第二十話 黒鉄は錆び付かない
黒鉄は観客席のベンチを蹴って、虚空へと身を躍らせた。
寄る辺なき体が重力に絡め取られ、下降を開始する。
高低差は四メートル以上。着地をしくじれば命に関わる高さだ。
しかし、黒鉄は着地のことなど一切気にしていなかった。
頭にあるのは"いかにして斬るか"という一点だけ。標的に目を向け、空中でバランスを維持し、柄を持つ手に力を込める。
背筋をエビのように反り返らせると、銀色の刀を限界まで振りかぶった。
観客席の手すりから生み出した、全長三メートル半の大長刀。
原材料はステンレスか鉛だろうが、この際どうでもいいことだ。
どのような素材であろうと、刀になれば切れ味は抜群。強度は鋼にも勝る。それが彼の力だ。
目標は、アホ面下げた蛇女の腰回り。緑の鱗の隙間から、丸々と膨らんだ空気袋が顔を出していた。
見えた瞬間、怪しいと思った。
太鼓のようにも見えるし、乳房のようにも見える。そのうえ口が開いたり閉じたりしているのだから、怪しさ役満だ。
だから、とりあえず、斬ってみることにした。
「馬鹿なっ、また荒神じゃと!? しかもその刀、もしやフツヌシの──!」
蛇女がこちらに気付き、アホ面をさらにアホ臭くする。
いつもなら胸がすくような思いでその顔を眺めていただろう。だが、その時の黒鉄には、そんなことを考えている余裕は無かった。
意識の全てが刀の動きに集約されていく。全身が刀の一部になったかのような、不思議な感覚だった。
今なら何だって斬れる。過信ではなく、そう思えた。
何を斬る? と自問し、浮かび上がった映像は、過去の自分。
込める想いは決別。
まず、今、ここで。恐怖に負けた自分自身を断ち切るために。
「どおりゃああああああああああああっ!!」
咆哮に乗せて、叩き付けるような一撃。
斬撃は蛇女の右手を根元から切り落とし、勢い減らさず下へ。
蛇女のくびれをかすめてさらに降下。空気袋の上端にまで到達した時、クラッカーのような音が響いた。
一つ、二つ、三つと、上から順に空気袋が割れていく。連続する破裂音は、祝砲にも似ていた。
半数以上の空気袋を破壊し、フロアに降り立つ。
少し遅れて、蛇女の右手が床に落ち、乾いた音を立てた。
蛇女が絶叫したのは、その直後だった。
「あ……あああああああああっ!! わ、妾の腕がっ! 体がっ! この美しい肌がっ!」
長い髪を振り乱し、赤子のように泣き叫ぶ。
しかし、どれだけ泣いても助けは来ない。彼女の配下たちは、指一本とて動かさない。
「へへっ、やっぱり当たりだったかよ。思った通りだぜ」
もう、無事な空気袋は数えるほどしか残っていない。放送で流れていた変な音も、ほとんど聞こえなくなっていた。
それはつまり、転校生の言っていた"エフぶんのなんとかかんとか"が維持できなくなった、ということだ。
「さあて、そろそろおねむの時間だぜ、ベイビー。……なんてな」
黒鉄が片手を掲げて指を鳴らす。同時、暗示の途切れた生徒たちが一様に停止した。
誰もが武器を手放し、床に体を横たえて……そして、静かに寝息を立て始めた。
「晄っ!」
倒れ込む晄を転校生が抱き留め、眉根の険を和らげる。相変わらずいけすかない面だが、今だけは許してやることにした。
黒鉄は長刀を持ち上げ、邪気祓いをするかのように振り払う。
それから小さく息を吐き、蛇女の顔を見上げた。
合わせた目から伝わる情念は、憎悪一色に染め上げられていた。
「貴様っ……貴様貴様貴様っ! 自分が何をしたのか分かっておるのか!? この貴き現神を、アメノウズメの柔肌に傷をつけたのじゃぞ!」
「怪我すんのが嫌なら喧嘩なんざ吹っかけてくるんじゃねえよ。殴り殴られが喧嘩の醍醐味だぜ?」
「蛮族どもの慣わしなど知ったことではないわ!」
尻尾が横に振り回される。遠心力でまっすぐに伸びたそれは、円周上にあるものを根こそぎ吹き飛ばすだろう。
巨木のような尻尾は飛び越すこともくぐることもできないし、直撃すれば骨が砕けて内臓がミンチになること請け合いだ。
(つっても、避けれねえんだから受けるしかねえわな)
腹をくくれば覚悟も決まる。開き直りは得意中の得意だ。
黒鉄は長刀を斜めに構え、刃の腹に左手を添えた。
「うつけめ、そのようなもので防ぎきれると思うてか!」
罵声と共に尻尾の速度が増した。黒鉄が息を飲む。
激突。
刹那、黒鉄は肘を限界まで曲げて衝撃を殺し、両足をしっかりと地に着けた。
目的は"受け止める"ではなく"受ける"。その場で止める必要は無い。
