第七話 近くて遠い
後方から八十神の一団が来る。
横並びの隊列で廊下の余白を埋め尽くし、その足運びは力にあふれている。さながら巨象の進軍だ。
こちらを轢き殺さんばかりの圧力を前にして、果敢にも突撃する者がいた。武内だ。
「心無き人形ごときが、この武内の行く手を阻めると思うてか!」
風音のような呼吸音が聞こえた直後、武内は八十神たちの目前に飛び込んでいた。
息吹永世の呼吸。特殊な息継ぎによって細胞を活性化させ、人体に秘められた可能性を限界まで引き出す技法。
その動きは強化された八十神の反応速度をも凌駕しており、ゆえに半数近くが次の攻撃を避けることができなかった。
「喝ァッ!」
渾身の回し蹴りが周囲の気流をうならせる。
直撃を受けた八十神たちは嵐に巻かれた藁のように吹き飛ばされ、周囲の壁や天井に赤い染みを作った。
しかしそうでない者たちは既に体を退いており、蹴りの動作が終わったところを狙って一斉に斬り込んでくる。
もっとも、それすらも武内の作戦の内だったようだ。
彼は蹴り足を収めた直後、回し蹴りの勢いそのままに手刀での薙ぎ払いに移行。不用意に近付いた数人の首をまとめてへし折った。
続けて手刀を拳に変えて、残った一人にぶちかます。そいつは格闘ゲームのフィニッシュシーンさながらに浮き上がると、そのまま地上に落ちることなく溶け消えていった。
「……相変わらず圧倒的だな。もうあいつ一人でいいんじゃないか?」
明は口をぽかんと開けながら武内の勇姿を眺めていた。
十人近くいた八十神はたった数発でゴミクズのように蹴散らされ、それを為した武内は汗一つかいていない。廊下の先には増援の姿が見えたが、この分だと明の出番は当分無さそうだ。
というか、余りにも一方的すぎて本当に八十神が強化されているのかも疑わしくなってきた。
もしかすると最初に出てきた奴が偶然強かっただけなのではないか……と、明が邪推し始めた時。武内が鋭い目でこちらを振り返った。
「確かに、ここにいたのが己一人なら何の問題も無かったであろうな」
「は?」
遠回しな言い方に疑問を返す明。
しかし、その意味はすぐに理解できた。廊下の反対側から近付いていた反応が、ついに視認できる位置まで到達したのだ。
「げ」
と言ったのは明ではない。明の背中に隠れていた木津池だ。
こちらに来るのは刀を構えた八十神が、たったの一体。明一人ならどうにかできなくもない数だが、木津池をかばいながらとなるといささか心もとない。
「己はこちらの対処で忙しい。ゆえに、その軽薄な男は貴様に任せるとしよう。まあ捨て置いても構わぬが」
「む、無責任だぁっ! 生徒の暮らしを守るのが生徒会の仕事じゃないかっ!」
「それはあくまで"問題を起こさない善良な生徒"に限った話だ。柵の外に逃げ出した羊を守る義理は無い」
「酷い! 俺はただみんなに大宇宙の真理を啓蒙してあげようとしただけなのにっ!」
武内に見捨てられた木津池がすがるように明の腕を掴む。明はそれを嫌そうに振りほどきながら、
「騒いでいる暇があったらもっと安全なところに下がってろ! こっちだってギリギリなんだ!」
「りょ、了解っ! 俺はスピリチュアルな方面から夜渚くんを手助けすることにするよ!」
「それも要らんわ!」
おそらく陰ながら応援するという意味なのだろうが気持ち悪いのでやめてほしかった。
木津池がダッシュで教室に逃げ込むのと、八十神が刀を振り上げるのはほぼ同時。その軌道は木津池の背中に向けられていた。
「南無三……!」
明は足を踏み下ろし、最大級の振動波を床に放つ。
ほんの一瞬、身じろぎするように揺れる地面。踏み込みに入った八十神がバランスを崩し、剣筋が見当違いの方向にブレる。
しかし敵もさるもの。次の一歩で体勢を立て直すと、胴をひねって逆袈裟の斬り返しを繰り出した。今度のターゲットは明だ。
(速い……が、雑魚相手に二度も後れを取るわけにはいかん!)
