第十九話 日の出
神の国高天原の象徴、永劫不変を体現する天之御柱。そこに今、変化が起き始めていた。
御柱の輪郭が突然ぼやけたかと思うと、まるで蜃気楼のように揺らいでいく。
その姿は時間とともに少しずつ霧の中に溶け込んでいき、そしていつしか見えなくなった。後には霧と紫電の残滓が漂うだけだ。
「ほほぉ……御柱を消しちまったかよう。面白いことを考えるもんじゃ」
森の中から顔だけを出した男は、感心したように頷きを繰り返していた。
おそらく、先ほどの現象はフトタマの応用だろう。彼らはこの幽世から御柱だけを切り取って、さらに遠くの次元へ投げ捨てたのだ。
使用された電力は大和三山から引き出されたもの。新たな神代に使われるはずだった莫大なエネルギーを転用したのだから、放逐の規模もそれに伴って大きくなる。
次元の海に深く沈んだ御柱は、もう二度と現世に帰ってくることはないだろう。
「さらばじゃ御柱。さらばじゃ神代。ついぞ叶わぬ我らの夢よ」
一抹の侘しさを歌に乗せ、男は悼む。
この戦いで散っていった多くの者たちを。自分たちが手にかけてきた多くの者たちを。
それが終わると、男は左手の上でぐったりとしている小さな存在に目を向けた。それはヒルコだった。
ヒルコは泥のような体のあちこちから体液を吹き出しており、瞳にも生気は無い。
だが、まだ生きている。彼自身がそれを望んでいるのかは別にして、だが。
「……なぜ、ぼくを助けた」
御柱の消滅から十分ほど経った頃だろうか。これまで沈黙を保っていたヒルコが、ふと口を開いた。
「計画が破綻した以上、ぼくに利用価値は無い。大体、おまえは以前からぼくを嫌っていたはずだ。なのになぜこんなことをした?」
「気にすんな。大した理由じゃねえ」
「よほどの理由が無ければぼくなんかを助けるものか。何が望みだ? 知識か? 技術か? それとも、ぼくの死体を手土産にして荒神どもに取り入るつもりか?」
「やれやれ。お前さんはほんに疑り深い奴じゃのう」
男はだははと笑い、猜疑と怯えに満ちた視線を受け止める。それからしばしの思案を経て、
「そうじゃのう……強いて言うなら、お前さんのことをもっと知りたかったから、かのう」
「……どういう意味だ?」
「俺っちはお前さんのことをよく知らんまま嫌っとった。ろくすっぽ挨拶もしねえで、ただなんとなく信用できん奴じゃちゅうて色眼鏡で見とった。……じゃが、今にしてみればそれが間違いだったのかもしれねえと、そう思ったんじゃ」
胸に寄せた右手が、塞がったばかりの傷跡をこねるように撫でさする。
「俺っちはもっと話をするべきだったんじゃ。俺っちだけじゃねえ。他の現神も、お前さんも、ニニギ様もじゃ。
みんなで腹割って話して、一緒に飯食って、そいつがどんな奴なのか理解していれば、俺たちはもうちっとマシな仲になってたのかもしれねえ。
荒神にしてもそうじゃ。俺たちはハナから奴らを見下して、好き放題にぶっ殺して、挙句の果てにこの有り様よ。俺たちは、俺たち自身の愚かさに足をすくわれたんじゃ」
男はそこで顔を上げ、気さくに声をかけた。
「お前さんもそう思わねえか? のう、武内の」
木々の暗がりから浮かび上がる武骨なシルエット。それは武内のものだった。
武内は全身に小さな傷をこさえてはいるが、その足取りは確かなものだ。彼は隙の無い動きで男の前に来ると、その巨体を上から下までじっくりと見回した。
「剛力の現神タヂカラオ……やはり生きていたか」
「狸寝入りもバレてたかよう。さすがは宿禰の末裔じゃ」
