第十四話 原点
住宅街の片隅にこじんまりとした登山道が口を開けている。
付近に見えるのは石の鳥居と背の高い灯篭。そして、鳥居の前には明と望美の姿があった。
「……そう、妹さんが」
話を聞き終えた望美はゆるやかな吐息と共に目を閉じた。
しめやかにこうべを垂れると、耳成山に向かって黙とうを捧げる。
明はそれを最後まで見届けてから、望美と共に山道を登り始めた。
「後で知ったことだが、その時既に鳴衣は荒神の力に目覚めていたようだ。実に不届きなことに、当時まだ一般人だった兄上様を追い越してな」
冗談めかして言ったつもりだったが、望美はあまり面白いジョークだと思わなかったようだ。
非難と気遣いをない交ぜにした視線を受けて、明は居心地悪そうに口元を歪めた。
「夜渚くん……もしかしてだけど、自分が代わりに死ねば良かったとか思ってない?」
「俺はそこまで自罰的な男じゃないさ。自己犠牲と逃避が紙一重だということくらい、言われなくとも分かっている」
「だけど、夜渚くんがこの町に来たのは復讐のためでしょう? 自分の命を危険にさらしてまで仇を討とうとするのは自己犠牲と何が違うの?」
「全く違う。俺のそれは自己満足だからな」
憎しみの感情が無いと言えば嘘になる。大切な家族を殺したタケミカヅチを許すことなど、できるはずがない。
しかし、それはあくまで戦う理由の一つだ。メインではない。
夜渚明という人間の"軸"は、後ろ向きな復讐心とは別のところにあるのだ。
「俺は自分の心にけじめを付けるために帰って来た。タケミカヅチをブチのめすのはそのための手段であり、体のいいランドマークに過ぎん」
長年のわだかまりに明確な終止符を打つため。七年前の弱い自分に打ち勝つため。
もう一度、時計の針を前に進めるため。
その決意が明をここまで導いてきた。
「つまり夜渚くんは自己実現が目的ってこと?」
「自己啓発本みたいな言い方をされると途端に安っぽく思えてくるが……大方その認識で問題ない。……俺は、奴に勝利することで自分を取り戻したかったんだ」
口に出してみればとても単純な理由だ。それと同時に、自分がどれほどつまらない意地を張っていたのかを自覚させられる。
何も隠しておく必要などなかったのだ。
周りには背中を預けられる仲間がいて、彼らは自分と同じ未来を見据えている。ならば、この戦いを自分だけのものにしておくのはフェアな在り方ではない。
「……うん、理解した。それじゃあ、タケミカヅチを倒したい夜渚くんはこれからどうするべきだと思う? 何をするのが一番効率的だと思う?」
こちらの内心を先回りするように望美が問う。
聞かずとも答えは分かっているのだろう。しかし、あえて言葉にすることが彼女に対する礼儀でもある。
どちらともなく立ち止まると、二人は示し合わせたように視線を絡ませた。
「望美、俺はなんとしてもタケミカヅチを倒したい。だから……お前の力を貸してくれ」
「八十点」
「……どこに減点要素がある」
「そういう台詞はもっと前に言うべき。三輪山で勝手に飛び出したことを私は忘れてない」
「めんどくさい奴だな。過ぎたことはいい加減水に流せ……と、おや?」
不意に視線を外し、山の上方に目を向ける明。望美も不思議そうな顔でそれに倣う。
「何か見えたの?」
「見えたというか、近くで人の波動を感じてな。最初はただの登山者かと思ったが……」
「……あ。もしかすると璃月さんかも」
望美は素早い手つきでスマホを叩き、何秒かの沈黙を経てから首を振った。
「駄目。二十分くらい前から位置情報のログが更新されてない。電源を切ったのかも」
「アプリに気付かれたのか?」
「そこまでは分からないけど、どのみちこれ以上の追跡は不可能」
「そうか。なら、実際にこの目で確かめてみるしかないな。幸いそいつの反応はすぐ近くだ」
二人は物音を立てないように移動を開始する。
件の波動は山道から少し外れたところで停止していた。
そこは奇しくも、明がこれから向かおうとしていた場所……鳴衣の殺害現場だった。
偶然なのだろうか、と思い、すぐに疑問を振り払う。
どうせ答えはあと数分で明らかになるのだ。余計な先入観など持つべきではない。
