第十六話 支配の旋律
望美視点。
「エフぶんのいちゆらぎ……?」
望美は頭の中を疑問符だらけにしながら、とりあえずその言葉を反復した。
聞いたことの無い単語だった。
「1/f」と「ゆらぎ」。それぞれが指す意味は理解できそうなのに、合体すると途端にわけが分からなくなる。
歯間に物が挟まったかのような異物感。消化不良な思考デブリを抱えたまま、望美は説明の続きを待った。
明が再び口を開いたのは数秒後。こういうもったいぶり方は本当に木津池そっくりだなと望美は思った。
「1/fゆらぎとは、規則性の中に混じった不規則性……簡単に言うと"リズムのゆらぎ"を表す概念だ。
何も音に限った話ではないが、特定のズレ方を伴う波長は、生物の体にリラクゼーション効果を与えるとされている。
波の音、鳥のさえずり、草木のざわめき……そういった現象の多くに、1/fゆらぎの波長が含まれている。赤子が母親の胸に抱かれて安らぐのも、母親の鼓動が1/fゆらぎを発しているからだ」
「なんとなくのイメージだけど、黄金比みたいなもの?」
「良いたとえだ。自然界に存在する奇妙な法則性という点では、1/fゆらぎも黄金比の一種と言えるだろうな」
そう言って、明は近くの草むらを撫でた。
葉がこすれ合う音はたしかに耳に快く、疲れた体に染み渡ってくるかのようだ。
しかし、その程度のリラクゼーション効果では、黒鉄の苛立ちを鎮めることはできなかった。
「トンチキなこと言ってんじゃねえ。そのなんちゃら分の一だか何だかが本当だとしても、そんなもんを聞いただけで人を殺したくなるなんて話があるわけねえだろうが」
「リラックスさせるのはあくまで前準備だ。1/fゆらぎの裏に隠された暗示こそが、彼らを凶行に走らせた」
明は草をもてあそんでいた手を戻すと、包むようなソフトタッチで頭に添える。そうして何度か揉みほぐした。
「人がリラックスしている時の脳波は、眠りに落ちている時とほとんど変わらない。そして、睡眠学習という言葉もあるように、睡眠中の脳は極めて暗示にかかりやすい」
唐突に力を入れて、頭皮に爪を立てた。
「安らぎの旋律に乗せて刷り込まれる、強力無比の催眠音波。……事情を知らない人々はあまりにも無防備だ。
こうして敵は、労せずして学園全土を掌握した。生徒たちはいつでも殺せる人質であると同時に、忠実な尖兵でもあるわけだ」
言われて、望美は思い出す。あの音が聞こえ始めてからずっと、軽い頭痛に悩まされていることを。
明の話が正しければ、頭痛の正体は催眠術の影響、ということになる。
望美の脳が外部からの干渉に拒否反応を示し、それが痛みという形で表れているのだろう。
「……でも、それなら私たちも催眠術にかかるはずじゃないの? 頭痛だけで済んでるのは、どうして?」
素朴な疑問を口にすると、明は底意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「それこそが敵の犯した最大の過ちだ。おかげで奴らは生徒を使った遠回りな第二プランを実行に移さざるを得なくなった」
「第二プラン……じゃあ、第一プランは私を直接操って自殺させること?」
「左様」と芝居がかった返答。
それが望美の気分を和らげるための冗談だと思い至ったのは、少ししてからのことだった。
「ここからは憶測になるが……俺たちが耳成山を探索している間にも、催眠音波は流れていたのだろう。
音は空気を伝わって、可聴域ギリギリで俺たちの耳に届いていた。『金谷城望美を抹殺せよ』という悪意満載の命令を乗せて。
だが、俺たちは操られなかった。……この馬鹿がいたからな」
片眉を釣り上げ、黒鉄に顔を向けた。
「1/fゆらぎの効果など、しょせんは限定的なものだ。戦いの真っ最中だった俺たちに聴かせたところでリラックスなどするはずがないし、したがって暗示にもかからない」
「あ……」
確かに、あの時は三人全員が極度の興奮状態にあった。
白い霧が出てからは常に警戒心を持ち続けていたし、催眠術の存在を知った以上、今後はこの音に気を許すことも無い。
緊張と興奮。癒しの対極に位置するもの。それが今、自分たちを守っている。
言うなれば大盾のようなものだ。取り回しは悪く重量もあるが、構えていれば不意の攻撃を防いでくれる。
「夜渚くんが相手の耳元ばかり狙ってたのも、それが理由?」
「目ざといな。三半規管を揺らして不快感による緊張を高め、鼓膜を揺らして1/fゆらぎにノイズを加えた。一時的にでも音を遮断できれば、催眠は解ける」
「夜渚くん、凄い。冴えてる」
「あまりおだてるな。気付いたのは偶然だ」
「そんなことないと思うけど……」
それは望美の素直な感想だった。
普通の人間なら「音が怪しい」までは辿り着けても、人を操る仕組みまでは解き明かせない。ましてや細かな波長など、人が聴き分けられる範囲を超えている。
凄いを通り越して、異常だ。絶対音感の持ち主でさえ、そんな芸当はできないだろう。
努力や才能では説明のつかない能力──それはもはや、"異能"と称されるべきものだ。
(夜渚くんは"揺らす"能力って言ってたけど……本当に、それだけなの?)
