第七話 太陽になり損ねた少年
静寂がこの身を覆い尽くしてから、いったいどれほどの時間が経ったのだろう。
ここには誰もいない。いるのは自分だけだ。
ここには明かりが無い。太陽も星も見えない。沸々と煮えたぎる自分の体だけがあたりをうっすらと照らし出している。
扉を押しても引いても、力いっぱい壁を打ち鳴らしても、外からは何の音も返ってこない。まるで自分だけが世界から切り離されてしまったかのようだ。
体は疲れ、思考は澱み、そのうち彼は完全に動きを止めた。
心は孤独に慣れることなく、どこまでも冷えていく。だが、それに反して彼の体は熱さを訴え続ける。
この熱さは嫌いだ。もっと柔らかな温もりが欲しい。
そう、ちょうどあの時、彼女が与えてくれたような──
「──へえ、こんなに小さな子が今度の現神候補なんだ」
そこはまばゆい光に彩られた広大な空間だった。
床、柱、天井全てが白く輝き、ガラス張りの外壁からは暖かな陽光が差し込んでいる。
そして、こちらを見つめる猫背ぎみの女性が一人。だぼだぼの白衣に黒ぶち眼鏡をかけており、青みがかった黒髪を後ろで一つに束ねている。
顔立ちにこれといった特徴は無いが、まっさらな白衣に周囲の光が映えて、どこか神々しさのようなものを醸し出していた。
「おっと、そういえば自己紹介がまだだったよね。いっけね、お姉さんとしたことがまたやっちまったぜっ」
少年が緊張しているのを見抜いたのだろう。女性は妙におどけた調子で頭を叩くと、腰をかがめて視線の高さを合わせた。
「私の名前はナキサワメ。これから君が参加する第四次神産み計画の主任研究員を務めてます。よろしくね、可愛い後輩くん」
気さくに微笑むナキサワメがこちらに手を差し出す。
戸惑いがちに応えると、しっとりした感触と微熱が少年の手を包んだ。赤く火照った顔を悟られぬよう、彼は急いで顔を伏せた。
それを見たナキサワメは意地の悪い忍び笑いを浮かべていたが、しばらくすると伸びをするように立ち上がった。
「さて、と。それじゃあ早速研究室の方に行こっか。実験は当分先なんだけど、その前に済ませなきゃいけないことが山っほどあるんだなぁーこれが」
うひーと頭を抱えながら、ナキサワメは通路の先へと歩き始めた。少年がその後をついていく。
研究室に到着した少年は簡素な寝台に乗せられ、そこで様々な検査を受けた。
検査の内容は多岐に渡り、加えて難しい専門用語が並んでいたため幼い少年には半分も理解できなかった。
とはいえ作業の大半は機械任せだ。彼はただそこに寝転がり、装置を動かすナキサワメをぼんやりと見つめていればよかった。
時たま目と目が合う度、心の奥が沸き立つような気持ちになった。
「知ってる? 神様っていうのはね、みんなを幸せにするためにいるんだよ」
少年の退屈を紛らわせるため、ナキサワメは色々な話をしてくれた。
神産みという儀式の持つ意味。現神に与えられた使命。それを語る彼女はどこか誇らしげな様子だった。
お世辞にも分かりやすい説明とは言えなかったが、彼女が情熱を持ってこの仕事に取り組んでいることだけは分かった。
「私たちは、人々にとってのお日様なんだ。手を伸ばしても決して届かず、だけど同時に消えることなく、いつもいつでも暖かく見守っていてくれる。……君も、そういう神様になれるといいね」
ナキサワメの手が、慈しむように少年の頭を撫でる。
その心地よさを感じながら、少年は思う。
目の前にいる神様は、太陽なんかよりもずっとずっと優しくて暖かい、と。
記憶は巡り、瞬時に映像が切り替わる。
研究室の一角にある寝床の上。薄布の張られた仕切り板の向こうで、誰かと誰かが言い争っていた。
「私は反対です。この土壇場で仕様変更なんていくらなんでも危険過ぎます」
