第二十一話 忘れられし者
滝のように流れ落ちる雨の下、明とスクナヒコナは取っ組み合いを続けていた。
二人の顔は苦痛に染まり、互いを掴む指先は小刻みに震えている。明の生み出す振動波が体の中を蹂躙しているのだ。
「ぐっ……ううっ……! こいつ、なんてことを……!」
「どうした……何をためらっている? 俺の体が欲しいんじゃ、なかったのか……!?」
しかめた面に笑みを滲ませ、明はスクナヒコナを見る。
彼女に巣食う黒い泥は明の首筋にまで手を伸ばしていたが、それは表皮を怯えるようにつつくだけ。決して中に入り込もうとはしない。
いや、そうしたくてもできないのだ。
明の体に流れている振動波は寄生体の固有振動数に合わせたもの。奴がこの体に一ミリでも立ち入ろうとすれば、明が今感じている数百倍のダメージを一気に受けることになる。
そのうえ明は全く同じ振動波をスクナヒコナにも送り込んでいる。もはや寄生体に安息の地は無いのだ。
「どうだ……そろそろ覚悟は決まったか? それとも降参してスクナヒコナを解放するか?」
「侮るな! あと少し、貴様が死ぬまで持ちこたえれば、ぼくの勝ちだ……!」
スクナヒコナの視線が明の口元に注がれる。
口の端を伝う滴は赤く、そして黒い。振動波を長く受け過ぎた影響で、とうとう明の内臓が悲鳴をあげ始めているのだ。
「馬鹿な奴だ……。くだらない博愛主義にさえ目覚めなければ、もう少し長生きできたものを……!」
「かもしれん。だが、そんなことでは生きている意味がない……!」
明はスクナヒコナのことをよく知らない。そこまでして救う価値があるのかと問われても、彼は満足のいく答えを返すことができないだろう。
だが、「もしかすると」という思いはある。分かり合えるかもしれないという希望はある。
たとえか細い灯だとしても、それは明が命を賭するに足る理由……同時に、逃げてはならぬ理由になるのだ。
「助けを求める者がいて、助けられる位置に俺がいる。ならばやるしかないだろう!」
「死ぬかもしれない」「助けられないかもしれない」
そんなものは言い訳だ。命惜しさの自己弁護だ。
後悔したくないのなら、弱い自分を克服するしかない。それがこの七年間で得た答えだった。
「俺はそう誓った。誓いは絶対だ。だから何度でも言ってやる! ──俺の前で人が死ぬことなど、絶対に無い!」
「自己陶酔の化け物め……! 薄汚い妄執で王の道を汚すな!」
「素面で大義が成るものか! 陶酔であれ何であれ、それは俺を前に進める力となる!」
断じて行えば鬼神も之を避く。勢い付けて、スクナヒコナにヘッドバットをぶちかました。
擦り付けた額から流し込むのは駄目押しの振動波。スクナヒコナの目が見開かれ、その顔が初めて恐怖の色を得る。
「とどめだ──!」
「そんな……またこんな奴に……! ……くっそおおおおおおおっ!」
スクナヒコナが声の限りに叫ぶ。
しかし次の瞬間、叫びはぱったりと止んでしまう。続いて体が崩れ落ち、うつぶせになった背中から黒い泥が剥がれていく。
「……ようやく根を上げたか。手こずらせてくれる」
大きく息を吐く明。
べちゃりと地面に落ちた寄生体は、大粒の雨に打たれながらのろのろと林の中へ逃げていく。その速度は以前よりも遅い。
明らかに弱っている。とどめを刺すなら、今しかない。
痛む体を引きずって、寄生体に少しずつ近付いていく。
あと三メートル。気力体力ともに限界が近い。
あと二メートル。朦朧とした意識の中、一握りの意地だけを原動力に体を動かす。
あと一メートル。手を伸ばせば敵に届く。そこでもう一度、振動波を撃ち込めば──
「明さん、離れてください!」
「──っ!!!」
斗貴子の声が明の意識を覚醒させる。死角からとてつもない波動を感じたのはその直後だ。
ひんやりとした手が明を後ろに引き寄せ……そして、目の前を極大の光が通り抜けていった。
光とは雷だ。これまでのように空から落ちてきたものではなく、真横から放たれたもの。
左方に目を向け、「やはり」と思う。この男はどうあっても自分の前に立ちはだかるつもりらしい。
「タケミカヅチ……」
そう口にしたのは斗貴子だった。
彼女は明の腕を強く掴んでいる。食い込む爪は恐怖に怯えているようでもあり、斗貴子自身の内に潜む衝動を抑え付けているようでもあった。
「斗貴子……?」
「……………………」
斗貴子は何も言わなかった。そして、それを見るタケミカヅチにも目立った反応は無い。
宿命の敵はこちらを牽制するように一瞥すると、寄生体の前に恭しくひざまずいた。
「遅いぞ、タケミカヅチ……! いったい今まで何をしていた……!」
「命令を遂行していた」
「ふん、そりゃあそうだろうね。馬鹿なおまえにはそれしかできないんだから」
ぞんざいな言葉を投げかけられてもタケミカヅチは調子を崩さず、
「途中、ニニギより電信あり。そちらの優先度が高いと判断した」
「ニニギの……? まあいい、そんなことは後だ。すぐに撤退するぞ」
苛立たしげに言いながら、寄生体がタケミカヅチの体を這い上がっていく。
それが肩の上にまで上り詰めた時、明はようやく寄生体の全容をはっきりと拝むことができた。
黒い肉塊、とでもいうのだろうか。
泥だと思っていたものはどちらかというと脂に近い質感を備えていた。たとえるなら、腐食した肉汁がゼラチン状に固まったものに似ている。
肉塊は絶えず流動しており、その表面には赤子のような顔をした人面疽が浮き出ていた。先ほどから言葉を発していたのはそれだ。
「お前、は……」
明は一時、その奇怪さに言葉を失っていた。
(あれも現神の一種なのか? だが、それにしては波動の質が違うように感じるが……)
疑問を深め、さらによく観察しようとした時だ。明の背後から、消え入るような少女の声が聞こえてきた。
「あれは……ヒルコ、です」
横目を向ければ、そこにはスクナヒコナがいた。
倒れ伏す彼女はどうにか顔だけを上げ、うわごとのように言葉を紡ぐ。
「ヒルコこそ全ての元凶……忘れられた王子……最初の者……そして……」
「黙れ!」
人面疽がすさまじい形相に変わる。
怒りと、羞恥と、その他様々な感情が洪水のようにあふれ出し、肉塊が激しく脈動した。
「不良品がぼくを規定するな! ぼくに名は無く、いずれ戴く御名こそが神を示す言葉になるんだ!」
わめく、という表現が当てはまるような大声。
激しい雨音にも負けず、雷鳴よりも高らかに。
それは駄々をこねる子供そのものだった。
「貴様らも、現神も、いずれ誰もが知ることになる! 真の神代は、もう間もなく訪れるのだ──!」
ヒルコを乗せたタケミカヅチが、隼のような速さで雲の向こうに飛び去っていく。
だが、明にそれを最後まで見ている余裕は無かった。
ダメージを受けすぎた肉体が休息を欲しているのだ。自然と眠気が明を襲い、程なく瞼が屈服した。
「──明さん!?」
耳元で斗貴子の声がしていたが、「心配要らない」と返す間もなく明の意識は泥濘に沈んでいった。
次回更新は明日です。