第十九話 現神
「アメノウズメ、だと……?」
明は声を詰まらせるほどの驚きをもって、異形の名前を口にした。
それは、日本神話の中でも特に有名な"岩戸伝説"に登場する女神の名だ。
スサノオの無礼に怒り、岩戸の中に隠れてしまった太陽神アマテラス。彼女を誘い出すため、岩戸の御前で美しい踊りを披露した女がいた。それがアメノウズメだ。
しかし、今目の前にいる化け物は、女神という清廉なイメージにはまるでそぐわない。
とぐろを巻く長大な尻尾は禍々しいまだら模様。上半身は豊満で、長い黒髪は淑やかに湿り気を帯びている。
だが、こちらを観察する瞳は、まるで奴隷か家畜を値踏みしているようだ。
人を惑わし侍らす様は、まさに魔性そのもの。悪しき蛇人に等しいものだ。
(……違うな。神など、いるはずがない。おおかた名前を借りているだけだろう)
否定し、蛇女の正体を考えないようにする。
それより気になるのは、アメノウズメが発した言葉。
八十神。荒神。そして現神。3つの単語全てに共通するのは"神"という響き。
八十神は、あの白い怪人のことだろう。現神はアメノウズメ自身。
(一柱と言っていたが……まさか、似たような化け物が他にも存在しているのか? "オモイカネ"という名も気になるが……それよりも)
こちらを見下すアメノウズメに、鋭利な視線を向ける。
「望美だけでなく、俺まで荒神と呼ぶか。荒神とは、異能を持つ者たちの総称なのか?」
「ほほほ、死すべき輩と語る舌は持たぬ。黄泉の穢れが付いてしまうでな」
「などと言いつつ、こうして話しているだろうが」
「口の減らぬ者よ。どのみちあとわずかの命じゃ、神妙にしておれ」
嘆息し、アメノウズメが動く。
掲げた両手を頭上で交差し、激しく腰をくねらせた。つられるように、蛇の体が左右に振れる。
「さあさ、歌えや踊れや皆の衆! 今宵この時、妾が望むは血しぶき飛び交う神楽舞ぞ!」
周囲に響く催眠音波、その質が変化していく。
揺りかごのようなワルツから、情熱的なタンゴへと。
熱狂は不可視のオーラとなって周囲に伝染する。人の闘争本能を爆発させる、原始のリズムだ。
はじめに応えたのは先頭にいた生徒たちだった。
金属バット、竹刀、木刀、キッチンナイフ。思い思いの武器を手に、明のもとへと殺到する。
「今度ばかりはブルーシートも役に立たんだろうな……」
館内に逃げ隠れできるような場所は無い。
他の出入り口はバリケードによって封鎖されているようだが、観客席のある上階は暗がりになっていてよく見えなかった。
明は視線を右奥、体育準備室へ。
準備室の扉は破壊され、中から発電機らしき重低音が響いている。あの奥にある放送機材が、アメノウズメの催眠音波を学園じゅうに拡散しているのだろう。
音の発生源は、蛇の胴体部分。人垣の隙間から、何かが脈打つように収縮しているのが見えた。
(機材を壊しても、体育館にいる連中の暗示は解けん。やはりあの蛇女を倒すしかないか)
決断してから、自分の思考に苦笑する。
あんな化け物を前にして"倒す"なんて発想が思い浮かぶのは、それこそ馬鹿と狂人だけだというのに。
「望美、入り口のカギを閉めてくれ。外から増援が来るとまずい」
「分かった。夜渚くんは?」
