第一話 柱
そこは白い霧に閉ざされた空間だった。
霧の中には静かな原生林が広がっており、そびえ立つ大樹の間には丈の長い葦が密に生い茂っている。
葦の草原は森の外れまで続いていたが、それはある地点を境にぱったりと途切れる。
代わって地面を覆うのは、不可思議な紋様を刻み込まれた石畳。考古学に造詣深い者ならその紋様が神代文字であることに気付くだろう。
舗装された大道は霧の中を貫くように真っ直ぐと伸びている。
終着点に見えるのは、一つの塔。
頂上を目視できぬほどに高い白亜の塔だ。
まるで世界の屋根を支えているかのような威容を評してか、古代人たちはこの塔を"柱"と呼んでいたという。
神の領域たる天の果てへと通じる偉大な柱──天之御柱、と。
「姿を見せろ、ヒルコ。ここにいるのだろう」
御柱の入り口、扇状に広がる長い階段のたもとにスーツ姿の青年がいた。高臣学園理事長、稲船隆二だ。
稲船には荒神ニニギというもう一つの名前があるが、彼自身はその呼び方をあまり好ましく思っていない。
神の御子など自分の柄ではない。自分は生き汚く我欲にまみれた、一人の人間なのだ。
「何をもったいぶっている。それとも駆け引きのつもりか?」
苛立ちを抑え、強い口調で共謀者の名を呼ぶ。すると、こちらに負けず劣らず機嫌の悪そうな声が返ってきた。
「……うるさいなあ」
姿は霧で見えないが、声は確かに階段の上から聞こえてくる。
稲船はそちらに向かおうとして……やはりやめた。今のヒルコを刺激することは得策ではないと思ったのだ。
「こんな場所まではるばるご苦労様。で、何の用だい? ぼくを笑いに来たの?」
「誰もが貴様と同じ価値観で生きているとは思わないことだな。私は計画の進捗状況を確認しに来ただけだ」
「なんだ、そんなこと」
ヒルコは投げやりに吐き捨てると、妙に言葉尻を上げた口調で、
「解析作業は順調だよ。イザナミが戻ってきたおかげで御柱の稼働率も右肩上がり。まあ、その点だけはきみを褒めてあげてもいいかなー」
「それは何よりだ。タケミカヅチに三輪山を破壊させた甲斐があった」
三輪山を完全に明け渡し、残る天之御柱に全ての機能を集中させる……それがあの時稲船の考案した策だった。
御柱は高天原の中枢であると同時に神産み研究の中心地だ。
これまでは動力不足のために最低限の設備しか動かせなかったが、イザナミの発電力をもってすれば全盛期のように大掛かりな実験をすることも不可能ではない。
荒神たちの死体から取り出したDNAは御柱の解析装置によって隅々まで調べ上げられ、そのデータは研究をさらに推し進めるだろう。
計画は順調に進んでいる。夢にまで見た神代に、あと少しで手が届く。
しかし、それを耳にしてもなお稲船の焦燥感は消えなかった。
彼女に残された時間は少ない。もはや一分一秒たりとて無駄にはできないのだ。
稲船は息の乱れを気取られぬよう、慎重に口を開いた。
「確か……貴様は神産みの第一人者だったな。貴様が解析に加われば、さらに作業効率を上げることは可能か?」
「まーねー。でもぼくはやんないよ。理由は言わなくても分かるよね?」
あっけらかんな言い草だが、言葉の裏にはとぐろ巻くような怨念がこもっていた。
「そりゃあきみは一刻も早く神代を呼びたいだろうけどさぁ、ぼくの方は全く準備が整ってないんだよね。だったら別に無理して急がなくてもいいかなーって」
「つまり、三貴士の肉体を得られるまでは一切協力しないと?」
「やだなー、そこまで薄情なことは言ってないってば」
白々しい弁解に稲船は嘆息。
この化け物は他人を利用価値の有無でしか判断しない。初めて出会った時から何一つ変わることのない、腐り果てた気質だ。
だが、それゆえに操ることもたやすい。飢えた獣は肉の匂いにとりわけ敏感なのだから。
「……いいだろう。タケミカヅチの指揮権を全て貴様に譲渡してやる」
一瞬の躊躇の後、思い切ったように言葉を続け、
「必要なら"奴"の拘束を解いてもいい。あの二柱が本気を出せば夜渚明など敵ではないだろう」
「わお、大盤振る舞いだ」
ヒルコは大げさに口笛を吹くと、
「で、も。それじゃあぼくに借りを作ったことにはならないよ。夜渚明を殺したいのはきみだって同じでしょ?」
「何度も言っているだろう。私が求めるのは新たな神代だけだ。計画が実現した時点でどの荒神が生きていようが死んでいようが興味はない」
「いいのかな、そんなこと言って。だいたい、教え子だからって変に情けを掛けたからこんなことになっちゃったんじゃないの? あいつのせいで計画がおじゃんになってもいいの?」
「……………………」
「ぼくを動かしたいならもっと譲歩しなきゃ駄目だよ。ね、もう一声無いの? 抜け目のないきみのことだし、隠し玉の一つや二つ持ってるんでしょ?」
値踏みするような視線が霧の向こうから伝わってくる。その時、稲船はようやく自身の失策を悟った。
このタイミングで取引など持ちかけるべきではなかった。
こいつは明らかに"あのこと"を掴んでいる。それでいて疑念をおくびにも出さず、稲船からアプローチをかけてくる瞬間を虎視眈々と待っていたのだ。
(……いいように操られていたのは私の方だったか)
だが、それでもいいと思った。
この身は罪にまみれている。今さら罪が一つ増えたところでどれほどの違いがあろうか。
その結果として犠牲になるのが、自分を慕う生徒の一人であったとしても。
稲船は己の心を凍てつかせ、ヒルコを動かすための切り札を場に出した。
「そこまで言うならおまけを付けてやる。最強の三貴士──アマテラスの肉体をな」
章タイトルで分かるかと思いますが、この章では例のあいつとの決着をつけます。