第十八話 スニーキング
学園の中央に、一本の線が引かれている。
敷地の東西に長く伸びるそれは、茶色のグラウンドと白亜の校舎を区分けする、学生用の遊歩道だ。
幅広の歩道は暖かみのあるクリーム色に舗装され、道路脇には青々とした観葉樹が立ち並ぶ。
『休日は食堂の扉を開放してオープンテラスに早変わり! 生徒たちの憩いの場所です!』
……と、パンフレットには記載されている。
白い霧が満ちる中、遊歩道の東側を歩く人影があった。高臣学園の生徒たちだ。
学年、性別、服装、全てが不揃い。中には水着の者まで混じっている。
統一感に欠ける混成部隊は、数メートル毎に停止し、機械的な動きで首を左右に回す。
右。左。首を戻してまた歩く。
軍隊のように正確なルーチンだが、それにしては覇気が無い。どちらかというと、几帳面なゾンビに近い。
観葉樹の枝に灯った青い光が、ことさら彼らの不気味さを助長していた。
生徒たちは近くに標的のいないことを確認すると、遊歩道の西側へと抜けていく。
それから一分ほど経って、明は望美に声をかけた。
「もう出てきていいぞ。近くには誰もいない」
道端に放置されていた幕のような物体が、にわかに蠢いた。
幕をめくって顔を出したのは、明と望美だ。
グラウンドの隅にあった、雨よけ用のブルーシート。それを隠れ蓑にして、彼らは移動を続けていた。
「凄いね、シート効果。誰にも見つからずにここまで来ちゃった」
「正直、この程度の偽装に引っかかるとは思わなかったがな。催眠状態だと知能も低下するようだ」
互いにシートの端を持ち、小さく綺麗に折り畳む。適当に畳むと、移動の際に大きな擦れ音が鳴ってしまうのだ。
「職員室の次は放送室だったな。この先でいいのか?」
「うん。南館の一番東側」
そこまで言って、望美はシートのしわを伸ばしていた手を止めた。
「……でも、職員室をもっと調べなくて良かったの? 夜渚くん、窓に近付いただけで『違う』って決めつけてたけど」
望美は不安そうな顔で今来た道を振り返っていた。二度手間になることを恐れているのだろう。
彼女がそう言いたくなる気持ちが分からないわけではない。
なぜなら明は職員室に入っていない。校舎の外から窓越しに、加えてカーテン越しに耳をそばだてただけだ。
しかし、明は自分の聴覚に絶対の自信を持っている。ゆえに、こう答えた。
「問題無い。職員室からは物音が聞こえなかった」
「耳、いいんだね」
「そうだな。……いや、どうだろうな」
「……そこは、疑問に思うところ?」
「すまん、言葉が足りていなかったな。耳のおかげではないのかもしれない、という意味だ」
「それって、例の力?」
「確証は無いが、他に説明がつかん」
コンパクトになったシートを受け取ると、放送室を目指して出発。
明の歩調に迷いは無い。霧で視界が隠れていても、音を頼りに進んでいけば、敵の居場所を知ることはできるからだ。
「基本的な聴力だけを論ずるなら、一般人とさほど違いは無い。だが、ひとたび集中すれば……何倍にもなる」
明は意識を研ぎ澄ます。頭に浮かぶ幻像は、水面に落ちる一滴の雫。
次第に、五感が拡張されていく。"耳で聴く"から、"全身で感じる"へと。
嵐のように打ちつける、大小雑多な音の波。それらを分析し、分類し、それぞれラベルを付けていく。
「グラウンドの外周を十数人が哨戒しているな。靴音はほとんどがスパイク、スニーカーも混じっているようだ。
校舎周りを巡回しているのは先ほどの連中だけだが……校舎の中は完全にモンスターハウスだ。いったい何十人いるんだ……?」
「……………………」
望美はしばらく絶句していたが、我に返ると、
「体育館は? そっちも候補の一つだったよね」
と、返してきた。
こういった切り替えの早さは彼女の強みだな、と思いつつ、体育館の方に意識を動かした。
「……どう?」
「出入り口が閉め切られているせいか、あまりはっきりとしたことは言えんな。多人数が潜んでいることは間違いないと思うが」
「じゃあ、そっちは後回しにしよう。……と、着いたよ」
気付けば二人は遊歩道の終着点、校舎の東端近くに到着していた。
ここから左に曲がると東昇降口。真っ直ぐ進むと体育館や武道館、プールといった運動用の施設が並ぶ区画に入る。
目的の放送室は、南館の一階。東に突き出た先端部分にあった。
手振りで望美を待機させ、明は一人で前に出る。
ヤモリよろしく壁際に手をつくと、窓の外から室内の様子を探る。カーテンは閉まっていなかった。
分厚い防音ガラスの向こうには、薄暗いスタジオが広がっていた。
メカメカしい機材の山とメタリックなテーブル、あとは横倒しの丸椅子。人の姿は無い。
奥には録音ルームも見えたが、そちらも無人だった。