「奴らを迎え撃つ」
言い終える前に、足は戦場へと向いていた。
最前列を走るのは野球部の面々。数は四。
明を至近に見据えると、ステップ一つで扇状に展開。速度を落とさずバットを振りかぶった。
「面倒だ。まとめて転べ」
かかとを落として地面を"揺らす"。
頑丈な木床は腐葉土とは違い、激しい揺れは起こせない。が、野球部である彼らに限れば、わずかな揺れでも十分だ。
接地面積の少ないスパイクシューズ、そして摩擦の少ないフローリング。
計算通り、四人は足を滑らせた。
明は腰を沈めて伸ばした腕を大旋回。流れ作業のようにこめかみに振動を送る。
これで四人撃破。顔を上げると、木刀教師とナイフの少女が迫っていた。
「あなや、まこと賢しき男よな。どやつの系譜か知らぬが、妾の岩戸舞を打ち消すか」
口元に手を添え、観戦を決め込むアメノウズメ。その腰つきが動きを変えるたび、音の韻律も変わる。
「あれだけ偉そうに言っておいて、自分は高みの見物か? いいご身分だな」
「ほほ、安い挑発には乗らぬぞ。戦は卑しき者の役目ゆえ、高貴な妾には向かぬのじゃ」
「高貴ときたか。たしかに、お前の鱗で財布を作れば高く売れそうだ」
「そなたの骸もあまさず役立ててやろうぞ」
倒れ伏す野球部員を乗り越え、教師が木刀を袈裟に薙いだ。
明は左に飛び込み前転回避。狙いすましていたかのように、教師の陰から少女が飛び出した。
「危ないな。こんなものは没収だ」
体を起こさず、足払いを食らわせる。転んだ少女の耳元を揺らし、その手でナイフをもぎ取った。
直後。真上からの木刀を、ナイフで止めた。
「今時体罰は流行らんぞ、先生」
揺らす力を行使する。激しい震えはナイフを伝って木刀へ。
暴れ出す木刀が、教師の握力を振り切った。先端が床とぶつかり、鹿威しのような音を立てる。
今度はナイフを投げ捨て、木刀と交換した。
立ち上がりざま、半円を描くような斬り上げ。教師の腕を跳ね上げて、無防備なこめかみに手を伸ばした。
再び、揺らす。
教師が倒れて、これでまた二人。計六人を倒した。
「見事、見事。ならば、お次はこやつらじゃ」
耳を打つのは雅な拍手。アメノウズメの表情に、焦りは微塵も見られない。
次いで、第三波が襲い来る。そのいで立ちを見た時、明は思わず悪態をついた。
「くそっ、よりによって剣道部か!」
大柄な男が二人。
腕には竹刀。面、胴、小手の三点防具で上半身を丸ごと覆っている。
特に頭の面が難物だ。硬い面金と厚い布が、耳への振動を散らしてしまう。
かといって無闇に出力を上げれば、彼らの体に重大な損傷を与えかねない。耳という器官は、脳に近過ぎる。
どうする、と自問し、自問を重ねた分だけ刻限は迫る。木刀を投げつけ時間を稼ぐが、無駄なあがきだ。
時間切れを示すかのように、男たちが刺突の構えを取った。
明は一瞬背後を振り返り、
「できるか?」
「むしろ得意分野。ここはもう、私の射程範囲だから」
答えたのは望美だった。
彼女は両手を広げ、手のひらを反転させる。
ひとりでにほどける面紐。面と竹刀が持ち場を離れ、空の彼方に飛んでいく。
それに合わせて明は突撃。無いはずの竹刀で突きを放った二人は、その理由を理解する前に意識を手放した。
(これで八人……!)
