第八話 それぞれが望む決着
「幽世の函……。つまりアレか、要はフトタマver.2.0ということでいいんだな?」
スクナヒコナの説明を聞いた明は、ひとまずそういう認識で自分を納得させた。
虚数がどうのと言われても数学に疎い明にはさっぱりだが、今は細かい原理を理解する必要は無い。自分たちに何ができるのか、何ができないのかを分かっていればいいのだ。
「何にせよ根本の仕組みはこれまでの結界と同じなんだろう? だったらお前の力で解除することはできないのか?」
スクナヒコナはフトタマの結界に干渉する技術を習得している。
本人は手習い程度と謙遜していたが、忌部山での働きを見る限り過小評価もいいところだ。彼女の手にかかれば大抵の結界はあっという間に白旗を挙げるだろう。
と、明は楽観視していたのだが、スクナヒコナの返答は歯切れの悪いものだった。もっとも完全なお手上げでもないようだが。
「フトタマの結界を一枚の紙片だとすれば、幽世の函は分厚い書物のようなものです。先ほどのように何枚か頁をまたぐことはできますが、現時点で函そのものをどうにかすることは難しいと言わざるを得ません」
「その割には"現時点で"なんて期待を持たせる言い方をしているようだが」
「あの……できるといっても理屈の上では、ですよ? あまりぬか喜びさせたくありませんから」
「それでもいい。どこぞの脳筋野郎に従って終わりの見えないローラー作戦を敢行するよかマシだ」
「前にも言ったはずだぞ夜渚明。己のやり方が気に食わぬのなら有効な対案を示せとな」
残存する八十神を事務的に処理しながら言い返す武内。
スクナヒコナは苦笑ののち、なぜか申し訳なさそうな顔で明を見ると、
「幽世を制御するためには、もっとも現世に近い座標……いわば、書物の表紙にあたる場所を見つけ出さないといけないんです。結界を消すにしろ脱出するにしろ、表紙がどこにあるのか分からなければどうしようもありません」
「だが、そこさえ見つければ万事解決というわけだ。俺たちは何をすればいい?」
「はい、その……たいへん申し上げにくいんですけど」
彼女は少し上目がちに、
「足を使って地道に調べていくしかないかなって……」
「……マジか」
「見よ、結局は己の言った通りではないか」
武内は勝ち誇ったように胸を張ると、最後の一体にとどめを刺した。
全ての八十神が消滅し、廊下には彼らの衣服だけが残される。その頃合いを見計らって、木津池が机の下からおそるおそる顔を出した。
「……終わった?」
「ああ。そして楽しい楽しい探索タイムの始まりでもある」
"楽しい楽しい"の部分に憎しみを込めながら言葉を噛み締める。
武内はそれほど苦に感じていないようだが、せっかちな明にとってはこれほどやる気の萎える作業も無い。
そう、まさに作業。変わり映えのしない、というか文字通り現実の校舎をやたらめったら複製増殖させただけの手抜きダンジョンを端から端まで巡らなければならないのだ。本質的には賽の河原の石積みと大差ない。
「稲船の奴も狡すっからい真似をしてくれる。喧嘩を売るなら正面から堂々とかかってくればいいものを……!」
「それだけ確実な勝利を求めているのでしょう。敵戦力の分断と各個撃破は兵法の基本ですから」
不安を押し殺すように目を閉じるスクナヒコナ。
言葉にこそ出さなかったが、彼女も明と同じことを危惧しているのだろう。
おそらく……幽世に囚われているのは自分たちだけではない。他の仲間たちや生徒会の面々も似たような状況にあると見ていい。
彼らが今もどこかで八十神の襲撃を受けていると考えると、あまり悠長にしている時間は無いのかもしれない。
武内もそう感じているのか、付近に伏兵の姿が無いことを確認するとすぐに移動を再開した。
「行くぞ。我らは一刻も早く幽世を打ち破らねばならぬ」
「もう少し効率的な探し方があれば良かったんだがな……」
「無いものねだりはやめにしろ。時間の無駄だ」
「それこそ釈迦に説法だ。俺ほど時短に全力を尽くしている者はいない」
「ごめんね夜渚くん。俺も自前のダウジングロッドさえあれば手助けできたんだけど、生徒会に没収されちゃったんだよね……」
「あったとしてもお前にだけは頼らないから安心していいぞ」
明は廊下に出ると武内の後を追う。