苦い顔と共に、両手で×印を作る。望美は「どんまい」と唇を動かしながら、こちらにやってきた。
「駄目だな。はずれだ。明かりすら点いていなかった」
明が首を振ると、望美はなぜか不思議そうに、
「……それ、ちょっとおかしい」
「おかしい? なぜだ?」
「この時間帯って、放送部員が好きな曲を流してもいいことになってるから。テスト期間でもない限り、誰もいないなんてことはあり得ない」
「催眠術にかかって出て行ったんじゃないか?」
「律儀に電気を消して?」
「……むう」
口ごもる明をよそに、望美は窓に駆け寄った。
つま先を垂直に立てて、足りない高さを補う。その様子を、明は後ろから眺めていた。
無駄なぜい肉の無い、綺麗な足だ。こう見えて鍛えているのだろう。
小ぶりなふくらはぎからシャープな微曲線を描くふとももへ視線を移し、くびれのラインに沿って広がりを見せるスカートへと目線を上げて、
「……夜渚くん、どこ見てるの?」
「気にするな。見えてはいない」
「よかった。見えてたら夜渚くんを殴らなきゃいけないところだった」
「そう自虐的になるな。もっと自分に自信を持て」
「うん、レッドカード。退場」
「褒めているつもりなんだが……」
「セクハラ親父に甘い顔をしてるとすぐにつけあがるってお母さんが言ってた」
望美は背後を何度も振り返った後、窓に顔をくっつけ、すぐに離した。
「電気のスイッチ、オンになってたよ。たぶん機材も」
「ということは、停電していたのか。これは盲点だったな……」
どうやら、霧の壁は人の出入りだけでなく、外から来る電気の流れも止めているようだ。
しかし、放送を流すためには電気が不可欠。
個々のスピーカーは災害時用のバッテリーで動いているにしても、放送機材を動かす電力は必要になるはずだ。
「望美、発電機はどこに置いてある?」
「知らない。でも、発電機って石油とか使うし、結構危ないものだよね? そういうものは倉庫に保管してるんじゃないかな」
「倉庫はどのあたりに?」
「体育館の裏」
「決まりだな。敵は体育館だ」
かかとを軸に半回転。東を向いた明が見上げたのは、体育館の高い屋根。
小走りに道を横切り、低い段差を登る。体育館の壁面沿いに十メートルほど進んで、金属製の大扉の前で立ち止まった。
扉に耳を当て、内部の音に耳を澄ます。
聞こえるのは大勢の呼吸音。そして、例の音だ。
スピーカー越しではない、生の音。
……ここだ。
胸元に手を置いて、鼓動を数える。
準備は万端、とは言い難い。
敵は数多く、こちらはたったの二人。操られている者たちの身を案じれば、策を巡らす時間すら惜しくなる。
だが、退くことはできない。退けないのだから、考えたって仕方無い。
明は左手でスリーピースを作り、後ろ手で望美に見せた。
一拍。
スリーピースがツーピースに変わる。望美が深呼吸する音が聞こえた。
一拍。
ツーピースは一本指に。明の右手が扉に触れた。
一拍。
「行くぞ」
一本指を固く折り曲げ、拳を作った。
左手を握り込んだまま、右手で扉を開け放つ。固い引き戸がレールを疾走し、ドラムロールのような音に空気が震えた。
間髪入れず、突入。
最初に聞こえた音は、頭上からだった。
足音二つ。こちらを左右で挟むように。
「右上ッ!」
瞬時に指示して、自身は左上を向く。
観客席の手すりを越えて、飛び降りたのは白いシルエット。手には短刀。
助かった、と思った。生徒や教師と違って、手加減の必要が無い。
「はっ!」
左拳でアッパーカット。
拳の先が怪人の足先をかすり……その体を、大きく振動させた。
もんどりうって倒れる怪人。背後でも同様に、何かが床にぶつかる音。
見れば、こちらも怪人が倒れていた。他と揃いの白装束だが、胸部を赤く染めている。
その手に携えていたであろう短刀は、返り血を振り払うように回転して、望美の傍に留まった。
死した二人の怪人、その肉体が、溶けるように消えていく。
炎天下に放置したアイスクリーム。そんな想像をして、気分が悪くなった。
感傷を殺し、意識を戦いだけに注ごうとして……その時、誰かの声が聞こえた。
「ほう……此度の荒神はオモイカネのみと聞いておったが、もう一人おったのかえ?」
歳経た女の声。
艶めかしいが、総毛立つような酷薄さも備えていた。
「八十神どもを一蹴とは、まこと剛毅なものよな。ふふふ、妾も久方ぶりに昂ってきよったわ」
暗幕の薄闇に閉ざされた体育館の中央。数十人の武装生徒に囲まれながら、大きな影が身じろぎした。
その形は、蛇に似ていた。
とてつもなく巨大な、蛇。その先端に蛇の頭は無く、代わりに女の体が生えている。
蛇身の女は赤い唇を弓のように曲げると、光る瞳でこちらを見た。
「だが、ここまでじゃ。この現神が一柱──アメノウズメが、そなたら荒神を黄泉路へ導いてくれようぞ」