第六話 加護
「武内!? なぜお前がここに……?」
思ってもみなかった人物の登場に色めき立つ明。武内は半身だけをこちらに向けると、頑健な掌を突き出すことで明を制す。
直後、もう片方の腕を振り上げ、
「ぬぅんっ!」
密かに起き上がろうとしていた八十神に向けて、真っ直ぐに打ち下ろした。
幹のような太腕が八十神の胸を穿つ。
鈍い破砕音と同時、へし折れた体が軽くバウンドして……今度こそ動かなくなった。
「正攻法で勝てぬと見るや死んだふりか。実に浅はか、まるで芥虫よな」
徐々に溶けゆく死体を見下ろし、つまらなさそうに吐き捨てる武内。
明は慄然たる思いでその様子を見つめていた。
彼がおののいていたのは武内の馬鹿力でもなければ、容赦の無さでもない。八十神の打たれ強さだ。
先ほど見た時、あの八十神は胴体の下半分を叩き潰されていた。どれほど強靭な生物であろうと、あのような傷を受けてはひとたまりもないはずだ。
しかし実際に八十神は絶命せず、それどころか立ち上がろうとする素振りさえ見せた。通常の八十神と比べても、このしぶとさは異常だ。
「まさか……異能、か?」
確認するような視線を投げると、武内はわずかに頷き、
「さすがに話が早いね夜渚くん。そう、彼らは荒神ニニギの力……生命力を操る異能によって肉体を活性化させられていたんだ。
古事記によるとニニギというのは稲穂を意味する神号であり、彼は地上に赴く際にも主神アマテラスから稲穂を授けられている。
加えて、米は古来より日本人の代表的なカロリー源、転じて命の源泉だ。それを司るニニギの眷属がこういった異能を持っていることは、まあ当然予想できたことではあるよね」
「おかしいな。今、とても不愉快な幻聴が聞こえたような……」
「なるほど、こんな浅い知識じゃなくてもっとディープな講釈を聞きたいんだね。さっすが夜渚くん。それではご希望に応えて、ここからは日本人の米信仰をアニミズム的観点から──」
「分かったからやめろ、木津池」
あの時、廊下の反対側には二つの人影があった。その片方が武内だったのだから、もう片方も見知った人物なのだろうなとは思っていた。欲を言えばもう少し話の通じる人間を期待していたが。
明は舌打ちしながら振り向いて、愛想笑いを浮かべる木津池を嫌々ながら視界に収める。
彼もまたかなりの時間ここをさまよっていたのか、その顔は少しだけ疲れているように見えた。
何より目を引いたのは両腕に絡まるロープ。それは手首の周りにがっちりと巻きついており、まるでどこかの牢屋から逃げてきた虜囚のようだった。
「木津池、お前……奴らに捕らえられていたのか!?」
「そうだねー、うん、言語化するとそういうことになるのかな? 正しくは生徒会に、だけど」
「……は?」
明は斜め上に首を傾げた後、詳しい説明を求めて武内を見た。
武内は秘めた怒りを押し留めるかのように目を閉じると、
「責任はこやつにある」
「それは言わんでも分かる。だが具体的に何をした?」
「特設ステージの占拠を目論んでいた。何をぶち上げるつもりだったか知らんが、どうせロクなことではない」
「だろうな」
大体いつもの木津池だった。必死の抗議声明が聞こえたが明は無視した。
「それだけではない。この男、連行中に突然暴れ始めたかと思えば『稲船らしき人物を見た』などと言い出してな。急いで確認に向かってみればこのザマだ」
渋みのある声色には幾分かの自戒も込められていた。
冷静に考えると、あの稲船が一般人に目撃されるような愚を犯すはずがない。おそらくわざと姿を見せることで武内を誘き出す魂胆だったのだろう。
そして彼はまんまとハメられ、この空間に閉じ込められた。学園のようで学園ではない、複雑怪奇な迷宮に。
「だが、捉え方次第では好機とも言えよう。敵の首魁が自ら前線に赴いているのだ。ここで奴を仕留めることができれば奴らに決定的な打撃を与えることができる」
「考えることは同じか。そういうプラス思考は嫌いじゃないぞ」
「ふん、貴様に好かれてもな」
武内は大仰に体を翻し、廊下の先へと歩き出した。
キレているのか照れているのか微妙なところだが、ムサい男の内心をいちいち推し量るほど明も暇ではない。木津池を促しながら武内の背中を追う。
強化された八十神。そして木津池が見たという人影。
明自身が稲船を目撃したわけではないが、一連の状況から推理すると八十神を指揮しているのが稲船本人である可能性は限りなく高い。
これまで一貫して裏方に徹してきた稲船の、急激な方針転換。それが意味するものを考えようとして、思い直した。
どうせもうすぐ顔を合わせるのだから、その時に聞き出せばいい。本人不在でああでもないこうでもないと思考をこね回すなど、それこそリソースの無駄というものだ。
そう、もうすぐ。
もうすぐ。
……できればもうすぐということにしておきたい。
「おい武内、いつになったら稲船のいるところに辿り着けるんだ?」
「さてな。先ほどから目印を付けて回っているが、構造の把握にはもう少しかかりそうだ」
付近の壁を殴りつつ痕を付けていく武内。廊下に連綿と続く人の手形は周囲の情景も相まってホラー映画の一場面を彷彿とさせた。
「……つまり何か、お前もここがどこだか分かっていないと」
「ここがどこかは分かっている。だがどこに稲船がいるのかは分からぬ」
「それを迷っていると言うんだが……」
武内は不服そうな目でこちらをにらむと、
「一見広大に見えてはいるが、この幽世はしょせん即席のものだ。慎重に進めば現在位置を見失うことはない」
「幽世? 何だそれは」
「貴様、スクナヒコナから聞いていないのか? 幽世とは──」
武内は素早く息を吸い、
「甘いわ!」
弾丸のような呼気に乗せ、咆哮。
手近な扉に蹴りを入れ、その向こうに隠れていた八十神ごと吹き飛ばした。
「ぎいっ!」
いくつもの机を巻き込みながら転倒する八十神。その体は固く絞られた雑巾のように歪んでいたが、それでもなおこちらに這い寄ろうとする。
しかしそれに構っている暇はない。こちらを追うようにして多数の足音──それも非常に素早い者たちが迫っており、前方からもいくつかの強い波動が感じられる。
「いいだろう、先に相手をしてやる。腹いっぱいなのがお前たちだけだと思ったら大間違いだぞ」
相手が米ならこちらは小麦。たらふく粉ものを平らげていたおかげで活力には事欠かなかった。