第六話 天下分け目の決戦、開幕
それはとても幻想的な光景だった。
きめ細やかな薄霧に霞む世界。周囲にあるのは広い石畳の道路とそれを囲む雄大な原生林、そして天之御柱だけ。
おとぎ話にある巨人の国に迷い込んでしまったかのような錯覚を感じながら、明はわずかに身震いした。
「話には聞いていたが、とんでもないデカさだな……。スクナヒコナ、この塔はどこまで伸びているんだ?」
「雲海の遥か上まで、とだけ言っておきましょう。正確な数字を出すと尻込みしてしまう方がいるかもしれませんし」
「そうか? 俺的にはうんと高い方が燃えてくるぞ。頂上から見下ろす楽しみが増える」
とはいえ、今の自分たちには絶景を楽しんでいる時間など無い。
ここは戦場。世界を滅ぼさんとする現神の膝元なのだ。ここで気を抜くことは飢えた虎の前で昼寝をすることに等しい。
いや、もしかするとそれよりもっと酷いかもしれない。
先ほどからこちらの隙をうかがっている連中は、そこいらの虎より遥かに凶悪なのだから。
「何らかの備えはしているだろうと思っていたが、案の定か。……囲まれているぞ」
道路脇に生い茂る葦の草原が、風も無く揺れていた。
それも一か所や二か所ではない。草原全体が大海のごとく波打っているのだ。
「夜渚くん、敵の数と位置は分かる?」
隣にいた望美が問う。彼女はちょうど地面に下ろしたボストンバッグの口を開けているところだった。
バッグの中には先の尖ったボールペンやハサミやカッターその他諸々がぎっしりと詰められており、黒光りするそれらはさながら武器庫に眠る銃弾のようにも見えた。
(こいつ……どんだけ持ってきたんだ? いくらなんでも程度というものが……いやそもそも、あの短時間でどうやって大量の文具を調達してきた? 文房具店なんてとっくに閉まって……まさか、盗──)
明は頼もしさと同量の恐怖を感じていたが、大事の前の小事ということで強引に疑惑を飲み下すと、
「位置は四方八方、数はたくさんだ。適当に撃っても当たるだろうさ」
「そうなんだ。じゃあそうする」
望美は事もなげに言うと、
「射出っ」
ボストンバッグが高々と打ち上がり、そこから発射された文具が放射状に拡散。
草原に鈍色の雨が降り注いだ。
「がっ!」
「ぎゃっ!」
「かはっ……!」
葦の葉があちこちで血の色に染まり、そこかしこで断末魔の大合唱が生まれていく。
それと同時、草原からおびただしい数の人影が飛び出してきた。獣じみた動きを見せる、白ずくめの怪人たち──八十神だ。
「また性懲りもなく来やがったな雑魚モブども! てめーらなんざ目をつぶってても斬れるんだよっ!」
迫りくる八十神を前にしても黒鉄は動じない。彼はポケットに手を入れたまま、かかとで地面を踏み抜いた。
靴底から飛び散る火の粉。赤熱する石畳。
直後、無数の刀が針山のように突出した。それは八十神たちを下から貫き、百舌のはやにえのごとく串刺しにしていく。
「はっ、しょぼい奴らだぜ。こんな小細工転校生でも引っかからねえってのに」
黒鉄が再度地面を叩くと、今度は二本の刀が傍らに生えた。
両手で引き抜き、左右に広げ、踊るように薙ぐ。それだけでさらに五人の首が飛んだ。
黒鉄は物足りなさそうに刀を揺らすと、
「おい転校生、現神の野郎はどこにいる? まさか尻尾巻いて逃げたってこたぁないと思うが……」
「このあたりに奴らの波動は感じられない。いるとすれば御柱の中だろう」
「大物ぶって高みの見物ってやつか? 気に入らねえ。喧嘩はてめえの手でやるから面白えんだろうが」
