第九話 孤烏奮闘
こがらすふんとう、と読みます。
その頃、別区画では数人の八十神が霧の廊下を歩いていた。
非戦闘状態にあるためか、その動きは非常に緩慢なものだ。しかしそれは同時に慎重と言い換えることもできる。
彼らは互いに死角を補いながら、何かを探すように視線を巡らせていた。
十字路をぐるりと見渡し、空き教室に顔を突っ込み、時には階段の陰にまで目を凝らす。
たっぷり数分をかけた哨戒活動を終えると、八十神たちは揃って別の区画へと去っていった。
その姿が霧の向こうに消えてから、どれくらいの時間が経過しただろうか。ある教室の片隅で、かすかな物音がした。
「……行ったようですね。探し方が案外雑で助かりました」
悲鳴のような軋みと共に、掃除用具入れの扉が開く。
まとわりつく埃を払いながら出てきたのは、長い金髪をたくわえた小柄な少女。神崎クロエだ。
クロエは手櫛で髪を梳くと、指の間に残った抜け毛を手のひらに乗せる。それから扉をゆっくり開けると、廊下に向かって髪の毛を吹き飛ばした。
光る金糸がふわりと宙を舞い踊る。
それは見る間に輪郭をぼやけさせ、応じて光も黒く滲んでいく。まばたき程度の時間を経て、それはカラスの形を取った。
これが彼女の分身たるヤタガラスを生み出す手順だ。個人的には中々ロマンチックなやり方だと思っているが、一度蓮から「孫悟空みたいだ」と失礼なことを言われてからは人に見せないようにしている。
「さあ、行きなさい。あなたたちが頼りです」
優しい声で語り掛けると、主の意を汲んだヤタガラスたちは一斉に飛び立っていく。その姿を見届けた後、クロエもまた移動を開始した。
今、クロエの五感は幽世内部を飛び回る数十羽のヤタガラスと同期されている。それらの情報を統合すれば、八十神に出くわさない安全なルートを見つけることはさほど難しくない。
彼女の脳内ではこの広大無辺な幽世の各階層、および空間のねじれやループ構造まで網羅した緻密な四次元地図が完成しつつあった。
「やはり情報は力ですね。彼女の話を聞いてなかったら、現状の把握にもう少し手間取っていたことでしょう」
幽世の存在については以前からスクナヒコナが口にしていた。
現神の居城"天之御柱"を封じる結界にして脱出困難な次元の牢獄。聞いていたものに比べれば随分こじんまりとしているようだが、それでも人を迷わせるには十分すぎる規模を有していた。
「ですが、もはや神秘は暴かれました。この幽世の最上層、全ての起点となる場所は……この先です」
指さす先には細い袋小路があり、そこには青銅色の重そうな鉄扉が佇んでいた。
扉はぴったりと閉じられ、隙間からは一筋の光すらも漏れてこない。
だが、カギは閉められていないようだ。ドアノブをわずかに回して、その滑らかな手ごたえにクロエは深く頷いた。
「さて、これからどうしましょうか……」
ここが結界の要であることは間違いない。が、自分一人が飛び込んだところで一体何ができるだろうか。
どのような危険が待ち受けているか分からないし、結界を直接どうこうする力も自分には無い。順当に考えるなら仲間との合流を優先すべきだが……
「そうそう上手くいかないのが現実なんですよね。ええ、分かってますとも」
クロエは目を閉じ、付近に潜むヤタガラスに意識を移す。
瞼の裏に投影された画像には、廊下を練り歩く八十神たちが映っていた。こちらの動きを察知したのかは不明だが、このままいけば彼らは程なくクロエを見つけ出すだろう。
やり過ごそうにも近くに身を隠せるような場所は無く、先ほど通った分岐路まで引き返すのも時間が掛かる。
「……どうしましょうか」
もう一度つぶやき、思わず苦笑を浮かべた。
こんな時、いつもなら必ず誰かが答えを返してくれたはずだ。それを自然と受け入れている自分に気付き、また苦笑。
柔軟性の欠片も無い頑固会長に、吹かれっぱなしの風見鶏のような副会長。そしてハムスター並に単純な同級生。最近はそこにひねくれお馬鹿なシスコン先輩や、自信が服着て歩いているようなスカした先輩まで加わってきた。