速いといってもタケミカヅチのスピードには大きく劣る。あらかじめ"来る"と分かっていればこちらにも手はあるのだ。
明は再度床を震わせ、それに合わせて靴底を滑らせる。
その瞬間、明の体が大きく沈み込んだ。彼は自らの意思で転倒し、刀の下をするりとかいくぐったのだ。
八十神が追撃の構えを見せるがもう遅い。仰向けになった明は両足で八十神の体を挟み、そこから直接振動波を送り込んだ。
「柔よく剛を制す。どうせならおつむの方を強化してもらうべきだったな」
などと余裕ぶってはいるが、その実ギリギリの戦いだった。明は八十神の死亡を確認してから緊張を緩め、
「うわわわっ! よ、夜渚くんっ!」
「──っ!?」
木津池の叫びにはっと顔を上げた。
見れば教室の隅で木津池が縮こまっており、その足元には骨格のねじ曲がった八十神が蠢いている。先ほど扉越しに蹴り飛ばされた個体だ。
全身の関節はぐちゃぐちゃで動作も緩慢だが、指先や頭部には目立った損傷はない。"握り潰す"とか"噛み砕く"といった攻撃手段ならいくらでも人を傷付けることができるだろう。
「……いかん!」
武内が眉を歪めるが、彼はまだ増援の対処にかかりきりだ。助けを求めることはできない。
「間に合うか……!?」
もはや起き上がる時間すら惜しい。明は獣のような四足歩行を経て乱暴にクラウチングスタートを切った。
木津池のいる場所まではまだ五メートルほどの距離がある。一方八十神は既に足を掴んでおり、奴がもう少し力を入れれば木津池の細足はざくろのように破裂してしまうだろう。
その瞬間がいつ訪れるのかは分からない。だが、きっとそう遅くはない。明にできることは、その瞬間が少しでも遅くなるよう祈ることだけだ。
かくして、願いは聞き届けられた。
現に舞い降りた女神によって。
「……ぎっ!?」
八十神の体が感電したように硬直し、その指先から力が抜けていく。
その直後、明の頭に少女の声が聞こえてきた。
『蟲を使って腕の神経を麻痺させました! 今ですっ!』
「その声は……スクナヒコナか!?」
『いいから急いでください!』
「言われずともやっている!」
明は固く握った拳と共に振動波を叩き込む。
瀕死の八十神は喉元からくぐもった悲鳴を絞り出した後、ようやっと力尽きた。
「こ……怖かった……。危うく偉大なる宇宙意志の御許に還るところだったよ」
「たとえ百遍死んでもそんなものに出くわすことは無いと思うがな……」
青ばんだ足首を労わるように撫で回す木津池。明は安堵の息をつきながら、たった今起きた現象について考えを巡らせていた。
八十神が動きを止めたのは、スクナヒコナの蟲が神経を攻撃したからだ。
しかし、あの蟲は術者から離れた場所では大した力を発揮できないはず。そう考えると彼女はすぐ近くにいなければおかしいのだが……
「スクナヒコナ、お前は今どこにいる? このあたりにお前の波動は感じられないんだが」
『近くて遠い場所、というのでしょうか。座標で言うと夜渚さんの右隣になります』
「……つ、ま、り?」
『あっはい今すぐ実演しますねっ!」
多少キレ気味に詰問すると、スクナヒコナは慌てて言葉を続け、
『えっと……この空間はですね、フトタマの結界を何層にも重ねて、それら全てを知恵の輪のように繋ぎ合わせています。そうすることで、術者は通常より何倍も複雑で多次元的な虚数の迷路を作り出すことができるんです。……ここまで説明すれば夜渚さんもピンと来ますよね?』
途端、青い光が真横で生まれた。
光は縦長の楕円形をしており、それはゆっくりと光量を減らしながら少女の形を取る。
「これは天之御柱に施された封印と全く同じもの──名を、幽世の函と言います」