第四話 覚悟の取捨選択
今回は長め。
「人は、己の内に眠る荒神因子の覚醒によってはじめて異能を獲得します。活性化した因子は宿主から余分な栄養を引き取って、そのエネルギーを異能の糧にするのですが……」
スクナヒコナはチェストの近くに歩み寄り、その上に置かれた花瓶に目を向けた。
「悪性変異した荒神因子はその均衡を破壊します。生命維持に必要な栄養さえも奪い取り、際限なく自己増殖を繰り返す。まるで寄生虫のように」
細い指が瓶の根元をなぞる。
フラスコ型のガラス瓶にはなみなみと水が注がれており、そこに活けられた花々はどれも生命力に満ちあふれていた。
だが、もしも花瓶の中にほんの少しの水しか入っていなかったら?
あるいは、花の数に対して給水量が見合っていなかったら?
にも関わらず、新しい花──しかもとりわけ大食漢の者たちがどんどん増えていったら?
(いずれ全ての花は枯れる、か)
以前、異能を使い過ぎた猛が昏睡状態に陥ったことを思い出す。
あれは一時的なものだったが、沙夜の場合は同様の現象が長いスパンで繰り返されているのだろう。
そして、このサイクルは彼女が死ぬまで終わらない。
暴走した荒神因子とは、既存の検査方法をことごとくすり抜けるステルス癌細胞なのだ。
「この時代の医者がさじを投げるのも仕方ありませんね。"荒神因子"なんて大層な言い方をしても、見た目は普通の細胞とほとんど変わりませんから。私だって、似たような症例を目にしていなければ見落としていたかもしれません」
「前例があるのか?」
「はい。オモイカネという現神も、ヤサカニと同化した脳細胞に体を蝕まれて命を落としています。もっとも、安定性の高い荒神にこういった症状が現れるのはとても珍しいことですが」
「……そう。やっぱり普通のものじゃなかったのね、これは」
沙夜は難しそうに口を結んでいたが、ようやく内容が飲み込めたのかぎこちない頷きを見せた。
「要約の必要はあるか? 聞き慣れない単語も混じっていたと思うが」
「いいえ、大丈夫よ。正直完全に理解できたとは言い難いけど、あなたたちの持っている力と私の病気に関連性があることは分かった」
もう少し戸惑うものかと思っていたが、沙夜の反応は思いのほか冷静だった。
というか、この際詳しいことなどどうでもいいのだろう。自身に待ち受ける運命すらも彼女にとっては些末事だ。
死を間近に臨んだ彼女が気にしているのは、最初から稲船のことだけなのだから。
「それより、私が聞きたいのは隆二さんのことよ。あの人は何とかして私を助けようとしてくれてるんでしょうけど……いったい何を?」
「そうだな……話せば長くなるが……」
適当な前置きで時間を稼ぎながら、明は頭を悩ませていた。
稲船の目的は新たな神代の到来だ。そのヒントに"長倉沙夜"というエッセンスを加えてみれば、彼の望みもおのずと明らかになる。
彼は自分が神になりたいのではない。沙夜を神にしようとしているのだ。
新たな神代は現神だけでなく、因子を持った人間をも進化させる。それは望まぬ変異を遂げた荒神因子を作り変え、死の淵にある彼女の肉体を不死鳥のごとく復活させるだろう。
全ては沙夜のために。愛する者を救うために。
それがこの大それた事件の、ささやかな発端だった。
だからこそ明は悩んでいるのだ。
(俺は……沙夜先生に真実を伝えるべきなのか?)
稲船がやろうとしていることを考えると、彼は荒神の、そして人類全体の敵だ。
彼が現神を解放したせいで多くの人々が犠牲となった。その中には明の妹……鳴衣も含まれている。
たとえどのような理由があったとしても許されることではない。しかるべき報いを、受けさせねばならない。
だが……そういった血なまぐさい事情に彼女を巻き込んでしまうことは、果たして正しい行いと言えるのだろうか?
大切な人が自分のために罪を犯していることを知れば、彼女は何を思うだろうか?