武内のペースはかろうじてこちらに配慮したものだったが、それでもどこか焦りというか、過剰な意気込みのようなものが感じられる。
スクナヒコナもそれに気付いたようで、先を行く武内に諫めるような言葉をかけた。
「あまり突出しないように気を付けてください。八十神のこともありますが、私たちの目指している場所には確実にニニギが待ち構えているはずですから」
「望むところだ。八年来の因縁を今ここで清算してくれるわ」
「……武内さん?」
いつもより頑なな武内の声。
その時、明は自分が勘違いをしていたことに気付いた。
武内が急いでいるのは仲間たちが心配だからではない。
いや、もちろんそれもあるだろうが、一番の理由ではない。それよりもっと深いところにある何かが彼を突き動かしている。
その"何か"とはすなわち、明が七年近く付き合ってきた感情に他ならない。
「お前……稲船が祖父の仇だと考えているのか?」
「直接手を下したかどうかは問題ではない。だが奴が悪心を抱かなければ祖父は死ななかった。その報いは受けさせねばならぬ」
武内は振り返らない。しかし声には明確な感情が込められている。
それは義憤。かつて自分たちを襲った理不尽と、それを生み出した元凶に対する怒りだ。
「奴とヒルコが現神を解放したことで、この町には数多くの悲劇が生まれた。ある者は子を失い、またあるものは友を、そして愛する者を奪われた。怒りを向ける矛先すら知ることなく」
「だからこそ、真実を知る俺たちが怒りを請け負う必要がある……か。斗貴子もそんなことを言っていたな」
「それこそが武内の責務だと己は考えている。罪には罰を。悪には滅びを。貴様もそう考えていたがゆえに戦いの道を選んだのであろう?」
明は、すぐには言葉を返さなかった。
二秒経ち、三秒経ち、四秒経ったところで武内が不審そうに顔を向けた。
「夜渚明……貴様、よもや相手が人の形をしているからと及び腰になっているのではなかろうな」
「どうだろうな。正直、稲船を殺すことに抵抗があるのは否定しない」
「では半殺しにするか? 坊主のように人の道を説くか? そのようなやり方で奴が諦めると思うか?」
「無い、だろうな」
稲船は沙夜のために戦っている。彼女を救う道が他に無い以上あらゆる交渉は意味を成さない。
たとえ今回の計画を阻止したとしても、稲船はまた何らかの方法で新たな神代を画策するだろう。後顧の憂いを完全に断ち切るためには、彼を殺すしかない。
分かっている。分かっているが……どうして自分はこんなにもためらいを感じているのだろう。
稲船が戦う理由を知ってしまったからかもしれない。普段の稲船や沙夜と少なからず交流を持っていたから、という可能性もある。もちろん、武内が言うように殺人への忌避感もあるだろう。
しかし一番の理由は、もっと形容し辛いものだ。
仮にそれを無理矢理言語化するなら「これでいいのか?」の一言に尽きる。
正しい道など分からない。だが、とにかく明は"これでいい"とは思えないのだ。
「ふん、仇討ちを果たしたことで気が抜けたか。存外胆力の無い男よな」
「悪かったな。普通の人間はお前のように頭が石でできていないんだ」
「思い悩むこと自体を否定はせぬ。己とて寝床の中では様々な事を考える」
「嫌味のつもりかそれは」
「忠告のつもりだ。永遠に眠りたくなければ迷いは引っ込めておけ。ここは戦場なのだからな」
「さすがにそこまで腑抜けてはいない。……と、来るぞ」
明の言葉に全員が足を止め、廊下の先に目を凝らした。
視認できる範囲には何もいない。しかし明の異能は数百メートル先から接近する波動を捉えていた。
「……移動速度はかなりのものだな。だが、数は一つだけだ」
「八十神か? それとも他の荒神か?」
「どちらでもない……というか、こいつはまさか……」
取り立てて特徴のある波動ではない。明が気になったのは、それが発する音だ。
それは一切の足音を立てず、代わりに空気を大きく叩きながら進んでくる。その音の正体に気付いた時、明はあっと声をあげた。
「これは……羽音だ!」
直後、霧の中から黒い翼が飛び出してきた。
そいつは明の手前で旋回すると、一鳴きしながら元来た道へ飛び去って行く。
クロエの使い魔ヤタガラスが、彼らをこの先へと誘っているのだ。