「確信したのはついさっきだ。あれだけの八十神を短時間で滅ぼせる者はそう多くないからな」
「ああ、あれかよう。ほんとは言葉だけで退いてくれれば良かったんだが、八十神はもう俺っちの命令を聞いちゃくれねえからな。
……ちゅうても、これも言い訳にしかならねえか。あいつらをああしちまったのが俺たちなら、これ幸いと利用したのも俺たちじゃ。因果応報よ」
苦笑の中に哀愁を滲ませるタヂカラオ。
武内は物憂げな顔で彼を見つめていたが、今度はヒルコに向かって鋭い視線を投げかけた。
ヒルコは体をびくりと震わせ、しかしすぐに体の力を抜いた。投げやりな吐息が示すのは、諦めの感情だけだ。
「どうでもいいよ。誰が何を考えていようとぼくには関係無い。ぼくにはもう、何も無いんだから」
ヒルコがゆっくりと地面に降りる。
「さあ武内、きみの使命を果たすといい。何一つ成し遂げられず、何一つ手にすることができなかった哀れなゴミを早く処分してくれ。ぼくは疲れたんだ」
萎びた声で自嘲すると、ヒルコは首を差し出すように平伏した。
人面疽に浮き出た表情は、どこか遠くを見据えている。
それは彼が夢想し、されど辿り着けなかった場所。永遠に失われた理想郷を映し出していた。
「……………………」
武内は無言のまま、剣呑な気配を放ち続ける。タヂカラオも真面目な顔で事の成り行きを注視していた。
森の中に奇妙な緊張感が生まれ、張り詰めた空気が限界まで膨れ上がった、まさにその時。武内がようやく反応を見せた。
「ヒルコよ。貴様はヒルコ伝説の結末を知っているか?」
「……は?」
「古事記におけるヒルコの記述は海に流されたところで終わっている。そのくだりは日本書紀においても変わらず、追放されたヒルコの行方を記した歴史書はどこにも存在しない。……だが、民間伝承に目を向ければその限りではない」
武内は視線を遠くに向ける、まるでヒルコの見ていた景色を確かめるかのように。
「一説によると、ヒルコを乗せた葦船は流浪の末に摂津の地に漂着したという。奴はそこで神と崇められ、のちに七福神の一柱……恵比寿の名を戴くことになる」
語る言葉は強く厳しく、しかし厳しさだけではない何かが含まれていた。
「あるいは、貴様もいつかは得られるのかもしれぬ。己の存在を認めてくれる場所。孤独な貴様を受け入れてくれる、真の友を」
再び森に静寂が戻ってくる。
だが、緊迫した空気は既に霧散していた。
「……………………」
しばらくの間、ヒルコは石のように固まっていた。
その時の彼が何を感じ、どのような心境で世界を見ていたのか。それは彼自身にしか知り得ないものだ。
「……絵空事だ。そんな奴が、いるはずがない」
ヒルコが独り、森の奥に消えていく。ボロボロの体を引きずるように。
武内はそれを止めなかった。だが、追うこともなかった。
たった一言、餞別の言葉を発しただけだ。
「明日のことなど誰にも見通せぬ。たとえ神でもな」
周囲の景色が混濁し、急速に現実感を失っていく。幽世が消滅しようとしているのだ。
その時、不意に一陣の風が吹いた。
霧が、晴れる。
いにしえの風景は幻のように消え失せた。そこにあるのは見慣れた街と、人の営みだ。
東の空を見上げれば、山の上から黄金色の太陽が顔を出している。
橿原市に、新しい朝が訪れたのだ。
最終章ここまで。エピローグは数日中に書きます。
その後は冒険学部の例にならってメインキャラの短い後日談的なものを書くつもりですが、とりあえずエピローグを投稿し終えた時点で完結タグを付けさせていただきます。
後日談はおそらく半年後ぐらいになると思います。




