第十一話 神子
稲船が最初に狙ったのはスクナヒコナだった。
一瞬で懐に入り込み、突き刺すような手刀を放つ。それはスクナヒコナのみぞおちに吸い込まれ、その体を貫こうとするが、
「馬鹿者! 呆けておる場合か!」
すんでのところで武内がスクナヒコナを突き飛ばした。
「くっ……かはっ! ごほっ……!」
華奢な体が屋上を転がり、スクナヒコナが苦悶にうめく。
腹部にはうっすらと血が滲んでいたが、致命傷には程遠い。だというのに、彼女の顔は死人のように蒼白だった。
「スクナヒコナ! 大丈夫か!?」
力なく横たわる彼女を抱え上げる明。
「だいじょうぶ、です。これは……肉体的なダメージでは、ありませんから……」
スクナヒコナは小さな空咳を吐きながら、弱弱しく口を開いた。
「これは……ニニギの異能によるものです。かの力は、ヤサカニにも影響を及ぼすんです」
「ヤサカニだと? つまり、今のお前は……」
「異能の出力が半減している、ということだ。その女の力は何かと厄介だからな。あらかじめ手を打たせてもらった」
淡々とした稲船の声。
彼は自身の優勢を誇るでもなく、ただ事務的に言葉を続ける。
「我が力は万物の生命力を支配する。強めることも弱めることも思いのままだ。そして君たちも知っているように、異能とはヤサカニが引き起こす生理現象の一種だ。力の源泉であるヤサカニを不活性化すれば、それに伴って異能も弱まっていく」
スクナヒコナは呼吸だけで精一杯といった感じだった。ヤサカニと核とする現神だけに、ヤサカニの不調がそのまま体調に現れるのだろう。
この様子では戦いに参加などできそうもないし、できたとしても蟲を攻撃に使用するほどの出力は出せそうにない。
明とて他人事ではない。稲船の攻撃がかすりでもしたら、明の異能も同様に弱体化してしまう可能性は十二分にあるのだ。
「要はデバフか。意外とみみっちい戦い方をする奴だ」
「何とでも言うといい。殺し合いに美学を求めるのはロマンチストだけだ」
「他人の目を気にしなくなったら人間おしまいだぞ?」
「あいにく私は人の子ではないようでね」
そう言った瞬間、稲船の背後に黒い影が現れた。息吹永世を発動した武内だ。
「人の心を捨てたのならば、こちらも遠慮は要らぬな。卑しき鬼は鬼らしく、地獄の底へと帰るがいい!」
空気を根こそぎ巻き込むような拳撃。
とてつもないパワーとスピードを備えた一撃を、稲船は真っ向から受け止めた。というか、打ち返した。
「はっ!」
振り向きざまのカウンターパンチが武内の拳を迎え撃つ。
威力はほぼほぼ五分と五分。拳と拳が激突し、圧縮された空気が衝撃波となって乱気流を生む。
「そんなものか、武内暁人。これでは武内源助も浮かばれないな」
「よりにもよって貴様が祖父を語るか!」
拳を解いた武内は両手で稲船を捕らえようとする。
対する稲船も同じ動きを取り、二人は取っ組み合うような姿勢で停止。
互いの力はまたも拮抗しているように見えたが、それを見たクロエは一も二もなく武内に警告した。
「会長、挑発に乗っては駄目です! すぐに離れてください!」
「……っ!」
何かを察した武内が強引に手を放し、一旦こちらに戻ってくる。
稲船はすぐさま追いすがろうとするが、明が牽制するように手を伸ばすと慎重に距離を取った。強化された肉体とはいえさすがに振動波は怖いのだろう。
「威勢よく啖呵を切った割には消極的だな。まさかその図体で小心者なのか? それとも武内家の誇りとやらはその程度なのか?」
冷笑を浮かべる稲船。武内は今にも飛び掛からんばかりの勢いで歯を剥いているが、そのたたずまいには早くも疲労の色が見える。
それもそのはず。武内の波動……いわば生命力は、先ほどの攻防を経て大幅かつ急激に弱まっているのだから。
「何やってるんですかアホ会長。異能持ちじゃなくても触れたらまずいのは変わらないんですよ?」
「分かっている。だが己が相手をする以外に方法は無い。貴様らが稲船の動きに着いていけるとも思えぬ」
半分は言い訳だが、もう半分は本音なのだろう。武内は息を切らせながらも前に出て、稲船の動きに目を光らせている。
クロエはこれ見よがしにため息をつくと、一転して微笑を浮かべた。
「だからって一人でイノシシアタックする必要はありませんよ。こっちはまだ三人もいるんですから、力を合わせて立ち向かいましょう」
「あのー、俺もいるんだけど……」
「オタク先輩は役に立たないので下がっててください」
「はーい……」
スクナヒコナを背負った木津池がとぼとぼと屋上の端に歩いていく。
クロエはそれを見送った後、ゆっくりと前を向く。
そうして彼女は稲船の暗い瞳を気丈ににらみ返すと、
「見ててください、夜渚先輩。……私は、この戦いを正しく終わらせてみせますから」