「もう勝負はついたと思っているのでしょうね。ま、あちらさんはあと数時間ポッキリで望みが叶うわけですから、ついつい舐めプもしたくなるってものですよ」
遠くで斗貴子の声がした。が、姿は見えない。声のした方を向いても、そこには雲霞のごとく押し寄せる八十神たちがいるだけだ。
「ですから鼻を明かしてやりましょう。私たちの手で、完膚なきまでに」
その瞬間、後方にいた八十神たちが一斉に吹き飛んだ。しかし、やはりそこには何も見えない。
存在しないのではない。速過ぎて視認することができないのだ。かろうじて見えたのは、白く輝く長髪の残影だけだった。
「ですが、こうも数が多いと一苦労ですわね……。このままでは御柱へ辿り着く前に新たな神代が始まってしまいますわ」
歯噛みする倶久理は霊体たちを指揮しつつ、御柱の入り口へと目を向けた。
入り口の手前には傾斜の緩やかな大階段があり、踊り場には数百人規模の八十神が堅固な隊列を組んでいる。
そして、その後ろから出てくるのは足場を埋め尽くすほどの大軍勢だ。一体一体の強さはさほどでもないが、その増加ペースは明らかにこちらの処理速度を上回っていた。
「このままでは圧殺される、か。武内、策はあるか?」
「案ずるな。既に始めさせている」
わずかにマントを翻す武内。背後にちらりと見えたのは、転移の光球を展開している門倉の姿だった。
光球は脈打つような動きと共に、少しずつその大きさを増しているところだ。
「こんな雑魚をいちいち相手にするなんて非効率的よ。ギリギリまで引き付けてから、あなたたちを一気に御柱まで転移させる。いいわね?」
「……"あなたたちを"?」
どこか引っ掛かる言い方に明が眉をひそめる。門倉は額に汗を浮かべながらぎこちなく苦笑を浮かべた。
「悔しいけど、私の力じゃここにいる全員を一度に飛ばすことはできないの。だからといって複数回に分けている余裕も無い。つまり、そういうことよ」
「眞子と蓮は己と共にここで退路を確保する。貴様らは速やかに御柱を制圧し、新たな神代を阻止するのだ」
「……残る? 他の連中はともかく、武内が?」
あまりにも意外すぎる発言に、明は思わず目を丸くした。
「いいのか武内? お前は誰よりも自分の手で決着を付けたがっていただろうに」
「勘違いするな。己は武内家の責務を放棄したのではなく……貴様らに託したのだ」
武内の目が明を見止める。
重圧のこもった視線。しかしそれは以前のように刺々しいものではなく、自然と居住まいを正したくなるような雰囲気を備えていた。
どこまでも我が強く、他人を頼ることの無かった武内。そんな彼が生まれて初めて他人に「託す」と言ったのだ。その重みは推して知るべきだろう。
だからこそ、自分には彼の心意気に応える義務がある。
「できるか、夜渚明? 貴様は己の信頼に足る男か?」
「当然だ。俺より頼れる人間などこの星には存在せん」
「ならば行け。そして証明しろ」
「……言われずとも!」
明が挑むように宣言した直後、門倉が声を上げた。
「準備できたわ! みんな、入って!」
仲間たちが戦闘を中断し、大きく膨張した光球の中に駆け込んでいく。
武内らを除いた全員がギリギリ球の中に収まった時、光が大きく点滅した。
刹那の暗転。
次の瞬間、明たちは大階段の頂上に立っていた。
一歩先には御柱の壮大なエントランスホール。後ろを向けば、イナゴのように群れ蠢く八十神たちの中心に武内が見えた。
「夜渚くん、急ごう」
「分かっているさ。奴なら絶対に大丈夫だ」
確信をもってそう言うと、明は先陣を切って走り出した。
前だけを見て進む彼らの背後からは、いつまでも戦いの音が消えることはなかった。