第十七話 朽ちた青銅
霧の中、妖しく揺らめく耳成山の林。その一角に黒鉄の姿があった。
「クソが……クソがクソがクソがっ!」
口いっぱいに毒づきながら、漏れ出た怒りを霧の壁にぶつけていく。
蹴って、殴って、最後は手に持つ石刀で斬り付けた。
が、壁にはヒビ一つ入らない。
柔らかく、それでいてきめ細やかな綿雲が、ありとあらゆる衝撃を吸収してしまう。
「クソっ……どけよっ! この俺様に道を開けろってんだよ!」
彼はもう十分近く同じことを繰り返していた。
腕の筋肉はオーバーワークに悲鳴を上げて、主に速やかな休息をうったえかける。
拒否して、がむしゃらに刀を振るう。しかし、最終的には疲労が勝ったようだ。
「ちくしょう……どうなってんだよ……」
膝をつき、肩で息をする。
一度でも止まってしまえば、続ける気力は湧いてこない。いつもそうだった。
黒鉄は刀を投げ捨て、そのまま寝転がった。
「はー……やめだ、やめ。こりゃどうにもなんねえわ」
大の字に伸びた四肢は、石でもくくりつけられたかのように重い。
さんざん動いて、山じゅう歩き回って得たものは、「霧の外には出られない」という絶望的な確信だけ。
軋む右手をどうにかポケットまで誘導し、スマートフォンを引っ張り出した。
「圏外かよ……」
予想はしていたが、存外にショックを受けるものだな、と他人事のように思った。
こうなっては外に助けを求めることもできない。体がより一層重くなったような気がした。
「まあ、なるようになるだろ。つか、俺関係ねえし」
放送を聞く限り、この状況を作り出した連中の目的は、金谷城望美ただ一人だ。自分はたまたま巻き込まれた被害者に過ぎない。
この霧だって、まさか永遠に続きはしないだろう。いずれは消えて、何事も無い日常が戻ってくる。
だから、自分は、何もしなくていい。
君子危うきに近寄らず。面倒事はヒーロー気取りの馬鹿に任せて、自分の幸せのため、好きに生きるのだ。
「それがデキる男のライフスタイル、ってな」
機嫌良く鳴らした鼻歌は、無音の中にひとときの波紋を生み出した後、吸い込まれるように消えていった。
寝入るように目を閉じて、自身の未来を夢想する。
自分は力を手に入れた。選ばれし者だけが持つことのできる、特別な力を。
この力で何をしよう?
気に入らない奴を叩きのめす? それもいいかもしれない。
戦いの他にも、もっと別の、便利な使い道があるかもしれない。アイデア次第で夢は無限大だ。
「はははっ、最高じゃん」
きっと楽しいに違いない。
未来は幸福に満ちあふれている。
「ははは……」
自分は、この力を得たことで、新しく生まれ変わった。
昔のような、何もできない、蔑まれるだけの負け犬とは違う。
「はは……」
誰にも負けない。何物にも縛られない。
それは、真に自由、な……
「……………………」
なのに。
どうして、
どうして自分は、こんなにも息苦しさを感じているのだろうか。
「……ははっ」
また、笑う。
昼間の屋上、猛の案じるような視線を思い出した。
あの時自分は、どうして彼の目を見ようとしなかったのだろう。
「はははっ」
いけすかない転校生の、不愉快な面を思い出した。
自分はどうして、あの男の言葉に激怒したのだろう。
様々な記憶のハイライトが、無意識のうちに再生されていく。
どの場面においても、黒鉄は黒鉄のままだった。依然変わらず、これまでと地続きの、黒鉄良太郎でしかなかった。
固く閉じていた瞼を、数秒かけて開く。
「俺、滅茶苦茶カッコわりい……」
変わらぬ景色は、涙でかすんでいた。