第四話 それぞれの決意・下
そこは都市部と山間部の境目にある竹林の入り口だった。
付近には山肌を削って作られた住宅街が軒を連ねており、緑あふれる木々は都市開発の煽りを受けて山の上に追いやられている。竹林へ続く丸太組みの階段を見上げながら、武内はそこで足を止めた。
「稲船よ、本当にここで間違いないのだな?」
「ああ。この先に天之御柱へと繋がる結界の入り口がある」
先頭に立つ稲船が視線を返す。
艶のない瞳。情緒の揺らぎを感じさせない無機質な声。武内は未だにこの男が好きになれなかった。
「信じられないといった顔だな。ここまで来て私が嘘をつくとでも思っているのか?」
「万が一ということもある」
「それならスクナヒコナに確かめてもらうといい。フトタマを操る彼女なら門の存在を感じ取ることができるはずだ」
「あやつもあやつで全幅の信頼が置けるとは言い難い」
「会長、駄々をこねるのはその辺にしてください。……スクナヒコナ、お願いします」
険悪になりかけた空気を断ち切ったのはクロエだ。彼女は半目で手拍子を打ち、武内が大人しくなったところでスクナヒコナを促した。
スクナヒコナは息を止め、竹林の奥に手をかざす。そして程なく、満足そうに頷いた。
「この独特の気配はフトタマに連なるもの……それも幽世特有のものです。こんな場所に隠されていたなんて……」
「罠である可能性は?」
「蟲に周囲を探らせていますが、今のところは何も見つかっていません。もちろん、幽世の中に入ってしまえば何が起こるか分かりませんけど」
「ってことは、ここが安全を確保できるギリギリのラインなのね」
遅れて坂道を登ってきた門倉が情報をまとめる。彼女は唇に手を当て、真面目な顔で考え込むと、
「ねえ会長、このあたりで一旦休憩を取らない? ここからは夜渚くんたちと合流してからにした方がいいと思うの」
「副会長に一票。理事長さんの時みたいにいきなり引きずりこまれる可能性が無いとも言い切れませんし」
「えと……僕はよく分からないので暁人様の決定に従います!」
クロエと蓮がそれぞれ意見を表明する。
武内は「む」と小さくうなった後、
「急いては事を仕損じるか。……よかろう。皆の者、今の内に体を休めておけ」
そう言った瞬間、門倉以下数人の口から安堵の息が漏れた。
さすがに長時間歩き詰めだったせいか、疲労も無視できないレベルに達していたようだ。無論、彼らが武内と稲船のペースに無理矢理合わせていたせいもあるのだろうが。
「まったく……馬鹿者どもめ。大人しく家で休んでいればいいものを」
武内は皆に自分を見つめ直す機会を与えたが、門倉たちが選んだのは生徒会として武内に同行することだった。
それがいいことなのか悪いことなのかは分からない。考えようによっては、彼らが親しい者たちと過ごせる最後の時間を奪ってしまったとも言える。
だが、嬉しかったことは事実だ。彼らが生徒会という集まりにそこまでの価値を見出していたのかと思うと、胸の奥からむずがゆいような感覚がこみ上げてくる。
特に意外だったのはクロエだ。実のところ、彼女は生徒会活動にあまり乗り気ではないと思っていた。
もちろん最低限の仕事は果たすだろうが、今回のように危険な戦いに自ら赴くことはないと踏んでいたのだ。
その事を門倉に話すと「人って変わるものよ」と訳知り顔の一言だけが返ってきた。甚だ不可解ではあるが、どうやらそういうことらしい。
武内は頭をひねると、思い思いに休んでいる生徒会の面々から目を離す。
と、その拍子に稲船と目が合った。彼はちょうど強張った面持ちでスマートフォンを耳に当てたところだった。
「誰に電話を掛けようとしている?」
「心配するな。間違ってもヒルコではない」
「たわけが、貴様がそこまで大胆不敵な輩だとは考えておらぬ」
心持ち早口で弁解する武内。
稲船は少し訝しんでいたが、すぐに興味を失ったようだ。彼は小さく噛みしめるような声で、
「彼女にもう一度私の気持ちを伝えておきたい。それだけだ」
武内は何も言わなかった。しかし、同時に稲船を止めることもなかった。
数秒後に電話が繋がると、武内の耳にもかすかに女性の声が聞こえてきた。それに合わせて、稲船の瞳に光が戻っていく。
「……ふん」
それを確認した後、武内は稲船から音も無く離れていった。稲船は未だ監視対象とはいえ、これ以上聞き耳を立てることは無粋の極みだと思ったのだ。
恨みはある。断じるべき罪も消えてはいない。
しかし……だからといって、この掛け替えのない時間を壊してもいいとは思えない。
正確には、"思えなくなった"だ。
「あっ、暁人様! これからみんなの分のジュース買いに行くんですけど、暁人様はいつもの緑茶でいいですか?」
「うむ、そうだな……蓮は何を買うつもりだ?」
「僕はイチゴミルクです!」
なぜか誇らしげに宣言する蓮。武内はそんな蓮をしばらく眺めていたが、
「では、己も同じものを頼む」
「えっ……いいんですか? この前は『あんな甘ったるいものが飲めるか』って言ってたような気がするんですけど」