(……くそっ。存外度胸の無い男だな、夜渚明は)
様々な思考を巡らせた末、明が出した答えはおよそ明らしくないものだった。
「稲船理事長は天之御柱と呼ばれる遺跡に向かっている。スクナヒコナの話では、そこに万病を治す霊薬が眠っているらしい」
『え、あの、それは私も初耳なんですけど……?』
意外な発言に面食らったのか、スクナヒコナが蟲を通して抗議を伝えてくる。
が、明は素知らぬ顔で黙殺。スクナヒコナは視線をしきりにさ迷わせた後、
「ええそうなんです。ですが天之御柱には恐ろしい邪神が封じられていて、このままでは稲船さんの身に危険が降りかかるかもしれない、ということなんです、はい」
「邪神!?」
「はい」
「……その、なんとなくのイメージだけで聞くけど、それって凄く危ないものなんじゃない?」
「はいそれはもう。ですから早く止めないといけないんです」
若干声が上ずっていたが、邪神というパワーワードが沙夜の興味を散らすことに成功したようだ。
沙夜はとても深刻そうな表情で口を押さえ、愛する男の名前をつぶやく。そして決意を秘めた視線をこちらに向けた。
「なるほど、事情は理解したわ。今度彼に会ったら引っ叩いてでも止めてみせるから安心して」
「いきなり頼もしいお言葉が出てきたな……。意気込みは買うが、少しは自分の体調に気を遣ってくれ」
「そんなことを気にしてる場合じゃないでしょう。大体、恋人を放置して冒険家の真似事なんて決して許されるものじゃないわ。あの人にはたっぷりお説教をしてあげないと」
鼻息荒く拳を握る沙夜。
ほのかに血色の戻った顔を見ながら、明は密かに安堵していた。とりあえずではあるが、彼の選択はベターな結果を導き出したようだ。
ともあれ、ここに来た目的は達成した。後はボロが出る前に退散するだけだ。
明はスクナヒコナに目くばせすると、
「俺たちはそろそろお暇させてもらう。面倒事が溜まっているのでな」
「ええ、晄さんによろしくね。……それと」
そう言って、沙夜は人差し指を口元に立てた。
「夜渚くんも危ないことはしないでね。隆二さんもだけど、男の人って自分が無敵だと思い込んでしまう節があるから」
「無敵だと思ったことは無い。無敵でありたいと願っているだけだ」
「意地っ張りね。まあ、私も他人のことはとやかく言えないんだけど」
呆れ混じりの苦笑に別れを告げ、明は病室を出る。
そうしてしばらく無言で歩き続けた後、通路の角でぴたりと足を止めた。
「すまんな。問題を先送りにするだけだと分かってはいたんだが、踏ん切りがつかなかった」
「構いませんよ。第一、私に夜渚さんを責める資格なんてありません」
どうせなら先に言っておいてほしかったですけど、と付け加え、悪戯っぽく唇をとがらせる。
それから少しうつむきがちに、
「ですが……今回のことは色々と衝撃的でしたね。あのニニギがまさかあんな動機で動いていたなんて」
「意外か?」
「ニニギは誰にも心の内を見せない人でしたから。もしかするとヒルコの傀儡なんじゃないかって疑っていたこともあります」
「むしろ誰より人間的な男だったというわけだ。それだけにやり辛い」
新たな神代が到来すれば世界は滅亡し、人類はごく一部を残して死に絶える。
しかし、それを阻止することは同時に沙夜の死を意味するのだ。
たった一人の女性と引き換えに全てを壊すなんてはた迷惑もいいところだが、それでも理解はできる。
自分以外の誰かを強く想い、その者の幸せを願う気持ち。家族であれ友人であれ恋人であれ、そういった気持ちは誰もが等しく持っているのだから。
「とにかく今は新たな神代を止めることに専念しましょう。ニニギや沙夜さんのことは、その後で改めて考えればいいと思います」
「全ては天之御柱を攻略してから、か」
天之御柱はこの飛鳥地方に眠る全ての遺跡を統括しており、現神の本拠地もその中にあるのだという。
戦況がどちらに転ぼうと、最後の決戦は間違いなく御柱が舞台となる。その事実は明の心を否が応にも興奮させていた。