人垣がだいぶ薄くなってきた。アメノウズメの全身が、よりはっきりと見えるようになる。
蛇の尻尾は電柱よりも遥かに太く、その長さも二十メートルは下らない。ひとたび振るえば、人間など綿埃のように蹴散らされるだろう。
そして、人の身の付け根から一メートルほど下には、コブのような丸い膨らみが左右にいくつか連なっていた。
巨大な尻尾に酸素を送るための器官だろうか。わずかに突き出た先端部分はアメノウズメの動きに合わせ、呼気と吸気を繰り返す。
溜まった空気が吐き出される瞬間、鼓のような音が鳴った。
「なるほどな。全身をアコーディオンに見立てて催眠音波を奏でているのか」
「当たりじゃ。だが、分かったところでどうにもできぬぞ?」
尻尾を鞭のようにしならせ、床を打つ。動きは敵陣後方から表れた。
最前列を守っていた生徒たちが、片膝を立てて屈む。その背をまたぐように弓を構える、十数人の女子生徒たち。
「──弓道部っ!?」
「者ども、はなて! 猪狩りじゃ!」
矢羽が風を切り、悲鳴のようないななきを響かせる。
矢じりは競技用、とはいえ、飛来する殺意は本物だ。当たれば刺さるし、刺されば終わる。
「夜渚くん、伏せてっ!」
悩む間もなく、望美の声に従う。
床に顔をついて、視線だけを上に。見えたのは、右手を盾のように突き出す望美の姿。
「曲がれっ……!」
ささやく言葉は願いではなく命令。生み出す力場が矢の雨を逸らしていく。
しかし、最後の一本が到達する寸前、望美の体がふらついた。
「いかん……!」
望美を床に引き倒し、その上に覆い被さった。
直後、背中に鋭い痛み。
刺さってはいない。ならば問題無いと己に言い聞かせ、望美と共に起き上がる。
「ごめん、助かった」
「スタミナ切れか? なら無理はするな」
「集中が途切れただけだから、まだ大丈夫。……それに、このチャンスは逃せない」
望美の視線は、床に落ちた一本の矢に注がれていた。
「射出っ!」
望美が叫び、発動する念動力。
一度は力尽きたはずの矢が、再び空を駆ける。
狙いはアメノウズメの胴体部……催眠音波を生み出す呼吸器官。
速度も、タイミングも、これ以上ないほど完璧だった。
だが。
「ほほほ……やはり型落ち。浅慮よな」
アメノウズメは動かない。動いたのは生徒たちだ。
隙間無く並び立ち、両手を上げて。アメノウズメを守るように。
……人間の盾。
気付いた時にはもう遅い。
弾けるような音が響き渡り、生徒たちの重ねた手が望美の矢を押し止めた。当然、彼らの血肉を代償にして。
「……っ!?」
望美の口から、声なき悲鳴が漏れた。その目は痛々しい傷と、床を染める鮮血に注がれている。
「おお、怖い怖い。同胞もろとも妾を殺そうというのかえ?」
アメノウズメはこれ見よがしに涙ぐむと、生徒たちに傷口を掲げさせた。罪悪感を煽り立てるように。
見え透いた茶番だが、効果は絶大だった。
望美の表情は固まったまま。その呼吸はさっきよりも荒くなっている。
幸い、太い血管を傷つけてはいないようだが、こちらに与えた精神的なダメージは計り知れない。
「くくっ、くくくく……ほんに血も涙も無いおなごじゃのう。そなたもそう思わぬか?」
「白々しい。初めからそうさせるつもりで矢を放ったな、貴様」
あの状況、見てから指示することは絶対に不可能だった。望美の戦意を鈍らせるために、アメノウズメはあえて攻撃を誘ったのだ。
その証拠に、緩む口元は「してやったり」という喜色に満ち満ちていた。
不愉快だ。非常に。
明は怒りを行動力に変換し、一気に距離を詰めようと……そう考えた矢先のことだった。
「……とはいえ、卑小な荒神にしてはなかなかに面白い余興であった。妾は満足じゃ」
「満足だと? だったら何だ、ご褒美でもくれるのか?」
「遊びは終い、という意味じゃ」
疑問を口にする前に、問いの答えが現れた。
人の波が縦に割れ、奥から一人の女子生徒が歩いてくる。
亜麻色の髪に、温和そうな顔立ち。見覚えのある少女だった。
──新田晄だ。
そして理解する。
想定していた最悪の展開が、ついに訪れたのだと。
「新田さん……!?」
