第九話 此花の散る頃に
地上に戻ると、太陽は最後に見た時と変わらぬ位置に輝いていた。
どうやら外では丸一日が経過していたようだ。程よい日差しと爽やかな秋風に慰撫されながら、一行は武内邸に帰還した。
疲労のせいか、はたまた探索が徒労に終わった脱力感ゆえか。仲間たちの口数は少なく、表情に覇気は無い。
陰気な一団は葬列さながらに廊下を進み、居間の障子戸をだるそうに開けた。
「ほう。ほほかっはやへーか」
「……何を当たり前のようにくつろいでるんだこの馬鹿」
彼らを出迎えたのは、折り曲げた座布団を枕代わりに寝転がる黒鉄だった。その口はリスのように膨れ、机の上にはカステラの空箱が置かれている。
武内が鬼の形相で青筋を浮かべる中、黒鉄は豪快に湯呑みをあおった。口の中のカステラを飲み下してから、しれっと一言。
「バーカ、客が客用の菓子食って何が悪いんだよ」
「勝手に上がり込む輩を客とは言わんだろう」
「細けえことは気にすんな。それに家主の許可は取ったぜ。ほれ」
きひひと笑い、湯呑み持つ手で部屋の奥を示す。
見れば、門倉を中心にクロエや猛、蓮といった生徒会の面々が集まっていた。
据え付けの掘り炬燵を四人で囲み、醤油煎餅片手にやいのやいのと騒いでいる。広げているのは花柄のアルバム帳だ。
「でねでね、これが入学式の写真。そう、これぞ世にも珍しい"緊張で固くなった暁ちゃん"でございまーす」
「あ、暁人様がこんな表情をっ!? ……すみません眞子先輩、これ一枚コピーしてもらってもいいですか?」
「……お二人とも、武内研究家にしか分からない内輪ネタはそろそろやめてくれませんか? ヒヨコの雌雄より判別し辛いですよこれ」
「っていうか会長、二年前から全然顔が変わってないんだね……。正直、アルバムを遡るのが怖くなってきたんだけど」
武内がいる時は絶対にできないであろう話題を肴に盛り上がる四人。その後ろで鬼神が降臨しつつあったが、明はそっぽを向いて知らぬ振りを決め込んだ。
「まったくのんきな奴らだ。こっちはあれだけ大変な目に遭っていたというのに」
「そういや、そっちにいるチビガキとどっか行ってたんだってな。いつの間にかオカルト野郎もいるし……結局何だったんだ?」
「忘れろ。もう済んだことだ」
桐のタンスに背中を預け、親の敵のように煎餅を噛み砕く。満足に食事も取っていなかったせいか、醤油の味がことさら濃く思えた。
廊下からは門倉のごまかし笑いと蓮の平謝り、そして武内の説教が聞こえてくる。それらの音をBGMに、考えるのはこれからのこと。
自分たちはどう動くべきなのだろうか。
新たな神代を止めるという目的に変わりはないが、計画の鍵となるイザナミは敵の手に落ちてしまった。
三輪山での激しい戦いを鑑みるに、ここらあたりが正念場だろう。もはや失敗は許されない。
「おい、スクナヒコナ」
今一度状況を整理するため、明はスクナヒコナに声をかけた。
が、いつまで経っても返事は来ない。彼女は微曲線を描く垂れ目をいっぱいに広げ、炬燵の上にぽつんと放置されたアルバム帳を見つめている。
「……スクナヒコナ?」
傍に近寄り、もう一度話しかけてみる。結果は同じだった。
その表情を見るに、彼女が意図的に無視しているわけではないということは分かる。どうやら望外の驚きを受けて頭の中がパンクしているようだ。
「写真が珍しいのか? いやしかし、この程度の発明なら高天原にもありそうなものだが」
高天原の技術力は現代文明を遥かに超えている。写真どころかホログラフまであってもおかしくないくらいに明は考えていたので、余計にその反応が気に掛かった。
何が彼女にそこまでの衝撃を与えたのか。アルバムそのものか。あるいはアルバムの内容か。
むくむくと沸き上がる好奇心。明は吸い寄せられるようにアルバムを覗き込み、彼女の視線の先にある一枚の写真を見た。
それは入学式の様子を写したものだった。
しかしこちらは先ほど話題になっていた武内本人ではなく、式場全体を俯瞰するような絵面だ。
おそらく式の最中なのだろう。階下には制服を着た高臣学園生がずらりと整列しており、壇上には冷たい顔つきの男が立っている。
「どうして……」
スクナヒコナはその男を凝視していた。