「稲船絡みの調査ばかりで聞きそびれていたが、御柱の場所はまだ分からないのか? 元々お前たちが封じられていた場所なんだろう?」
「すみません。位置的には大和三山の中央にあるはずなんですけど、抜け道の座標が変更されしまったみたいで」
「……? どういうことだ?」
「それはですね……ええと、その、それは、ですね……」
「?」
「……ちょ、ちょっとだけ待ってくださいね!? 夜渚さんにも理解できる単語で説明しますから!」
「あ、ああ……?」
視線を宙に泳がせて、しばしの長考。
彼女が思考を整理し終えたのは一分後だった。
「噛み砕いて言うとですね、武内宿禰は現神の封印を盤石なものにするため、御柱そのものを異空間に飛ばしてしまったんです」
「異空間……というと、フトタマの結界か?」
「正確にはフトタマの応用ですね。位相をずらした結界を幾重にも塗り重ね、元の世界との間に次元の迷宮を作り出したんです。御柱の解析能力をもってしても脱出には数億年かかると言われていました」
「しかし外から裏口を作ることは簡単だったようだな。武内宿禰も脇が甘い」
「そうとも言えません。実際、ニニギとヒルコが来なければ私たちはあのまま朽ち果てていたでしょうから」
「二度と日の出を拝むこともなく、か」
そして一瞬だけ、明は目を伏せた。
「ともあれだ。要するに、その裏口が別の場所に移動してしまったんだな?」
「概念的にはそういう感じですね」
「探す手段はあるのか? 結界絡みとなると俺たちは何も手助けできんぞ」
聞くと、スクナヒコナは胸元から榊の枝を取り出してみせた。忌部山の結界を解いた祭具だ。
「私も結界の構築には心得があります。大和三山の余剰電力をかすめ取れば、作成済みの結界に干渉することくらいはできるはずです」
「それは何よりだ。で、裏口を見つけるのにどれくらいの時間がかかる?」
「……夜渚さん、神が神に祈るのはいけないことでしょうか?」
「駄目とは言わんが、せめて人間の前では威厳を保ってくれ」
誤魔化すように微笑むスクナヒコナ。この反応を見る限り、今日明日じゅうに何とかできるような次元ではなさそうだ。
しかし当の明もこれといった対案があるわけではない。かろうじて思いついたのは"敵をボコって無理矢理吐かせる"といったしょうもないものだった。
いや、別にボコる必要はない。知っている人間をこちら側に引き込めばそれでいいだけなのだが、それこそ机上の空論だ。彼らに説得が通じないことはとうに分かっている。
ヒルコや現神はもちろんだが、特に稲船が難物だ。
他人のために動く者は誰より強い。だから、彼はたとえ自分一人になったとしても新たな神代を諦めないだろう。
既に失ってしまった自分や倶久理とは違う。
稲船は、失わせないために戦っているのだ。
その覚悟の強さは、あの時覚悟を決められなかった明自身が最も良く理解している。
「沙夜先生の病気さえ治れば、などと考えてしまうのは甘えだと思うか?」
「思いませんよ。ただ、難しいとは思います」
「だろうな」
明はぼやくように言った後、
「……そういえば、イザナミを取り戻した天之御柱はもう完全に起動しているんだよな? なら、通常の神産みを行うことはできるのか?」
「え? それはまあ、できるといえばできるでしょうけど……それが何か?」
「いやな、沙夜先生がお前のような現神になることができれば、稲船が新たな神代にこだわる必要もなくなるんじゃないかと思ったんだが……」
「……………………」
スクナヒコナは時間が止まったかのように静止した後、難しそうに首をひねった。
「技術的には可能ですが、それでは根本的な解決にならないと思います。オモイカネが同じ病気に悩まされていたことを思えば、現神になったところで荒神因子が安定するとも思えません。最低でも現神より上位の存在にならないと」