望美が少女の名前を呼ぶ。しかし、晄は答えない。
他の皆と同様、夢うつつのような顔。手にした熊手が、非常灯の光を反射して不気味にきらめいていた。
「顔見知りかえ? それは実に良きこと。話が省けて助かるというものじゃ」
明たちの反応を見て、アメノウズメはいやらしい笑みを強めた。
続く言葉は予定調和の定型句。
「荒神どもよ。この娘の命が惜しくば、大人しくその命を捧げるがいい」
それは、実質的な勝利宣言にも等しかった。
(恐ろしいほどに性格の悪い女だ。こうすることはいつでもできただろうに)
おかしいと思ってはいた。
多くの生徒たちを支配下に置きながら、どうして脅しの材料に使おうとしないのか。それこそ、放送で呼びかければ済む話だろうに。
なんのことはない。今の今までそうしなかったのは、単なる暇潰しのため。
アメノウズメは神楽舞だと言っていた。神楽とは、神に捧げる踊りのことだ。
この自称神からすれば、学び舎を共にする者たちが殺し合う様は、さぞ滑稽な見世物だったに違いない。
「生かして捕えるつもりだったが、方針変更だ。貴様には一切容赦せん」
「ほほう? ならばどうするというのじゃ?」
晄の持つ熊手が、彼女の顔に伸びていく。
鉤爪の先が、眼球のすぐ近くまで来て止まった。
「この女子が自ら目玉を抉り出す様を見たいのかえ? 妾は構わぬぞ? 人質など、いくらでもいるのじゃからな」
「……貴様、ロクな死に方はせんぞ」
「愚か者め。神は死なぬ。朽ちず、滅びず、永久に、この日本の地に在り続ける。なればこその現神よ」
明は奥歯を軋ませ、しかし一歩も動くことはできなかった。
反抗すれば晄が死ぬ。かといってこのまま諦めれば、自分たちに待っているのは死という結末だけだ。
「……夜渚くん、ごめんなさい」
悔恨をにじませるように、望美が声を絞り出した。
無理もない。罠にかけられたとはいえ、自らの手で生徒たちを傷つけてしまったのだ。光だけでなく、この事件に巻き込まれた者たち全員に対して責任を感じているのだろう。
だが、それでは相手の思うつぼだ。今必要なのは自罰ではない。
「望美、君は謝らなくていい。君は悪くない。この俺が言うのだから、間違いない」
「でも、私が巻き込んで……」
「それ以上言うと揉むぞ」
「……どこを?」
「ふむ、永遠の命題だな。その答えを探すために男は生きていると言ってもいい」
「夜渚くんって、結構おじさん臭いよね」
「ナチュラルに罵倒するんじゃない。……ともあれ、少しは気が紛れたか?」
「……ん」
見せた笑顔はぎこちないものだったが、まだ完全に敗北を受け入れてもいなかった。
ひとまず安堵する。が、それはそれとして、状況はまったくもって改善していない。
アメノウズメは晄も含めた学園生、および教師たちの生殺与奪を握っている。
催眠音波さえ止めればどうとでもなろうが、射線をさえぎる人間の壁がそれを許さない。
本音を言うと、手詰まりに近い。
それでも、明は諦めていなかった。
諦められるはずが無かった。というか、諦めることに飽きていた。
この七年は諦念の七年だった。
子供だったから。相手が大きくて、刃物を持っていたから。
自己弁護に自己弁護を重ね、妹を守れなかった自分を慰めてきた。
この町に戻ってきた時、そういう言い訳はやめにすると決めた。
だから、諦めない。最後の最後まで、みっともなくあがき続ける。
今一度誓い、敵に相対する。
……その時、彼の意識はもうひとつの音を捉えた。
「さあ、決めよ! 友のために死を選ぶか、友の屍を踏み越えて妾に挑むか! 好きな死に様を選ばせてやろうぞ!」
アメノウズメが嗤い、配下の生徒たちが戦列を押し上げていく。
手薄になったのは、側面。
側面にあるのは体育館の壁と、上階から張り出した観客席だ。
その死角から、飛び降りる影があった。
携えたるは竿のような長刀。切っ先の残影は、絶えず音を吹き鳴らすコブの連なりを目指していた。
同時に、明は思い出す。
もう一人いた。
荒神は、もう一人いたのだ。
「──そんなもん決まってんじゃねえか。先にてめえをぶっ殺せば、万事解決だぜっ!!」




