第十七話 2C1=2(ただし、覚悟があればその限りではない)
遅くまでお待たせしました。力作です。
スクナヒコナから漏れ出る不気味な泥。その動きを注視しつつ、明はクロエの言葉に耳を傾けていた。
『二の腕のあたりにドロっとしたものが見えますか? きっとあれが本体です』
肩に止まったヤタガラスが片翼を広げ、指差すように向ける。
『あのドロドロが皮膚の上から入り込み、脳に至って体の主導権を掌握する。パッと見そんなところでしょうか』
「じゃあ何か、俺がスクナヒコナに触れるだけでも寄生される可能性があるのか!?」
『感染必至。手洗いうがいも無意味です。性質の悪い殺人アメーバですよまったく』
脳に根を張るアメーバをイメージし、明は無言でもう一歩退いた。
それを見たスクナヒコナは投げやりに首を振り、泥を纏った片腕を横に張る。
「……あー、鬱陶しい。外野のゴミがつまんない種明かししてくれちゃってさあ」
『それは失礼しました。パフォーマンスが稚拙過ぎるとケチをつけずにはいられない性分なので』
ぶつけられる敵意を風に流し、クロエは口撃を重ねる。
『大体、煽り方が雑なんですよ。これ見よがしに姿を見せて、おまけに殺し方の説明までしてくれるなんてサービス過剰もいいとこです。本気で脳を破壊するつもりなら黙って時間を稼いでれば良かったんですよ』
「ふーん、それじゃあできっこないと思ってるのかなー? ほんとにそうなのかなー?」
ゆっくりと口角を上げ、振り子のように首を動かすスクナヒコナ。返すクロエは冷静に、
『時間をかければできるでしょうね。でも、まだ猶予はある。夜渚先輩が頭を冷やす時間くらいは残ってるはず』
「だとしても、三輪山はぼくたちの領域だ。のんびり構えてるとあっという間に現神が集まってくるよ?」
『それも嘘。三輪山周辺に手すきの戦力はありません。だからこそあなたが直接出張らざるを得なくなった』
断じるクロエ。寝耳に水の事実を聞いて、明は思わずヤタガラスを見た。
「クロエ、それは本当なのか? 俺はむしろ敵が準備万端で待ち構えていたのかと思っていたが」
『だったらとっくに全滅してますよ。私たちが健闘しているのは敵軍が浮足立っているから。その証拠に、彼らはフトタマの結界すら展開できていません』
それどころか、と続け、
『現神は三輪山の陥落を半ば受け入れています。彼らの思考は次のステージ、「三輪山をどう奪い返すか」に移ってるんです』
ヤタガラスが明に顔を向ける。「そのための手段がお前だ」とでも言うかのように。
明の頭に、おぼろげだった敵の内情が少しずつ像を結んできた。
奇襲は成功していた。現神は戦いの行方を決して楽観視しておらず、いざという時に備えて次の布石を打っておくことにした。それがこの寄生体だ。
仮に戦に負けたとしても、三輪山の制御機構さえ無事なら問題はない。後は機を見て、明を操る寄生体が敵を内部から崩壊させるだけだ。
『夜渚先輩が振動波を撃とうとした瞬間、あいつは先輩の体に乗り移るでしょう。傍目にはスクナヒコナが死んで先輩が勝ったようにしか見えませんし、寄生されているという証拠もありません。何しろ寄生体の波動を探知できるのは先輩だけですから』
「俺さえ押さえておけば奴の存在に気付く者は誰もいない、か。くそっ、薄気味の悪いことを考える……!」
だが、同時にとてつもなく有効なやり方だ。
まさか荒神の中に裏切者がいるとは誰も思わないし、明に成りすませば猛や斗貴子の体を狙うこともたやすい。
そうして現神は労せずして戦いに勝利し、寄生体は復讐の機会と三貴士の肉体を同時に得ることができる。奴は明の体を使って悪逆の限りを尽くし、その尊厳を余すところなく踏みにじるだろう。
「……ちぇっ、これはちょっと計算外だったかな」
路上につばを吐き、不遜に眉を吊り上げるスクナヒコナ。
「ゴミ臭い鳥さえいなきゃとっくに終わってたんだどなー。確かに『一人も通すな』とは言ったけど……タケミカヅチも融通が利かないなぁ」
そうして顎をくいと上げ、ヤタガラスを見下すように睨む。
「惚れ惚れするような推理だったよ、名探偵くん。漁り盗みと覗きが得意なカラスならではの、いたく素敵な観察力。人目に怯えて暮らしていると、他人の顔色を窺うことだけは上手になるんだね」
