第九話 因縁
翌日。明は午後の授業を抜け出し、学園の屋上で一人考え事をしていた。
枕代わりの制鞄に頭を乗せて、青い空に視線を揺蕩わせる。仰向けの体は四肢を大きく投げ出していた。
十一月も早半ば、秋の終わりに吹き付ける風は強い。風はどこか寂しげにいななき、草木のざわめきにも似た授業の音を運んでくる。
だが、明の興味は空の上にも階下の授業にも向けられていない。
彼の心にあるのは件の少女のことだけだ。もちろん、まるきり色気のある話ではないが。
「璃月斗貴子。ツクヨミの力を持つ荒神。猛の実の姉。煽り弄りが何より好きな性悪女。……そして、秘密を持つ者」
初めて出会った時からずっと、斗貴子は秘密を抱え続けている。
生徒会にも所属せず、立場的には市内に数多潜む荒神の一人でしかない彼女があえて戦いに身を投じる理由。彼女の尽きせぬ闘志、そして憎しみの根源となるもの。
それを知るための鍵はタケミカヅチが握っている。明はそう信じて疑わなかった。
「よもやこんなところでターゲットが被るとはな。タケミカヅチの奴、多方面から幅広く恨みを買っていると見える」
斗貴子が三輪山で見せた奇妙な態度。そして昨日の異様な殺気。
間違いない。彼女とタケミカヅチは過去の因縁とでも呼ぶべき運命の糸で固く結ばれている。
しかし、明にとって何より意外だったのは……その糸の一端が、もしかすると明にも伸びているかもしれないということだった。
璃月斗貴子は、夜渚明を知っている。
それどころか斗貴子の過去に明自身が関わっていたとして不思議ではない。なぜなら彼女は明を積極的に事件から遠ざけようとしていたのだから。
「とはいってもな……」
苦い顔で首を振り、にわかに強くなった日差しを指先で隠す。
考えれば考えるほど身に覚えがなかった。
幼少期の思い出など総じておぼろげなものでしかないが、それでも斗貴子のように印象的な容姿をした人間を覚えていないはずがない。会えば必ず記憶に残るはずだ。
「マジで誰なんだあいつは……? こうなるとたった一度だけ遊んで将来結婚の約束をしたとか、当時は男だと勘違いしていたとか、そういう路線しか思いつかんぞ俺は」
「ラブコメ思考に骨の髄までどっぷりじゃぶじゃぶしてますねえ。言ってて悲しくならないんでしょうか?」
「誰かさんに関しては実際の性格がどうしようもないからな。悲惨な現実に病み疲れた時、人は妄想の中に救いを求めるしかない」
「社会性を放棄した先に真の幸福は訪れませんよ」
「社交性が歪んでいる人間にそんなことを言われるとは思ってもみなかったな。雷に打たれたような気分だ」
「それこそ大きな誤解です。斗貴子ちゃんは明るく朗らか、いつもみんなの人気者なんです」
「明るい奴は他人の死角から忍び寄ったりはしない」
「そんなの、明さんならとっくに気付いていたでしょう? そういう能力なんですから」
硬質な音を立てて屋上の床を叩くローファー。古びた給水槽の裏から斗貴子が降りてきたのだ。
明は目元にかざしていた指を離すと、斗貴子を下から仰ぎ見る。
黒くフィット感のあるブレザーに、やや広がりを見せるミニスカート。何より目を引くのは、銀糸のように輝く白い髪だ。
明は斗貴子の顔をじっくりと見て、なびく髪先を舐めるように見て、最後にハイソックスからちらりと覗く太ももを見てから、
「……やはり記憶に無い脚だ」
「えぇ……そこで判断するんですか……? もうちょっとこう……」
明はとりあえず太ももの白さを目に焼き付けた後、ドン引きする斗貴子を胸のすくような思いで一瞥した。
「どうせまともな答えは返ってこないんだろうが、一応聞いておく。お前、どこかで俺と会ったことがあるのか?」
「これまた手垢のついた口説き文句ですねえ」
「真面目な話だ斗貴子。そして俺はいつも真面目だ」
「その台詞はツッコミ待ちにしか聞こえませんよ。ですが、そうですねー……」
そう言って斗貴子は少しの間考え込んだ。
その表情は何かを思い出しているようにも、適当な言い訳を考えているようにも見える。そして明が真実を掴まない限り、両者を判別することはできない。