薄闇が満ちつつある山の中、葉擦れの音に包まれながら丸太組みの段差を上っていく。
結論から言うと、そこにいたのは斗貴子ではなかった。が、それと同じくらい予想外の人物でもあった。
亜麻色の髪をシンプルに束ねた、朴訥そうな少女。
彼女は地面から顔を上げると、目を丸くしてこちらを見た。
「あれ、夜渚くん? と……それに、金谷城さんまで。二人ともこんな時間にどしたの?」
「それは俺の台詞なんだが……。こんなところで何をしてるんだお前は」
そのあどけない表情と長過ぎて脚の見えないスカートを明が忘れるはずがない。クラスメートの新田晄だ。
問われた彼女は中腰のまま熊手を持つと、魔法少女のステッキさながらに振り回す。足元には無惨にも刈り取られた雑草たちが横たわっていた。
「何って……見れば分かるでしょ。草刈りだよ?」
「こんな山奥で草刈りだと? 耳成山を禿山にでもするつもりか?」
「んもー、そんなわけないじゃない。夜渚くん分かってて言ってるでしょ」
晄は脱力するように肩を落とした後、背後にある石の斜面に視線を投げかけた。
周囲の地面は綺麗に掃除されており、斜面の下にはいくつかの花束と駄菓子の詰め合わせが供えられている。
それらが意味するものは、祈り。もしくは手向けだ。
「ここ、なんだね。夜渚くんの妹さんが、その……」
「そういうことだ」
続く言葉を探そうとする望美に対し、明は短く同意を返した。
「それにしても……晄があの事件を知っていたとはな。しかもこんなお供え物まで」
明はしばし呆然としながら、そして確かな感謝を胸に晄の顔を見つめていた。対する晄は照れがちに苦笑を返すだけだ。
「たまーに立ち寄るだけだよ。それに、元々はおじいちゃんが始めたことだしね」
よっこいしょと腰を上げ、丁寧に砂を払うと、
「うちのおじいちゃん、昔は毎週ここに通ってたんだ。事件のことをみんなが忘れないように、いなくなった女の子がいつ戻ってきてもいいようにって。最近は腰が弱くなっちゃったから私が引き継いでるんだけど」
「だが、その御仁は鳴衣と直接交流があったわけでもないんだろう? なのにどうしてこんな手間のかかることを」
「知り合いじゃなくても心配するのは当たり前じゃないかな。私たちの住んでる町で、あんなに小さな子が不幸に遭ったんだもん」
「……俺は、事件のことなど誰も覚えていないだろうと思っていた」
「みんな口に出さないだけだよ。大人だけじゃなくて、同年代の子の中にもちゃんと覚えてる人はいるから」
「そう、だったのか」
腹の底から込み上げてくるものを感じて、明は自然とつばを飲み込んでいた。
忘れられていなかった。
この七年間、あの惨劇と戦っていたのは自分だけではなかった。
名も知らぬ誰か、会ったこともない誰かもまた、同じ空の下で心を痛めていたのだ。
心強いと思った。
だからこそ、彼らに恥じぬ戦いをしよう。そう強く心に決めて、拳を己が胸元に置いた。
「晄、ありがとう。それと、お前の祖父に……いや、あの事件を覚えてくれている全ての者に感謝を伝えておいてくれ」
「ふふっ、大げさだなぁ」
「俺にとってはそれくらい大事だったということだ」
大真面目に頭を下げる明。晄は顔をほころばせると、
「ん、確かに承りました。おじいちゃんやりっちゃんにちゃんと伝えておくね」
「りっちゃん? 誰だそれは」
「おじいちゃんと同じくらい頻繁に来てくれてた子。……っていうか、夜渚くんも知ってるでしょ?」
「は?」
固まる二人。ややあってから晄は口に手を当て、
「夜渚くん、ちょっと前に警察の人に呼び出されてたでしょ? あの時廊下でりっちゃんと話してたから、顔見知りなのかなぁって思ってたんだけど……」
「すまん、マジで分からん。何年何組だ?」
「あ、勘違いしてるみたいだけどりっちゃんは高臣生じゃないよ。真っ白い髪をしてて、結構スタイルも良い女の子なんだけど……心当たりない?」
「……はああああああああああああぁ!?」
もやに包まれていた「りっちゃん」像が途端にはっきりとした形を見せ始める。
そいつはまさしく、明が探し求めている彼女の顔で──
と、その時。
「──ッ!!!!」
山の奥からかすかな音が聞こえてきた。
それは聞き慣れた誰かの叫び声と、遠雷の音だった。