恐れと共に指を張り、男の顔に指先を添える。そして彼女は震える声で、男の名を呼んだ。
「どうして、こんなところにニニギがいるんですか……!?」
*
同じ頃、稲船隆二は長倉沙夜の見舞いに訪れていた。
いつもと同じ場所に車を止め、歩き慣れた通路を早足に進み、同じ病室の扉を開ける。
数年前から変わることのない繰り返し。
なのに、病室にいる彼女だけはどんどんやせ細っていくのだ。これほど悪趣味な演出も無い。
「きっかり定刻通り。相変わらずね、隆二さん」
「社会人として当然のことだ。何より、学園のトップが遅刻などすれば生徒たちに示しがつかない」
「あなたのそれは単に性分なだけだと思うけど?」
「否定はしないさ」
稲船は他の誰にも見せたことのないような表情で沙夜に応える。
思えば、自分が本当の笑顔を浮かべることができたのは彼女の前だけだった。心の内をさらけ出すことができたのも、彼女以外にいなかった。
そんな彼女に自分は隠し事をしている。
仕方がないと分かっていても、心はそう簡単に納得してくれないものだ。
「どうしたの、ぼーっとしちゃって。何か悩み事でもあるのかしら?」
「……いいや。久方ぶりの逢瀬に感極まっていただけだ」
「やめてよ。あなたに歯の浮くような口説き文句は似合わないわ」
「私もそう思う。慣れないことはするものではないな」
稲船は苦笑を返した後、ベッドから身を起こした沙夜を優しく抱き留めた。
軽く、そして冷たい肌に稲船の表情が曇る。
だがそれも一瞬のこと。稲船は背中に手を回し、沙夜の体を温めるようにさすり始めた。
彼女は知るべくもないが、その指先には蛍のようにささやかな光が灯っていた。
「不思議ね。あなたにこうされているとなぜだか元気が湧いてくるの」
「人は他者の存在を肌で感じることによって精神的充足感を得るよう設計されている。ペットセラピーのようなものだ」
「ずいぶん大きなペットね。それにとても愛想が悪い」
「あまりうるさく鳴くとどこぞの狂犬に噛みつかれるんだ」
「あれはほんの甘噛みよ」
出会ったばかりの頃を思い出したのか、沙夜がくすくすと笑みをこぼす。
ひとしきり笑い終えた彼女は稲船の胸に顔を埋め、深く呼吸を繰り返す。
そうして数分が経過した後、独り言のようにつぶやいた。
「以前、病院に不審者が出たって話をしたこと、覚えてるかしら?」
「もちろん覚えているさ。白ずくめの男たちに襲われて、危うく怪我をするところだったとか」
「ええ。その時は偶然居合わせた高臣の子に助けてもらったんだけど……」
意味ありげな間を空けて、
「あの子たち、不思議な力を使ってたわ」
稲船は無言。沙夜は続けて、
「不審者の方も普通じゃなかった。倒れた途端に溶け始めて、警備員が来る頃には跡形もなく消えてしまったの」
稲船は適当な相槌を打つこともなく、また沙夜の話を否定するようなこともなかった。
もう長い付き合いだ。彼女が何を言おうとしているのかなんて、分かりすぎるほど分かっている。
「隆二さん、あなたもそういった力を持ってるのね? そして彼らと同じで、私の知らない何かに関わっている」
「……そう思う理由は?」
「私がずっとあなたを見てきたから」
沙夜は体を離すと、稲船を顔に手を伸ばした。
細い指先が頑なな頬をほぐすように撫でる。
稲船は奥歯を噛みしめ、しかしされるがままだ。それは一見、甘い安らぎに溺れまいと耐えているようでもあった。
「ねえ隆二さん。私、多くは望まないわ」
「私だってそうさ」
「だったらお願い。危ないことだけはやめて。でないと私は、自分の命より先にもっと大切なものを失ってしまう」
「私だって同じ気持ちだ。だからこうしている」
「それはどういう──」
だが、それを聞き終える前に稲船は背を向けた。彼は沙夜の方を振り向きもせず、病室の外へ。
「隆二さん!」
懇願にも似た叫びに、稲船の肩が震える。
彼はその場で足を止めると、絞り出すような声で、
「何も心配は要らない。君はただ、生きて待っていてくれればいいんだ。そうすれば私の願いは叶う」
去り際にそれだけを言い残し、稲船は病室を飛び出していった。
七章終了。また例によってまとめを挟んでから八章となります。