「逆にお聞きしますが、明さんは以前にも私を見かけたことがあるんですか?」
「無い。無い、はずだ」
「でしょうね。でしたら、つまりはそういうことなんじゃないでしょうか」
「何がそういうことだ。まるで答えになっていないぞ」
「細かいことはいいじゃないですか。少なくとも結婚の約束を交わした覚えはありませんから、安心して落胆にむせび泣いてくださいね」
べ、と舌を出してから、含みを持たせるような笑みを見せた。
相変わらず煮ても焼いても食えない女だ。しかも物事をうやむやにする技術にばかり長けている。
こういう流れになってしまった以上、このまま話を続けても明が得られるものは何もない。せいぜいナンパ野郎のそしりを受けるだけだ。
しかし……あくまで私見を語ると、先ほどの言葉はそれなりに真実を語っていたように思う。
彼女のへそ曲がりは筋金入りだ。仮にどこかで話をしていたら、その時にも明は似たような辱めを受けていたはず。割と根に持つタイプの自分がそれを忘れるはずがない。
ならば、やはり、彼女の言う通り、そういうことなのだろう。
納得はいかないが、ひとまずはそれで引き下がるしかない。今の自分たちにはもっと優先すべき話題があるのだから。
「まあいい。それはそれとして、今日は何をしに来た? まさか俺の顔を見に来ただけということはあるまい」
「ふふふ、もしそうだったらどうします?」
「別に減るものでもなし、好きなだけ見るといい。無論、俺の方もそうさせてもらうがな。主にスカートのあたりを」
「たいへん申し訳ありませんが、この先は課金専用コンテンツとなっております。必要金額は生涯年収の百パーセントです」
「改めて聞くととんでもない暴利だな。人生の墓場とはよく言ったものだ……」
明はしみじみとつぶやき、そこでまた話を脱線させられていたことに気付く。
斗貴子はひとしきりほくそ笑んだ後、今度こそここに来た目的を話し始めた。
「話というのは他でもありません。タケミカヅチとカナヤマビコについてです」
「アホみたいに強い奴とアホみたいに迷惑な奴の黄金タッグだな。さすがにあんな戦い方を見せられては手をこまねいているわけにもいかないか」
かたや敵陣営最強の刺客。かたや仲間内ですら持て余す狂気の砲撃魔。別方向に危険な二体の化学反応は明たちを一時的にではあるが圧倒して見せた。
前回はスクナヒコナの機転によって場を仕切り直すことに成功したが、あんな方法はもう二度と取れないだろう。
次にあの二体が攻撃を仕掛けてきた場合、これまで以上に苦しい戦いが待ち受けていることは火を見るよりも明らかだ。
理想は各個撃破。最低でも彼らの連携を分断することができなければ、待っているのは悲惨な蹂躙戦だ。
「タケミカヅチはともかく、超長距離の攻撃手段を持つカナヤマビコに対して"待ち"の姿勢は悪手でしかありません。ですからここは先手を打って、カナヤマビコを叩きに行くべきだと思うんです」
「それは同感だが、言うは易しだぞ。たいていの場合、奴らは隔絶された異次元空間──フトタマの結界の中にいるんだからな」
「だとしても、どのあたりに結界を張っているのか予測することはできます。あの瞬間、カナヤマビコは確かにそこから砲撃を放っていたんですから」
斗貴子は給水槽の脇から革製の制鞄を持ち出してきた。
銀色の留め金を景気よく鳴らし、小物入れから地図のコピーを引き抜く。
地図上では黒い○で病院の位置が強調されており、そこから砲撃の飛んできた方……南東の方角に、赤い斜線で塗り潰された扇状のエリアが広がっている。
「いくつか候補はありますけど、一番怪しいのはこのあたりですね。狙撃用の砲身を固定できるだけの広い空間があり、なおかつまばらな木々が現神の巨体をカモフラージュしてくれる。そんなうってつけの場所がここにあるんです」
斗貴子の指が地図上の一点を示す。
そこは橿原市郊外に位置する田園地帯のただ中にあり、地図には太い文字で地名が書かれていた。
藤原宮跡、と。