「しかし、上の方々はさらに強力な現神を希望しておられる。君の手法は大胆さに欠けるともな」
「科学者に必要なのは蛮勇じゃありません。冷静さです。私は最も成功率の高い案を提示しているだけ」
「ならばなおさら頭を冷やして考えてみることだ。派閥にも属さぬ田舎貴族、しかも弱小神が意地を張ったところで何が変わる? 君とて今の立場を失いたくはないだろう?」
「これはおかしなことを言いますね。高天原はいつの間に力の優劣で物事を決める蛮族国家に成り下がったんですか?」
「無駄だ。安い挑発には乗らんよ」
女性のため息。
何秒か言葉が途切れ、紙束をめくるような音が静かに響く。
「……本気ですか? こんな無茶をしたら、最悪御柱の動力部が吹き飛びかねませんよ」
「では、そうならないように努力したまえ。どのみち決定は下されたのだ」
「どうしてそこまで力を求めるんですか? 現状でも現神は地上最強の生物です。これ以上強くする意味なんてないでしょう」
「我々が求めているのは力ではない。神そのものなのだ」
威厳ある声と共に足音が遠ざかっていく。その音が完全に聞こえなくなってから、少年は寝床を抜け出した。
仕切り板の隙間から表に出ると、通路の真ん中にナキサワメが立ち尽くしていた。
彼女の顔は強張り、下唇を深く噛み締めている。手にした書類にはいくつもの染みが点々とついていた。それは涙の跡だ。
「……あっ」
ナキサワメがこちらに気付き、慌てて目元を拭おうとする。
が、眼鏡のせいで上手く拭えず、途方に暮れた彼女はごまかすように少年を抱きしめた。
消毒液の匂いに混じるのは、わずかな花の香り。いい匂いだと思った。
「大丈夫、大丈夫だよ。きっとみんな上手くいくから……」
耳元で聞こえる鼻声は、不安に震えている。
願わくば、自分の温もりが彼女を安心させてくれますように。
少年はそう願わずにはいられなかった。
また場面が飛ぶ。
断片化した記憶に映るのは赤に包まれた景色。それが自身の出す炎の色だと知ったのはずいぶん後のことだ。
覚えているのはけたたましく鳴り響く警報と、悲鳴と、緊迫した大人たちの声。そして感じたことのないような熱さ。
「──計測値に異────ただちに────────ください」
「被検体第一号、ヤサカニが暴────」
「第二から第四も────このままでは──」
「──ザナミ──不能────駄目です、これは──」
周囲は大混乱に陥っているようだが、少年はそんなことを気にしている余裕など無かった。
荒れ狂う力の奔流に飲まれ、獣じみた咆哮を轟かせる。息を吐く度、体の奥がさらに熱くなった。
もう何も見えない。何も聞こえない。苦しさだけが全身を支配し、時間の感覚すらぼやけていく。
そんな中、彼女の声だけがはっきりと聞こえた。
「ごめん……ごめんね……! 私、口ばっかりで、約束、守れなくって……!」
数滴の雫が体の上に落ちる。
雫はすぐに蒸発してしまったが、それはほんの少しの間だけ熱を和らげてくれた。
そして、気が付くと彼はここにいた。
なぜかは分からない。考えても意味は無い。
とにかく、ここは"終わり"なのだ。自分は終わったのだ。
だからもう、全てを諦めて終わりを受け入れよう。そうすればきっと楽になれる。
──そう、思っていると。
「……え?」
「なっ……」
「……わ」
「あらまあ」
誰かの声が聞こえた。
部屋の扉はいつの間にか開いており、見たことも無い人たちが驚いたような顔でこちらを覗き込んでいる。
その中の一人から、なんだか懐かしい匂いがした。
彼女の匂いだ。
あの女の人が、近くにいるんだろうか?
そう思った少年は、特に深い考えもなく彼らに近付いていく。
それが彼らにどのような災いをもたらすのかなど考えもせず。