第九話 電気の伝奇・上
「木津池!? なぜお前がここに……?」
この男が唐突にやって来るのはいつものことだが、深夜の学園にまで姿を見せる神出鬼没ぶりに明は驚きを隠せなかった。
よく見ると後ろには毘比野もいる。彼の目元も木津池と同様、深いクマができていた。
「毘比野刑事まで一緒なのか。もしや、また何か面倒事が舞い込んできたのか?」
やや緊迫した面持ちで問うと、毘比野は渇いた笑いをこぼした。
「嬉しいことに面倒事はついさっき終わったところだ。ったく、この齢で深夜労働は堪えるんだよ……」
投げやりにぼやき、へろへろと空いた椅子に崩れ落ちる。今は質問に答える元気すらないようだ。
念のために斗貴子を見るが、訝しげに首を振るだけだ。今度ばかりは彼女が仕掛けたものではないらしい。
「木津池、どうやってこの場所を嗅ぎ付けた? まさか忘れ物を取りに来たなんて見え透いた言い訳をするつもりじゃないだろうな?」
「それはもちろん、電波のお導きさ。位置情報追跡アプリとも言う」
コミカルな効果音を口にしながら、トロフィーのようにスマートフォンを掲げる木津池。
画面を蠢く指先に応じ、明のスマートフォンがひとりでに光を発する。
「これでも電脳研究部の端くれだからね。電波の届く範囲なら、夜渚くんの足取りを追跡するのは難しいことじゃあない」
「なるほど」
明は素直に頷いた後、
「……貴っ様ぁ! 俺のスマホにウイルスを仕込んでいたのか!」
「ウイルスだなんて人聞きの悪い。ちょっとしたお役立ちツール、バックグラウンドで動作するゴーストアプリだよ」
「もう幽霊はたくさんだ! どいつもこいつも俺のプライバシーを何だと思っている!? 穴開きチーズじゃないんだぞ!」
「でも、夜渚くんにはそれくらいでちょうどいいのかも。やんちゃな猫には鈴を付けておかないとだし」
望美の言葉に幾人かが同意する。
民意の後押しを得て勝ち誇る木津池。明は裏切り者どもを一人一人じっくりと睨め付けてから、
「で、今言ったことは本当なのか? 文言をそのまま受け取れば、現神は元人間ということになるが」
「イエス。彼らは高天原の貴族がさらなる次元へと昇華された姿なのさ。神のごとき肉体と異能を得て、一族による統治を恒久的なものにするためにね」
首を軽く傾け、武内の方に視線を飛ばす。
「会長さんが"違う"って言ったのはそういう意味だよ。高天原は現神という異種族によって治められていたんじゃない。元からいた支配者たちが、のちに現神と化したんだ」
武内は何も言わなかったが、その見開いた目が全てを物語っていた。荒神ですらない素人に秘密を見抜かれていたことは彼にとって相当ショックだったようだ。
明とて予想していなかったわけではない。
現神の価値観や考え方は総じて傲慢なものではあったが、人の持つそれを大きく逸脱してはいなかった。
"神"を冠するにしてはあまりにも人間的な振る舞いに、明はしばしば戸惑いを感じていたものだ。
彼らは本当に自分たちとは違う存在なのだろうか──と。
「だが、それでも疑問は山積みだぞ木津池。人間の体をどうこねくり回せばああなるというんだ?」
「サイボーグってやつじゃないですか? もしくは合成獣とか、フランケンシュタイン的なアレですよ」
斗貴子が冗談とも本気ともつかぬ茶々を入れる。明は一応真面目に考えてから、
「現神の体に機械的なパーツは無かったはずだ。他の動物をツギハギしたような形跡もな」
高天原の科学力がどれほどのものかは知らないが、おそらく生物兵器をたやすく作れるような素地はあったのだろう。
とはいえ現神は人間ベース。しかも話を聞く限り、受精卵ではなく生まれ落ちた後の段階から手を加えているようだ。そうなるとデザイナーズチャイルドのような遺伝子操作も難しくなってくる。
「成熟した人間を全く別の存在へと作り替える……可能なのか、そんなことが? 植物の接ぎ木とは訳が違うんだぞ」
「可能だよ。人間に限らず、ほぼ全ての多細胞生物が"その可能性"を有していると言ってもいい。まあ、基本的には害をもたらすものでしかないけどね」
なぞなぞのような表現に眉をひそめる明。
その時、ちょうどあくびを吐き終えた毘比野が答えを出した。
「癌、だろ」
「……癌?」
「癌細胞ってのはDNAの複製ミスによって作り出される。言ってみりゃあ突然変異体だ。もちろん、そのままじゃ何の役にも立たねえ肉の塊だが……」
寝ぼけ眼に、一瞬だけ猟犬のような光が灯る。
「仮に、"変異の方向性"を自在に決めることができるとしたら? そんでもって、体中の細胞を一遍に癌化させることができたら……どうなるよ? それはもう、癌とは言えないんじゃないか?」
「……人間が、人間じゃなくなる」
震えるような望美の声に無言の肯定を返し、毘比野は言葉を続ける。
「高天原って連中にはそれができたんだとよ。確か……"神産み"って、この坊主は言ってやがったかな」
神産み。その言葉は"国産み"と並んで、古事記において極めて重要な意味を持っている。
