第十五話 1/fの罠
奇襲を認識した段階で、明の足は地面を蹴っていた。
飛び退き、右の林に逃げ込む。細い木枝が顔を叩くが気にせず突破。
敵の武装は長柄の槍に金属バット。しかも相手は複数だ。対応するなら開けた場所より遮蔽物の多い場所がいい。
望美も同じ結論に行き着いたらしく、明とほぼ同時に反対側の林へ飛び込んでいた。
(判断が早いな。戦い慣れているだけのことはある)
彼女がただのか弱い女子高生ではないことに今さらながら気付かされる。くぐってきた修羅場の数では黒鉄にも引けを取るまい。
そしてその黒鉄だが、彼だけは反応が遅れていた。
「なっ、こいつら──!?」
非常識な展開の連続に頭が追いついていないのだろう。驚愕が体の動きを止め、混乱が思考を止める。
棒立ちの黒鉄を、ジャージの女子生徒が狙っていた。
「ぼさっとするな! 避けろ!」
「……っ!」
明の怒声が戒めを解き放つ。黒鉄はすんでのところで身をよじり、槍の穂先を回避した。
しかし、相手は刺突の姿勢を保ったまま突撃を続行。華奢な体躯に見合わぬ強引な攻め方が、黒鉄をたじろがせた。
「うおおっ──!?」
肩がぶつかり、揉み合うように転倒する。
そこから先は、明自身も目を向けている余裕が無くなった。バットの男の片割れが、いよいよ林に侵入してきたのだ。
「お前は何者だ? なぜ俺たちを狙う」
応答は無言。バットを竹刀のように握り直し、中段に構えて前進。
「だんまりか。元より期待はしていなかったが」
男子生徒は大きく踏み込み、頭部狙いの一撃を見舞う。
明は膝を折り曲げその場で後転。背後の茂みに体をねじ込んだ。
(さて、どう対処する? 俺の予想が正しければ、このまま突っ込んでくるはずだが……)
伸び放題の雑草は、近寄るだけで顔や体にまとわりついてくる。
入るにしても、草をかき分けながら進まなければ、あっという間に視界が塞がれてしまう。
だが、男はそんなことを気にも留めなかった。
バットの構えはそのままに、猪突猛進、強行突破。たき火のはぜるような音は、草木が無慈悲に蹴散らされる断末魔だ。
せめてもの抵抗とばかりに、茂みが男の野球帽をすくい取る。
露わになるのは、どこにでもいそうな少年の顔。
しかし、その表情はどこか緩んだ夢見心地だった。とても殺人者の顔つきには見えない。
「やはりな」
確信と共に、茂みの中から身を起こした。目の前には男の顔。
彼はこちらを見とめると、顔色一つ変えずにバットを振りかぶった。
フォームは横向き。固く握った両手の指が、テーピングとの摩擦で鈍い音を立てる。
上半身をひねる様は、マウンドに立つ選手そのものだった。
「なるほど、反射的に普段の動きが出てしまったか。根っからの高校球児だ」
苦笑し、男のこめかみに指を当てる。
「……だが、この距離では剛速球より俺の方が速い」
"揺らす"力を発動。
男の頭が微動して、糸の切れた人形のように倒れていく。
その様子を見届けることなく、移動を開始する。
いちいち確認する必要は無い。ああいうからくりなら、こうすれば確実に無効化できると分かっていた。
林を抜け出て古井戸の前に戻る。木々の合間に見えたのは望美ともう一人の野球男。
望美は既に相手の武器を奪っていたようだ。浮遊する金属バットが素振りをしながら男をけん制している。
「くっ……こっちに来ないで!」
一見すれば望美の圧倒的優勢だが、彼女の顔色は優れない。
対する男は無手のまま、無策で望美に手を伸ばす。
「ごめんなさいっ……!」
謝罪を唱え、指で小さく下振れの弧を描く。バットがその軌道を追った。
男の脛をしたたかに打ちつけ、その足をすくう。
受け身も取らず、無様に転倒する男。しかし、すぐさま起き上がる。寝ぼけたような顔のまま。
脛といえば、弁慶の泣き所とも呼ばれる急所のひとつだ。そこを殴打されて平気でいられる人間など、存在しない。
大抵は痛みにのたうつか、そうでなくとも顔を歪める。大の大人ですら例外ではない。
だが、この男はどちらの反応も示さなかった。
「やはりな」ともう一度つぶやくと、明は望美に指示を出した。
「こちらに寄越せ!」
「……っ!」
簡略化した一言だったが、望美は期待通りの行動を取った。
男の胸をバットで押しのけ、追加で自身も体当たり。明の方に突き飛ばした。
「ご苦労だった」
肩を抱くようにして捕獲すると、暴れる男のこめかみに振動を送った。
効果はてきめん。男の体から一瞬で力が抜ける。
気絶した男を地面に横たえ、最後の一人を探す。
その時、くぐもったうめき声が聞こえた。黒鉄だ。
視線を左、古井戸の陰に向ける。見えたのは黒鉄の足先と力無く投げ出された腕、そして彼にまたがる女子生徒の背中。
「いかん……!」
急いで駆けつけ、女のこめかみを揺らす。それからすぐに、強張った両手を黒鉄の首から外した。
「黒鉄、無事か?」
「げほっ! げほっ、げはっ、はぁ、はぁ、はぁ……あぁ……?」
「……死んではいないようだな」
体を持ち上げ、井戸の縁石に寄り掛からせてやる。
黒鉄は焦点の定まらない目で長い呼吸を繰り返していたが、一分ほどすると徐々に口がきけるようになってきた。
「あいつらは……何だ?」
こちらを見上げて途切れ途切れに舌を動かす。にじむ思いは恐怖と不安のまだら模様。
「何だって、俺が、こんな目に遭わなきゃならねえんだ。お前ら、何と戦ってるんだ」
「それは……私たちにも分からない」
「あの女、どう見てもまともじゃなかった。怒りも笑いもしねえで、ぼんやりした面のまま、俺を殺そうとしやがったんだ……」
うわごとのようにつぶやきながら、歯を震わせる。
普通の喧嘩には慣れていても、本気の命の取り合いを経験したことは無かったのだろう。自身の死という抗いがたい終わりに直面したことで、虚勢を張る活力すら失っている。
それでも"何だ"と問うことができたのは、彼に残された最後の意地にほかならない。
危険からただ逃れるだけの動物とは違う。知らないままでは終われないという、実に人間らしい情動だ。
(その意気やよし。ドチンピラのくせに最低限の尊厳は持ち合わせていたようだな)
黒鉄に対する評価を少しだけ改めると、明は自身の推理を開帳することにした。
どのみちこれは、黒鉄にも知っていてもらわねばならないことだ。
さもなくば、彼は高確率で敵に回る。望む望まざるにかかわらず。
明は二人の注目を集めるため、おもむろに人差し指を立てた。
「今しがたの襲撃についてなら、おおよその見当はついているぞ。なんとなく感付いているかもしれんが、彼らは操られている」
「操られている、って……洗脳ってこと?」
「近いな。正確には催眠術、あるいは暗示のようなものだと俺はにらんでいる」
「催眠術だと……? そんなうさんくせえもんで、人を操ったりできるのかよ?」
眉をひそめる黒鉄。
明は立てた指先も含め、五本の指を一様に曲げると、鍵盤を奏でるように木の幹を叩いた。
絶え間無く繋がる硬質な音が、環境音のように染み込んでいく。
そのリズムは、スピーカーから流れてくる謎の音と一致していた。
「1/fゆらぎ──これが、全ての謎を解くカギだ」