確かにその通りだ。甘味が嫌いというわけではないが、度を越した甘さは和食派の武内の舌には合いそうもない。
だが、そうでない者もいる。
ひょっとすると、慣れれば意外と美味しいのかもしれない。
談笑するスクナヒコナとクロエ、そして稲船の穏やかな声を背に、武内は顔の険を緩めた。
「構わぬ。……あるいは己も、変わらねばならぬ時が来ているのやもしれぬ」
*
明は滅茶苦茶になった園芸スペースの前にかがみ込んでいた。
花壇を見つめる彼は無言のまま、崩れた畝に指を這わせる。土をすくうと、指に貼り付いたそれは風に吹かれて瞬く間に消えていった。
「夜渚くん、こんなところにいたんだ」
「……望美か」
明は体を動かさず、背後に立つ気配に意識だけを向ける。
「おいすー」
「……なんだその奇声は」
「巷ではこういう挨拶が流行ってるみたいだから、便乗してみた」
「ひと昔どころかふた昔くらい前の話じゃないか? トレンドに乗り遅れ過ぎだぞ」
「田舎の流行は遅れてくるものだから。最近はまたルーズソックスが流行り始めた」
「時空が歪んでるんじゃないか……?」
明が左に寄ると、空いたスペースに望美が入ってきた。明と同じように腰を落とし、足元の惨状に目を向ける。
「見ろ。晄はここでヒルコに襲われたんだ」
「どうしてそう思うの?」
「こんな奥まった場所を好き好んで荒らしに来るような人間は滅多にいないからな。野良猫の仕業にしても荒れ過ぎているし、不良がたまり場にしていたのならゴミの一つや二つ落ちているはずだ。大方、俺たちを探すついでにこいつの様子を見に来たんだろう。そして乗っ取られた」
花壇の脇には横長のプランターが一つだけ、ちょこんと置かれていた。
ここに来たばかりの時は横倒しになっていたが、今は明の手によって定位置に戻されている。
咲いているのは幾分遅咲きのコスモスの花。おそらく食堂裏に生えていたあの苗を植え替えたものだろう。
かつての日陰者たちは晄の助けによって日向へと導かれ、そして今、見事に花開いていた。
「だが、今回はその優しさが裏目に出た。標的がわざわざ自分から目立たない場所に来てくれたんだ、ヒルコも笑いが止まらなかっただろうな」
「夜渚くん、もしかして怒ってる?」
「怒っているとも。誰でもない俺自身の間抜けぶりにな」
感情に任せた拳が打ち下ろされる。
「ヒルコの狙いが前もって分かっていれば、手の打ちようはいくらでもあった。あいつが荒神だということに気付けなかった俺のミスだ」
「それについては仕方ないと思う。私だって知らなかったし、新田さんも私たちの事情なんて知らなかったはず」
「だが現実としてあいつは危機に晒されている。知らなかったでは済まされん!」
とても不愉快な気分だった。
明にとって身近な人間を亡くすことは耐えがたい苦痛と、何より屈辱を伴う。だからこそ彼は妹の死に対して責任を感じ、二度と同じことが起きぬように己を高めてきた。
そう、失わせてはならない。
自分の周りにいる人々はすべからく平穏無事でいるべきだ。その前提が守られている限り、明は明を誇りに思えるのだから。
拳を絞るように握り込み、痛みと共に怒りを刻み込む。
そこから勢いよく立ち上がろうとして……それの存在に気が付いた。
「……これは」
視線の先、花壇の端っこが少しだけ抉れていた。
他の場所のような混沌とした荒れ方とは違う。明らかに何者かの意図を感じさせる抉れ方だ。
「文字、か?」
轍のような跡は細く長く、まるで誰かが指先で描いたようにも見える。
その模様を既存の文字に照らし合わせるとすれば、カタカナの「タ」が最も近いだろう。
「晄の……ダイイングメッセージか」
「夜渚くん、気が早いよ。新田さんはまだ死んでないから」
「ニュアンスが伝わればいいんだ。細かいことは気にするな」
これが晄の手によるものだとすれば、それは彼女の心からの叫びに他ならない。
彼女はここでヒルコに体を侵されながら、最後の力を振り絞ってメッセージを残したのだろう。
「タ」から始まる言葉。そして晄が伝えたかったこと。
その時の明に思い浮かんだのは、とてもシンプルな一言だった。
「"タスケテ"、じゃないかな」
「……!」
そう口にしたのは望美だった。
彼女は少しだけ得意げに、意地悪そうに、そして明に笑いかけるように、
「助けて、だってさ。どうするの、夜渚くん?」
「……………………そんなもの、決まっているだろう」
明は笑っていた。それは決して頭がおかしくなったのではなく、彼はただ純粋に喜びを表現しているのだ。
やはり晄は分かっている。そんじょそこらの馬鹿どもや意地っ張りとはモノが違う。
「逃げて」ではない。
「私のことは忘れて」なんてヒロインぶった台詞でもない。
晄は、助けを求めてくれたのだ。
それは実の妹ですら言ってくれなかった言葉であり、明が一番望んでいた言葉だ。
ならば何の問題もない。自分はいつものように、なすべきことをなせばいい。
「待っていろ晄。この俺の手にかかれば、お前はもう助かったも同然だ!」
なぜなら、明の目の前で誰かが犠牲になることなど──もう二度と、絶対にありえないのだから。




