第二話 嵐の前の静けさ
藤原宮跡の外縁をぐるりと囲む田園地帯、そのただ中に一台の軽乗用車が停まっていた。今年三台目となる毘比野の愛車だ。
運転席に腰掛ける毘比野の顔に油断はなく、その視線は常に四方をうかがっている。そこにあるのは静かな覚悟だ。
「なんとしてもこの車だけは守りきってやるからな……」
手塩にかけて整備していた一台目は大神様とやらに破壊され、降ろしたてだった二台目は落雷によって炭クズとなった。
ジンクスなどというものを真に受けるつもりなど毛頭ないが、二度も不幸が続けば三度目を警戒してしまうのが人間だ。
特に、例の事件に関わっている間は。
「……やっと帰ってきたか」
助手席越しに左方を見れば、薄暗いあぜ道を引き返してくる少年と少女が見えた。毘比野は車のライトを点滅させることで彼らに応える。
「お疲れさん。首尾はどうだ……って、聞くまでもねえか」
助手席の窓を開け、その二人──明とスクナヒコナに声をかける。
彼らは互いを横目で見ると、どうもこうもないと言わんばかりに肩を落とした。ある意味それが答えだった。
「本当に申し訳ありません。わざわざ車まで出していただいたのに」
「結局今日も空振りか。ほとほとツイてない奴らだな、お前らは」
「……別に、そう簡単に見つけ出せるとは考えていなかったさ。この程度の行き詰まりは想定の範囲内だ」
「それにしちゃ随分と不機嫌そうな面をしてるようだが……」
「放っておいてくれ。この顔は生まれつきだ」
「そうかい」
噛み殺したように笑うと、毘比野は景気よく車のエンジンを吹かした。
彼らがスクナヒコナを仲間に迎えてから一か月と少し。その間、スクナヒコナは毎日のように天之御柱の入り口を探していた。
彼女が言うにはこの町のどこかに目に見えぬ門が隠されているとのことだが、詳しいことは毘比野にもちんぷんかんぷんだ。この少女は自分の知識をかみ砕いて説明することが下手過ぎる。
ともあれ、このあたりに土地勘の無いスクナヒコナをいつまでも一人で出歩かせておくわけにはいかず、同時に彼女を狙う現神への対策も兼ねて、毘比野と明の二名が調査に同行することになった。それが先月の中頃だ。
それから二週間以上が経過しているが、未だに御柱の入り口は見つかっていない。長期間の張り込みに慣れた毘比野ならいざ知らず、せっかちな若人たちが苛立ちを見せ始めるのは無理からぬことだった。
「しかし……もうちょっと目星というか、怪しい所のアタリみたいなものは付けられないのかね? この調子で市内全域を回ってたら年が明けるぜ?」
「残念ですが、現状ではしらみ潰しに当たっていくほかありません」
思い付きで聞いてみたものの、後部座席から返ってきたのは口惜しげなため息だった。
「自身の無力さを恥じるばかりです。こうしている間にもどこかで誰かが命を落としているかもしれないのに……」
「そう焦りなさんな。最近は行方不明者の数も落ち着いてる。案外、連中もお前らにビビって大人しくしてるのかもしれないぜ?」
「それなら良いのですが……そうではない可能性もありますから」
毘比野は肯定も否定もせず、ただうなるように相槌を打った。
先ほど言った言葉に嘘は無い。
実際、ここ十日ほどの間に失踪届が出されたという話は聞いたことがないし、武内家のネットワークにもそういった情報は届いていない。現神の活動は間違いなく沈静化している。
しかし、視点を変えれば……彼らはこれ以上荒神狩りをする必要が無くなった、と考えることもできる。
(十分な数の検体が集まったってことか? だとすると、次に来るのは……)
考えようとして、しかしすぐさまその想像を振り払った。
最悪を想定して動くのはいい。だが、真実が分からぬ状況で悲観的なイメージだけを膨らませても心が疲れるだけだ。
そういう時は、何も考えないに限る。
といっても現実逃避をするのではない。必要な物事だけに注力し、心身のエネルギーを温存しておくのだ。
いつ何が起きてもいいように。もしも何かが起きた時、焦らず冷静に動けるように。
どのみち、その時が来れば否が応にも死力を尽くさねばならないのだから。
「……なあお前ら、この後はどうするんだ? もうとっくに日は暮れてるんだが」
低速で車を走らせながら、毘比野は二人に問いかけた。「まさかまだ続けるつもりじゃないだろうな」と言外に滲ませて。
その圧力に明は一瞬言葉を詰まらせるが、すぐに視線を上げると、
「いや、もう少しキリのいいところまで続ける。都合が悪いのであれば先に帰ってもらっても構わんが──」
予想通りの、とても若者らしい答えが返ってきた。
やはりこいつはガキだ。能率的な働き方を知らず、休息の大切さも分かっていない。馬車馬のように働けばその分だけ仕事が捗ると考えているのだろう。
異論が聞こえないところを見るにスクナヒコナも同じ意見のようだ。見た目通りというか何というか、真面目ではあるのだろうが上司には欲しくないタイプだ。
毘比野はやれやれと顔に手を当てていたが、やがて意を決したように姿勢を正すと、
「却下だ。今日はこれで終わりにしとけ」
頭ごなしにそう言うと、毘比野は軽快にハンドルを切った。遠心力が車体を揺らし、後部座席の二人が折り重なるように倒れ込む。
「わわっ……! あ、安全運転をお願いしますっ! それと夜渚さんはどこ触ってるんですかっ!」
「八割がた不可抗力だ!」
したたかな打撃音が聞こえた後、バックミラーにあごをさする明の顔が映った。
「で、どこに行くつもりだ?」
「高臣学園だよ。今日は学園祭なんだろ? せっかくだから目いっぱい息抜きしてこい」
「それなら問題ない。うちのクラスの出し物は午前中に消化したからな」
「俺は"息抜きしろ"っつったんだ馬鹿。遊ぶべき時に遊べない奴は肝心な時にスタミナが切れるんだよ」
毘比野はアクセルを踏みつつ、
「思い出は作れるうちに作っておかないと、大人になってから後悔するぜ? 何より……今の俺たちには、今日と同じ明日があるのかも分からないんだからな」