『それほどでもありません。人を踏みつけにすることしか考えてないあなただからこそ、私も心を読むことができたんです。そういう人って自分で考えてるほど賢くありませんから』
「早死にするよ、おまえ」
『あなたよりは長生きできますよ』
「ははっ! それはどうかなぁ?」
薄い唇を弓なりに曲げるスクナヒコナ。そのシルエットが黒くにじむ。
「一つ、訂正しておいてあげるよ。夜渚明に憑りつくのはあくまで保険。別に今ここで殺しても構わないし、タケミカヅチさえいれば荒神に後れを取ることはない」
もはや腕先だけではなく、その全身からオーラのように泥が沸き上がっていた。
その表面は細かく泡立ち、ざわめく飛沫は赤子の手にも似て。
「結局は同じこと。蟲に脳を食い荒らされて死ぬか、ぼくに利用されてから死ぬかの違いでしかない。だから──」
両手を前に差し出して、無邪気で、可憐な、反吐が出るほど楽しそうな顔で、
「好きな死に方を選びなよ。ぼくはどっちでもいいよ。絶望の種類が変わるだけなんだからね!」
直後、開幕のベルを鳴らすかのように激痛が戻ってきた。
「っ……!」
痛みが雪崩のように押し寄せてくる。
今すぐにでも頭を開いて中身をかき出したくなるような異物感。ナノマシンが脳の血管を破壊しようとしているのだ。
もはや止めることはできない。砂時計は最悪の瞬間に向かって時を刻み始めた。
明に残された道は二つ。異能の射程外まで逃げるか、この場でスクナヒコナを倒すか。
前者は論外だ。本体から離れれば念話以外の活動はできなくなるとのことだが、今の体調で逃げおおせる自信は皆無だ。第一、そんなことをしていたら落雷誘導を止めるという本来の目的が果たせなくなってしまう。
(だが、後者は……)
手のひらに目を向け、次にスクナヒコナを見る。
明の攻撃手段といえば、敵に直接波を送り込む振動波だけだ。しかし、それを発動するためにはどうしても触れる必要がある。
それはとどのつまり寄生体に侵食されることと同義であり、明という自我の消滅を意味する。
直に触れさえすれば勝てる──不変だと思っていた勝利の方程式が、そっくりそのまま敗北に置き換えられている。
どう考えても、明だけでは打つ手がない。
生徒会を閉じ込めたのも、タケミカヅチを投入したのも、全ては明を孤立させるため。明に絶望の二択を突きつけるためだったのだ。
『思考誘導に乗せられないで! 抜け道なんていくらでも見つけ出せます!』
肩を離れたヤタガラスが地面に降り立つ。そのくちばしが拾い上げたのは石ころだった。
『投石でも何でもいいから距離を取って攻撃するんです。最弱なんて馬鹿にしてたくらいですし、スクナヒコナ自身の身体能力は一般人と変わらないはずです』
「……貴様」
スクナヒコナの表情がぴくりと震え、そのかかとがじりじりと下がっていく。それはクロエの予測が正しいことを告げていた。
三つ目の選択。異能を使わず、飛び道具で戦う。
無論、そうやすやすと倒されることはないだろうが、最初に提示された二択に比べればまだ希望がある。
明はヤタガラスから小石を受け取り、
『……先輩?』
迷っていた。
何を迷っているのか、自分でも分からない。
いや、本当は分かっているのだ。頭痛のせいで言語化できていなかっただけで、その懊悩はずっと明を戒め続けていた。
「駄目だ。この方法ではスクナヒコナも死ぬ」
『……はぁ!?』
口に出してしまえば単純なこと。自分はスクナヒコナを、現神を助けたいと思っているのだ。
ナノマシンを止めるだけならスクナヒコナを殺せば済むことだ。しかし、スクナヒコナを生かそうとすると振動波以外の選択肢はなくなる。
「猛の時は寄生虫の波長に合わせた振動波を撃ち込んだ。あれをもう一度使えば……」
『ちょっ……ちょっとちょっとちょっと! 何言ってるんですか!? 先輩の脳みそは打てば飛び出るトコロテン方式ですか!? 触ったらアウトだって言ったばかりじゃないですか!』
案の定クロエが待ったをかけた。驚きを軽く飛び越え、錯乱寸前のテンションで素っ頓狂な叫び声をあげる。
「クロエの言いたいことは分かる。俺だって無茶だと分かっている。それでも……他に道はない」
『ありますよ! スクナヒコナを殺せばいいじゃないですか! いくら見た目が女の子だからって、世界を滅ぼそうとしてる敵に……現神に情けをかけてどうするんですか!?』