体がピンボールのように弾かれ、高速で後ろへとスライドしていく。靴底が摩擦で焼けるような熱を帯びるが、全身粉砕骨折に比べればかわいいものだ。
そのまま壁際まで滑り続け、したたかに背中を打った。
「ぐっ……ちくしょうめ、さすがに無茶だったかぁ?」
ぼやきながら、添えていた左手を軽く振った。
体の痺れが酷い。腕が痛みではちきれそうだ。もしかすると折れたかもしれない。
だが、生きている。
まだ、戦える。
ゆえに、構えは解かず、足は前へ。
なぜなら自分は、立ち向かうためにやって来たのだから。
「そんなもんで終わりかよ、クソ女ぁ! 俺はまだまだ絶好調だぞオラァ!」
己を鼓舞して、全力前進。
既に恐怖は斬った。次に斬るのは、踏み出すことを諦めた自分自身。
退きつつある尻尾の先に追いつくと、縦に一閃。
硬い鱗、厚い肉。強度はサイズに比例する。
だが、そんなものでは黒鉄を止められない。
一刀にて、両断。
輪切りになった尻尾の断面から、シャワーのように血が吹き出した。
蛇女の顔が歪む。苦痛と恐怖と怒りが複雑に混ざり合い、悩ましげな唸り声をあげさせた。
「ぐうっ……おのれがあっ!」
ヒステリックな口調に反して、蛇女の動きは的確だった。
再び伸びる尻尾。今度は薙ぎ払うのではなく、回り込むように。囲い込むように。
……深追いしすぎた。
失策に気付くよりも早く、一切の身動きが取れなくなる。
蛇の束縛。幾重にも絡みつく尻尾が視界を閉ざし、黒鉄を光無き牢獄へと幽閉した。
「ひとおもいには殺さぬ。少しずつ力を入れて、じっくりと絞め殺してくれようぞ……」
薄暗い空間の中、蛇女の低い声が聞こえてくる。
鱗の壁は寒気がするほどに冷たく、体の熱を容赦なく奪う。
締め付けは若干の息苦しさを覚える程度だが、これから徐々にきつくなっていくのだろう。
(腹いせにうんと痛めつけてやろう、ってか? これだから喧嘩慣れしてない女ってのは……)
馬鹿な奴だ、と黒鉄は思う。
自身の優位にあぐらをかいて攻撃の手を緩めるなど、愚策以外の何物でもない。
勝負事は"まさか"の連続だ。絶対的な優勢が一瞬にして消え去るなんて日常茶飯事だし、勝利の女神はいつだって逆転劇を期待している。
黒鉄は目を閉じ、意識を己の内側に傾ける。
暗闇の奥、見えたのは赤い光。彼の中に息づく異能の輝きだ。
光はとても熱く、近づくだけで体が燃えてしまいそうになる。
「力に振り回されてる、ねえ……」
あの転校生は、黒鉄をそう評価した。
そうかもしれないし、そうではないかもしれない。過ぎたことに興味は無い。
ただ、そう言われて腹が立ったことだけは確かだ。
「ああまで言われちゃ、大人しくしてられねえよな」
意を決し、光に手を伸ばしていく。
一瞬、焼けつくような熱に怯みそうになる。が、黒鉄は止まらず、一息に掴み取った。
その瞬間、赤い光が炎に転じた。
「見せてやるよ。これが"力を操る"ってことだっ!」
炎はちぎれ分かれて、無数の火の粉となる。
火の粉に宿るは鋳造の力。ありとあらゆる鉱物を変質させ、黒鉄の武器と成す。
種となる素材は、ポケットの中に詰め込まれていた。
円筒状の鉱物が、ズボンに二つと学ランに二つ。一般的に"空き缶"と称される、アルミニウムの塊だ。
「貴様、何を……!?」
「リサイクルってやつだ。エコロジーだろぉ?」
火の粉に触れた空き缶が、新たな在り様を獲得する。
ただのゴミから、鋭い小刀へ。
それらは狭いポケットには到底収まりきらず、服を破って体を外に突き出した。蛇の尻尾を深々と刺し貫きながら。
「ひぎいっ──!?」
外から誰かの情けない悲鳴が聞こえた。
痛みにもだえる尻尾が、地団太を踏むように跳ね回る。何度か地面をバウンドした後、ようやく締め付けが緩んだ。
「ぐおっ……!」
勢いで投げ出され、尻もちをつく黒鉄。
急いで顔を上げると、蛇女はまだ生きていた。
だが、その表情には恐れが見える。傷だらけの尻尾を隠すように引き下げ、次の一手を決めあぐねている。
そして、がら空きになった正面、蛇女の懐に飛び込む影があった。
男の背中を彩るのは、学ランの黒色でもセーラー服の朱色でもなく、ブレザーの紺色だ。
学ラン指定のこの学園でブレザーを着ている男など、あいつ以外に有り得ない。
「よくやった」
追い越しざまにかけられた言葉に対し、黒鉄は笑って中指を立てた。
「ここまでお膳立てしてやったんだ。──最後はきっちりシメろよ、転校生っ!!」