色々とやかましい人たちに囲まれていたせいか、いつの間にか隣に誰かがいてくれるのが当たり前だと思っていた。本当はとても得難いことだというのに。
「少し、甘え過ぎていたみたいですね。自分のことは自分で何とかする。絶対に他人を頼らない。それが私だったじゃないですか」
自分自身に言い聞かせ、頬を叩いて気合を入れる。
元来、人は孤独なものだ。今さら一人を怖がったところで意味は無い。
(それに……どうせあの人は放っておいても助けに来てくれるでしょうから)
口元だけでくすりと笑うと、体当たりをするように扉の中へ転がり込んだ。
「……っ!」
入ると同時、後ろ手で乱暴に扉を閉める。そしてすぐさま周囲を確認。
そこは学園の屋上だった。
吹き抜ける風は心地よい冷気を含んでおり、うっすらとした霧のヴェール越しに学園祭の夜景が広がっている。
しかし、クロエの目にはその光景がガラスのように透き通って見えた。まるでホログラフィーだ。
「ここは、元の世界? それとも……」
グラウンドを見下ろせば、半透明の人々が半透明の屋台を巡ったり、半透明のステージに立つMCに野次を飛ばしている。
クロエはその様子を不思議そうに眺めていたが、
「正確には"手前"だ。薄皮一枚隔てた向こうに君の知る現実世界がある」
背後からの声を受け、飛び跳ねるように反転。声の主を鋭く見据えた。
「まさか君が一番乗りとはな。てっきり武内暁人か夜渚明が来ると思っていた」
「軽く見られたものですね。小便臭い小娘に出し抜かれたことがそんなにショックですか?」
「侮っていたのではなく、単純にポテンシャルの問題だ。索敵に特化した君の異能では八十神を相手取ることは不可能に近いからな」
「だったら相手にしなければいいんですよ。私は夜渚先輩と違って余計なトラブルに首を突っ込まない主義なので」
「なるほど、それが君の得た教訓か」
冷たい靴音を響かせ、男が姿を現す。
硬く、動きの乏しい表情筋。暗色のスーツも相まって、そのいで立ちはマネキンのようだ。
高臣学園理事長、稲船隆二。もしくは荒神ニニギと呼ぶべきか。
「神崎クロエ。日本人の父と英国人の母の間に生まれ、生後間もなく日本に移住する。幼少の頃から神がかり的な直感を発揮しており、小学校時代は失せ物当て等で周囲の注目を集めていたようだが……」
「調べたんですね。私の過去を」
「新入生のプロフィールはあらかた頭に叩き込んでいる。過去に問題を起こした生徒などは、特に念入りにな」
「問題、ね。まあ否定はしませんけど」
そっけない表情で肩をすくめるクロエ。
彼女にとって過去の出来事は怒りを呼び起こすようなものではない。それはただただ虚しく、そして自身の間抜けさを改めて思い知らされるだけだ。
当時の自分は本当に馬鹿だった。異能の力に酔いしれて、自らの特別さをひけらかすように友人たちの頼みを聞いていた。
失せ物当てといってもしょせんは小学生の落とし物だ。グラウンドや通学路にヤタガラスを向かわせれば数分で見つけることができる。
はっきり言って直感でもなんでもないが、種さえバレなければ手品は魔法と同義である。
結果として彼女はクラス中の羨望の的となり……そして、あっけなく失墜した。
『ねえ、もしかしてクロエちゃんが盗んだんじゃないの?』
誰が言ったのかは覚えていない。しかし、誰もが少なからずそう思っていたのだろう。
疑惑は集団心理と子供ながらの思い込みによって真実となり、クロエは嘘つきの烙印を押されることになった。
どれだけ否定しても友人たちは信じてくれなかった。大人は知らぬふりを決め込んだ。両親は仕事で忙しく、まともに取り合ってくれなかった。
全てが終わってしまってから、クロエはようやく理解した。
この世の真理を。
他人など、信じるべきではないのだと。
「自業自得ですよ、あれは。夢見がちな馬鹿女が調子に乗って自爆した、ただそれだけです。おかげで一つ大人になれました」
「……それが本心とは思えないがな」
どこか咎めるような視線がクロエを射抜く。
「出る杭は打たれると分かっていながら、なぜ君は生徒会に入った? なぜ三輪山で命を懸けた? 武内の庇護を求めるにしても、いささか首を突っ込み過ぎのように思えるが」