「外見は関係ない。あれでショートボブなら割とタイプではあるが」
『じゃあなんだっていうんですか!』
明の視線がスクナヒコナに向く。
脳裏によぎるのは少女の切なる声。
あの声があったからこそ、明は猛を救い、倶久理に勝つことができた。あの声が明をここまで導いてきた。
「あいつには以前助けてもらった借りがある。それは手を差し伸べる理由にはならないか?」
『その程度で相手を信用するんですか!? 内部抗争に利用されただけかもしれないじゃないですか! 油断させて、後から梯子を外すつもりかもしれません!』
「だが、そうではないかもしれん」
『だったらどうだっていうんです!? 間違ってたら……裏切られたら、何もかも台無しになるんです! 差し伸べた手が、傷つけられるんです! それでもやるっていうんですか!』
「そうだ」
『だから、なんで!!!』
ノイズ混じりの大音声。明にはそれが泣き声のように聞こえた。
クロエがなぜここまで感情を露わにしているのか、明は知らない。想像はできるが、だからといって触れるべきではない。
明に許されているのは、自らの中に萌え出た思い……いわば己の矜持を伝えることだけだ。
「負債だ。ここで歩みを止めれば、俺の心には負債が残る」
『……なんですか、それ』
「とても恐ろしいものだ。決して逃げられないもの。老い、妥協、腐敗、それら全ての温床となるもの。それを背負った人間は永久に自分を愛せない。死すべき時まで、心のどこかで自分を苛み続ける」
それは七年前のあの日から明に憑いているもの。明を監視し、時折思い出したように吠えたける獣。
なぜあの時足を止めたのだと。
なぜもっと速く走らなかったのだと。
「そんなものは、願い下げだ! 俺は負債を返しに来た! 返済先でまた金を借りるほど落ちぶれてはいないぞ──!」
無償の善意ではない。下心もない。
明は明のためにここにいて、明のために命を懸ける。
そして、今度もそうするだけだ。
「見ていろクロエ。これが死中に活を見出すということだ!」
石を投げ捨て、身軽な体は矢のように突き進む。
その切っ先はスクナヒコナをしっかと見据え、加速、加速、加速──!
「なーんだ、もう決めちゃったの。もっと情けなくうろたえて欲しかったのに」
「代わりにお前を情けなくしてやろう。屈辱を胸に刻んで死んでいけ」
「ふーん。それじゃあ遠慮なく、きみの体を……」
スクナヒコナの瞳がきらりと光り、
「やっぱりいーらない! また何か企んでるのかもしれないしねっ」
「なにっ!?」
人差し指を高らかに掲げ、曇天の彼方に視線を馳せるスクナヒコナ。
「やれ、タケミカヅチ」
空に鳴り渡る、稲妻の予兆。明滅する雷雲。
明の真上に群がるのはナノマシンの大群。それは柱のように集まって、雷を引き寄せるアンテナとなる。
「しまっ──」
爆発的な光があたりを包む。
何も見えない。何も聞こえない。
直後、五感が切り替わるように機能し始める。
明は……生きていた。
雷は確かに落ちた。しかし、雷はナノマシンの誘いを断った。
元来、落雷とは移り気な浮気者なのだ。
奴は自然の法則に従って、ナノマシンよりも高い位置を飛んでいた標的に誘導された。
燃え尽きながら落ちてくる死骸は、全てカラスのものだった。
三本足のカラス。
彼らは明からほんの少しだけズレた座標に舞い上がり、雷の矛先を逸らしたのだ。
「クロエッ!?」
「あのカラス、余計な真似を……!」
クロエの声は返ってこない。使い魔を殺されたクロエの身に何が起きているのか、明に知る術は無い。
だから考えない。
信じる。
そして目の前だけを見る。
スクナヒコナはもう手の届く位置にいるのだ。
「……まあいい。それならお望み通り、王にその身を差し出すがいい!」
スクナヒコナの両手が明の首を掴む。
対する明は右手をスクナヒコナの肩に乗せ、
「やれるものならやってみろ。……ただし! お前も道連れだ!」
左手を自分の胸に。
それをするのは本日二度目だった。
「なっ!? 貴様、まさか──」
そして両手から放たれる振動波。
明はスクナヒコナと自分の体、両方ともに振動波を打ち込んだのだ。
口を歪ませ、嫌味ったらしく、明は人生最高の笑顔を見せる。
「さあ! 俺の中で死ぬか、スクナヒコナの中で死ぬか! 好きな死に方を選べ! 俺はどちらでもいいぞ! 絶望の種類が変わるだけだからなぁ!」