第五話 迷い子
「う、っ……」
まどろみに沈んでいた意識が急速に浮上していく。
ひんやりとした床の感触。淀んだ空気と埃の匂い。
冷えきった体をゆっくりと起こしながら、明は目を開いた。
彼の前に広がっていたのは、いつもの白い霧と、どこかで見たような風景だった。
「ここは……校舎の中、か?」
疑問形で言葉を結んだのは、彼自身そうであるという確信が得られなかったからだ。
白くくすんだリノリウムの廊下。一定の間隔で並ぶ教室の扉。あとは掃除用具入れとかトイレとか、その他もろもろ。
なるほど。目につく要素だけを抜き出してみれば、そこは確かに高臣学園の校舎だった。
だが……自分の知っている高臣学園とは少し違うような気がする。
具体的にどこがとは言えないが、何かがおかしい。
廊下をしばらく歩いてみると、その違和感はさらに強くなった。
「この廊下、どこまで続いているんだ……?」
どこまで進んでも校舎の端が一向に見えてこない。時折左右に脇道や階段が現れたりはするものの、どの道を選んでも見慣れた場所に辿り着くことは無かった。
そして、もう一つ気付いたことがある。
この空間には窓が無い。
教室と廊下を隔てる室内窓はあるのだが、外の景色が見えるような外窓は皆無だ。
「……一応、教室の方も確認してみるか」
明かりの消えた教室の中を手探りで進み、本来窓があるべき場所に立つ。
ぴったりと閉じられたカーテンに手をかけ、一呼吸。それから一気にめくり上げた。
カーテンの向こうには、のっぺりとした壁が立ちはだかっていた。
「……………………」
明は目じりを引き攣らせながら沈黙。
後ずさりするように教室を出ると、今度は近くの階段を全力で駆け上がる。
一階層上がり、二階層上がり、四階層上がっても景色は変わらない。ちなみに高臣学園は四階建てだ。
おおよそ十階分上ったところで足を止め、手すりを掴んだままズルズルと崩れ落ちる。見上げた先には騙し絵のように果てしなく続く階段があった。
こうなっては大人しく認めるしかない。
自分は今……完全に迷っている。
「……こういうホラー展開は勘弁してほしいんだがな」
倶久理のおかげで幽霊や怪異の類にはかなりの耐性が付いていたが、それでもこの展開は中々にクるものがあった。
静の恐怖とでもいうのだろうか。背中をひたひたと這い上がってくるような不安は、これまでの戦いで直面したことのないものだった。
「くそ、こんなことなら現神に襲われていた方がマシだったぞ」
ヤケクソじみた嘆きだが半分は本音だった。
が、彼の願いに反して周囲には何の気配も感じられない。緊張のせいか、自身の呼吸と心音がやけに大きく聞こえた。
ズボンの裾で手汗を拭い、咳払いと共に雑念を排除。気分を落ち着けた後、明は改めてこの状況を分析する。
ここが結界の中であることは十中八九間違いない。そこらじゅうに発生している白い霧……電子霧がそれを証明している。
しかし、フトタマの結界とは現実世界をそっくりそのまま異次元に転写する秘法だ。元の世界に存在しない地形を作り出すものではない。少なくともこれまではそうだった。
(なら、ここはいったいどこだというんだ? 高臣学園にこんな不思議空間は無かったはずだ)
そういえば、結界に取り込まれる直前も普段とは少し違う感じだった。
同席していたクロエたちの行方も気にかかる。他の生徒は巻き込まれていないだろうか。
思うことは山ほどあるが、悩んでいても答えは出ない。真実を知るためにはとにかく前進あるのみだ。
「よし。行くか」
何気ない一言を契機に、軽々と腰を上げる。こういう時に切り替えが早いのは自分の長所だ。
それに、何も永遠にこのままということも無いだろう。いずれ必ず状況は動く。
敵が明確な悪意をもってこちらに働きかけている以上、そいつはすぐに次の一手を打ってくるはずだ。明を確実に排除するために。
(……と、思っていたら早速か。こちらから動く手間が省けたな)
忍び足で踊り場を出ると、左右に伸びる通路の両端に意識を向ける。
右の方から一人。左の方から二人。計三人分の人影がこちらに近付いてくる。
発する波動は人間に近い。が、味方であるとも限らない。どちらかといえば全員敵である可能性の方が高い。
(下手をすれば挟み撃ち、か。ならば先手を打って囲みを破るまでだ)
明は鋭く床を蹴り、右に向かって走り出した。先に単独の方を撃破してから残りの二人を相手取ることにしたのだ。
こちらの足音を聞きつけたのか、前方の人影が急に速度を上げる。
薄霧を押し退けて現れたのは、幾重もの包帯に覆われた顔。……八十神だ。
「しゃっ!」
八十神の行動は予想以上に機敏だった。
風鳴りにも似た奇声。
地を這うようなすり足を経て、弾けるような突進が繰り出される。
懐に握り込まれているのは、反りの無い短刀。その切っ先は明の心臓を狙っていた。
「これは……!」
明は己の判断が甘かったことを思い知らされていた。
この八十神は──速い。
これまでに戦ってきた個体とは全くの別物だ。単純なスピードだけを評するなら、オオクニヌシやタヂカラオに勝るとも劣らない。
明はとっさに体をずらそうとするが、どうあがいても直撃を避けることはできそうにない。
せめて致命傷だけは避けようと強引に体をひねり──
「喝ァッ!」
その瞬間、脇腹に痛烈な衝撃を受けた。
何者かの腕が明を突き飛ばしたのだ。
「うごぶっ!」
羽毛のごとく浮き上がった体がべちゃりと壁に叩き付けられる。
鞭打つような痛みが全身を襲うが、あのまま刃物で刺されることに比べればマシな方だ。おそらく相手もそう考えていたから、このような緊急措置を取ったのだろう。
……幾分かの恨み節が無いとは言い切れないが。
「不甲斐ない。この程度の雑兵に後れを取るようでは先が思いやられるぞ」
男は眉根の間に険しい山脈を作ると、軽く首の骨を鳴らした。その足元には腹部を大きく陥没させた八十神が倒れている。
「死にたくなければもう少し気合いを入れろ。この先に待つのは数多の神を統べる王──荒神ニニギなのだからな」
高臣学園生徒会長・武内暁人は、焼けるような闘気を滲ませながらそう言った。