彼の言葉に嘘は無いと思う。変わり者だが、真っ直ぐな人だ。
だが、そうやすやすと内心を明かす人でもない。彼が事件に関わろうとする理由も、望美は知らないままだ。
夜渚明という人間は、まだ全てをオープンにしてはいない。そう、強く感じた。
「長々と語ったが、要はあの音を止めればいいだけの話だ。望美、放送機材の置いてある場所は?」
「職員室と放送室。あと、体育館も。私が知ってるのはそれだけ」
「最低でも三か所か……。なら、総当たりだな」
明は正門の方に向き直り、望美も彼に続く。
しかし、黒鉄はその場から動こうとしなかった。
「黒鉄くん……?」
「……俺は、行かねえからな」
吐息のような言葉は弱く、しかし頑なでもあった。
「抹殺だの催眠術だの、もうウンザリだぜ。そういうのはてめえらだけでやってくれ」
「随分と及び腰だな。さっきまでの威勢の良さはどこに行った」
「何とでも言えよ。俺には関係ねえ」
立ち上がり、せせら笑うように喉を鳴らす。
それから両手をポケットに入れて、肩をすくめた。
「頭の悪いお前らと違って俺様は現実主義者なんだよ。触らぬ神に祟り無しってな」
「逃げても状況は改善せんぞ。最悪、学園に残っていた者全てが殺されることになる」
「知ったことかよ。つーか、てめえらこそどうかしてるぜ」
ポケットから右手を出すと、胸の高さに掲げた。腕先から火の粉が散る。
「せっかくすげえ力を手に入れたってのに、やることは正義の味方ごっこかよ。この力を利用して、賢く生きようとは思わねえのか?
クソつまんねえガッコの、クソつまんねえ連中のために命懸けるなんざ、馬鹿以外の何者でもないと思わねえか?」
黒鉄の顔は笑っていた。
だが、心から笑っているようには見えなかった。
自分自身に言い聞かせているような必死さを感じる。それは、彼が明に「怯えている」と評された時にも見せたものだ。
"酸っぱいブドウ"……ふと、そんな言葉が思い浮かんだ。
上手く言えないが、このままでは、良くない。
名状し辛い義務感に突き動かされ、望美が彼にかけるべき言葉を探していると、明が先だって口を開いた。
「……そうだな。お前の言っていることは正しい。人生とは、何を置いてもまず自分を第一に考えるべきだ」
こともなげに同意し、続く言葉で、
「だが、一つだけ誤解を訂正しておこう。俺が命を懸けるのは正義のためではない。信念のためだ」
「信念だと……?」
「そうだ。もう二度と、俺の目の前で人は殺させん。馬鹿だ愚かだと言われようと、それだけは譲れん」
「はっ、くだらねえ。何が信念だ」
「信念という言葉が嫌なら自尊心と言い換えてもいい。絶対に折れてはならぬもの、自身を肯定するために不可欠な要素。お前にもあるはずだ」
黒鉄から笑みが消えた。火の粉の勢いも、瞬く間に衰えていく。
わざとらしい仮面の下から現れたのは……何だろう?
嫉妬? 羨望? 羞恥?
どれも望美には馴染みの無い感情ばかりで、これと特定することができなかった。
「黒鉄、お前が本気で逃げるべきだと考えているのなら、それでいい。無関係のお前に命令できるような立場でも無いしな。
だが、もしも恐怖に屈しているだけなら……いつか後悔するぞ。俺のように」
そうして明は、立ち尽くす黒鉄に背を向けた。
「霧が晴れるまで、山の中にでも隠れていろ。じきに終わる」
望美に目配せすると、足音を忍ばせ、共に正門へ。
途中、明は立ち止まって、
「……お節介だったと思うか?」
と、望美にこぼした。
望美はすぐには答えず、後ろを振り返った。
古井戸のあたりは白い霧に覆われ、もう何も見えない。
黒鉄はまだあそこにいるのか。それとも、どこかに移動してしまったのか。
「分からない」
望美は、そう答えるしかなかった。