事の起こりは天地開闢の時代。泥のような海がどこまでも続く世界に、二柱の神々が舞い降りた。
夫婦神であるイザナミとイザナギだ。
二人は泥の海をかき混ぜて小さな島を作ると、その上で国土創生の儀を執り行った。
島の中央に天之御柱を立て、夫婦は柱の周囲を回り踊る。儀式を重ねる度、イザナミの腹から多くの神と陸地が産み落とされた。
それが神産みと国産みであり、現在の日本列島の成り立ちとされているのだ。
あくまで伝説なので、全てを鵜呑みにするのは難しい。それでも、過去の出来事を元に記紀神話が作られたと考える方が自然だろう。
「では、高天原では実際に神産みが行われていたというのか? その……イザナミやらイザナギのモデルになった人物がなんやかんやして、被検体のDNAを組み替えたと?」
「だったら、その二人は研究者の名前……なのかな。もしかしたらチーム名かもしれないけど」
明と望美は半信半疑のまま、互いの予想を口にし合う。イメージするのは釣鐘型の無影灯に照らされた手術台と、その両脇でメスを掲げるインテリ系の男女だ。
しかし、そのイメージは一瞬にして覆されることになる。
「はーずれ。その発想も中々ユニークだけど、君たちはもっと重要なことを見落としてる」
「そう言われてもな……。現神は遺伝子を変異させた人間で、それには二人の男女が関わっていた。その二点だけは間違いあるまい」
「そこが勘違いの元なんだよ。俺、今井町でも言ったよね? キーワードは"雷"だって」
指を立てつつ一同を見回す木津池。だが、武内以外は皆歯に物の詰まったような表情で固まっていた。
出来の悪い生徒を前にして、木津池はこれ見よがしに肩を落とす。
「しょうがないなあ。それじゃあヒントをあげよう」
指の形が少しだけ変わる。
人差し指を伸ばしたまま、指鉄砲のように親指を立てる。そうして最後、人差し指と直角になるよう中指をぴんと張った。
奇妙な形だ。しかし、どこかで見たような気もする。
記憶の底を総ざらいしながら指先を見つめ続け、ようやく何かが閃きそうになったところで大きな音がした。
机を平手で叩く音。振り向けば、会心の笑みを見せる黒鉄がいた。
「これ、補習授業で見たことあるやつじゃねえか! フレミングの左手ってやつだろ!?」
自信たっぷりに叫ぶ黒鉄。対する木津池は解いた指をぱちんと鳴らして祝福する。
そんな馬鹿なと一瞬思い、しかしそれはどう見てもフレミングの左手……いや右手だった。
フレミングの右手とは電磁誘導の作用を表す基礎的な法則である。三本の指が示すのは磁界の向きと導体の動き、それによって生み出される電気の流れだ。
電磁。
その単語を踏まえ、もう一度明は考える。
イザナミとイザナギ。神々を産んだ大いなる夫婦神。
夫婦。
男と女。
陰と陽。
──S極と、N極。
顔を上げた明の前に、木津池の不敵な微笑が飛び込んできた。
「全身のDNAを一つ残らず変異させることで現神は生まれる。じゃあ、DNAを変異させるために一番手っ取り早い方法ってなーんだ? ヒントは目に見えなくて、色んなものをすり抜けて、ちょっと危険なもの」
「おいおい、放射能とか言うんじゃねえだろうな」
毘比野がぎょっとしたように顔を引きつらせた。木津池は軽く笑って、
「現代人にとってもっと身近なもの……電磁波さ」
再びスマートフォンを取り出した。
「電化製品が急速に普及し始めた高度経済成長期から、電磁波による健康被害は頻繁に取り沙汰されてきた。
曰く、電子レンジの発するマイクロ波が癌の原因である。曰く、携帯電話を長時間耳に当て続けることで脳腫瘍のリスクが増大する、などなど。
電磁波と放射線は波長の違いこそあれ本質的には同じものだからね。ひょっとすると電磁波にも遺伝子を変えてしまう力があるのかも……と考えるのはそれほど荒唐無稽な話じゃない。
……そして、高天原の民は二千年前にその秘密を解き明かしていた」
明の中で神産みのイメージがさらに変わる。白い手術台はどこかに消え去り、落雷のような光とあたりを埋め尽くす放電火花が見えた。
「規格外の電磁放射による人為的な進化、か。なら、イザナミとイザナギは……」
「俺が思うに、超強力な一対の電磁ユニットじゃないかな。古事記に記された神産みの描写……柱を回る二人っていうのは、電磁誘導によって電気を生み出す暗喩だったんだよ。ね?」
言葉を向ける先には武内がいた。
彼は手前勝手に場を仕切る部外者にいたくご立腹の様子だったが、その怒りをなんとか飲み込むと、話をまとめに掛かった。
「そんなところだ。天之御柱内部に作られた電磁放射装置によって、為政者たちは現神となった。超常の力と強靭な肉体を得た彼らは人の寿命からも解き放たれ、勢いを増した高天原は永久の繁栄を享受する……かに思われた」
そこで武内は一旦言葉を切った。
しばらく沈黙し、眉間のしわを一ひねり。それからすぐに顔を上げた。
「……だが、何事も思い通りにはいかぬものだ。ある時期を境になぜか現神は生み出されなくなり、代わって高天原は別の研究に着手し始めた。
それこそが現神の力を持つ人間──貴様ら荒神なのだ」