「カウンセリングはお呼びじゃないですよ。それとも正直に言ったら見逃してくれるんですか?」
「そういうヒネたところは夜渚明にそっくりだな」
「でしょうね。プライベートでは"お兄ちゃん"って呼んでますから」
信じられないものを見るような目で固まる稲船。
その隙を突いてクロエは問いを重ねた。
「理事長さんこそ、どうしてこんな中途半端なことをしてるんですか?」
「中途半端……?」
「私の過去を知ってたってことは、私が荒神だって入学時点で気付いてたはずですよね? どうしてすぐにでも殺そうとしなかったんですか? いえ、そもそも……どうしてあんなに怒ってたんですか?」
「言っている意味が分からないな。それに、私が怒っていただと?」
「さっきの言葉、まるで『大人しくしていれば見逃してやれたのに』って言ってるように感じました。新たな神代があなたの全てなら、そんな非効率なことをする必要はありませんよね」
「何が言いたい」
「大人のくせにわざわざ教えてもらわないと自覚できませんか? それとも意固地になってるんですか?」
「……私を懐柔するつもりなら無駄なことはやめた方がいい。今の私は彼女のために全てを捨てる覚悟を決めている」
「だったらこんな無駄話に付き合う意味もないんじゃないですか?」
「それもそうだな。では、さらばだ神崎くん」
風が動く。
身構える間もなく、稲船が至近距離から貫手を放っていた。
「せめてもの情けだ。一撃で生命活動を停止させてやろう」
「余計なお世話。十五の身空で散る気はありませんよ──!」
胸元に忍ばせていた毛髪が光を帯びる。
直後、貫手の射線を遮るようにヤタガラスが現れた。
「くうっ……!」
激痛に歯を食いしばるクロエ。
使い魔の挺身はわずかに攻撃の威力を殺し、その命と引き換えに主のダメージを軽減した。
だが、軽減されたのは肉体的なダメージだけだ。ヤタガラス一羽分の死がクロエにフィードバックされ、金槌で殴られたような痛みが全身を駆け巡った。
「使い魔を緩衝材にして致命傷を防いだか。だが、その様子を見ると何度も使える手段ではないようだな」
「そうでもないです。雷が落ちた時に比べれば屁みたいなものですから」
二発目が来る。
しかし、今度は想定済みだ。数羽のヤタガラスが背中を掴み、クロエを真横に放り投げる。
クロエは前転しながら距離を取り、再び稲船と対峙。既にヤタガラスは屋上全体に増えていた。
「小兵の知恵だな。機転は評価するが、どのみち君に私を倒す術は無い。苦しみが長引く前に諦めた方がいい」
「時間が稼げればそれでいいんですよ。あなたを倒すのは他の誰かがやってくれます」
「この状況で助けが来ると思っているのか? 楽観主義にも程がある」
「来ますよ。……助けは、来ます」
絶望的なまでの実力差。着実に迫りくる死を前に、クロエは強く断言する。
絶対に間に合う。根拠は無いが、あの人にはそうと思わせる何かがある。
だから、大丈夫。恐れる必要は無い。
背筋を伸ばし、前を向き、拳を握って勇気を奮わせ……立つ。
稲船は訝しむようにこちらを注視していたが、やがて拳を上げると、
「愚かな。現実の前には意志など等しく無価値だというのに」
来る。
稲船が低く跳び、屋上の床が甲高い音を立てる。
そしてまた眼前に。一瞬のうちに。
浅く構えた拳が杭のように打ち出されようとした、まさにその時。
「……なんだとっ!?」
稲船が慌てて後ろに跳んだ。
彼を下がらせたのは、金属の擦れるような異音。扉の開く音だ。
それはクロエの背後から聞こえており、続いて扉の向こうからカラスの鳴き声がした。
「ほら、言った通りでしょう」
クロエは当然のように言いながら、沸き起こる何かを噛み締めるように息を吐く。
ゆっくり息を吐き終えて、それから彼女は素知らぬ顔で後ろを向いた。
「遅いですよ、先輩」
「……命の恩人に言う台詞がそれか?」
「ええ。だってその方が私らしいじゃないですか」
そこにいた男──夜渚明は、うんざりしたような、しかし同時にほっとしたような表情でこちらを見つめていた。