「だったら遺伝子治療はどうだ? 結局のところ、荒神因子は特殊な配列をしたDNAでしかない。お前の蟲を使ってヤサカニ由来の部分だけを除去すれば、暴走した荒神因子を無害化できる」
スクナヒコナは再び沈黙。珍獣でも見るかのように明を眺めた後、
「それも理屈の上では可能ですが、実際には実現不可能です」
「よく分からん答えだな。可能は可能なんだろう?」
「沙夜さんの荒神因子は常に増殖と転移を繰り返しています。仮にいくつかの細胞を治療したとしても、その間にまた新たな細胞が増えていくんです。……お恥ずかしいことですが、私の力では細胞の増加速度に追いつくことができません」
「これも駄目か。いいアイデアだと思ったんだがな」
舌打ちする明をスクナヒコナはしばらく見つめていたが、やがて意を決したように詰め寄ると、
「夜渚さんは……高天原の技術を否定しないんですね。私たちの過ちと傲慢さがあなたたち荒神を苦しめているというのに」
「それとこれとは別問題だろう。確かにお前たち古代人は要らんことばかりしてくれたが、だからといって全てを拒絶する必要もない。俺たちに宿る異能も、これはこれで役に立つしな」
「力に善悪は無いということでしょうか? 私欲に端を発する現神の歩みにも、何らかの意味があったと?」
「そんなことは知らん。だが便利なものは遠慮なく利用するのが俺たち現代っ子だ。必要ならマッドサイエンティストの知恵を拝借することもやぶさかではない」
「したたかですね、夜渚さんは」
「俺に限らず大抵の人間はそんなものだと思うぞ。無論、武内の奴だけは例外だが」
全てを知った今でも明のスタンスは変わらない。
使えるものは何でも使う。どのような由来を持っていようと関係ない。
力の価値を決めるのは自分自身であり、それがもたらす結果を受け止めるのも自分以外にいないのだ。
「……おかしいですね。慰めの言葉を掛けられたわけでもないのに、なぜか救われたような気分です」
少し湿り気を帯びた吐息が明の胸元にかかる。
大人びた微笑は深みのある甘さを含んでおり、明は思わず顔を反らした。
一見すると隙だらけに見えるが、やはりこの女は、魔性だ。いや、そも女とは魔に属するものなのか。
「ですが、どうかあまり気を許しすぎませんように。ニニギはともかく、これから戦う現神に交渉の余地はありません」
視線を戻すと、スクナヒコナはもう口元を引き締めていた。どうやら魔は過ぎ去ったようだ。
「夜渚さんがこれまで倒してきた現神は五人。そこに武内さんが倒した数を加えると……残る現神は、私を除けば三人だけとなります」
「最後の三人か。後から出てくる幹部は強キャラというのが通例だが……」
「その通例もあながち間違いではありませんね。あの三人はヒノカグヅチと同じ、最後の神産みの被検体。暴走したイザナミの電磁波を存分に浴びた、とてつもなく危険な現神なんです」
スクナヒコナは指を立て、
「一人目は砂の現神ハニヤスビコ。戦闘力はそこまで高くありませんが、手段を選ばない残虐さで他の現神からも恐れられています」
「猛から聞いている。人質作戦はアメノウズメもやっていたが、さすがにあそこまでイカレた虐殺行為ではなかったな」
「二人目は鉄の現神カナヤマビコ。ありとあらゆる武装を使いこなす生きた要塞です。ただ、あまりにも狂暴なので未だに天之御柱に閉じ込められています」
「そんなにヤバい奴なのか?」
「危険度だけなら随一と言ってもいいでしょうね。いくらヒルコでも、あれを解放するほど愚かではないと思いたいですが」
その声はいささか不安そうだったが、彼女は気を取り直すと、
「そして三人目。カナヤマビコをも凌ぐ最強の現神、それは──」
その時、病院全体を震わせるほどの轟音が聞こえてきた。
音は上から伝わってくる。それに合わせて、明の異能は屋上付近に巨大な波動を感じ取っていた。
その波長を明が忘れることはない。
何があろうと、絶対に。
何故なら彼は、奴を追い詰めるために戻ってきたのだから。
「来たか、タケミカヅチ──!」