
「話の途中ですまんが、このあたりで俺は失礼させてもらう」
「また誰かと待ち合わせかい?」
「そんなところだ。というわけで、黒鉄のお守りを頼めるか?」
「了解。それじゃあまた週明けに、学園で」
「おいこら、待ちやがれっ! 逃げんのかてめえっ!」
「夜渚くん、シーユーアゲイン!」
「エセ外人みたいになってるぞ、晄」
明は二人に手を振って、残りの一人に呆れ顔を向けて、それから廊下へ飛び出した。




