第七話 勝者はただ一人、なれど
長め。
「──息吹永世の呼吸、その変則形だ。覚えておけ」
鉛のような一撃と共に、腹を打たれた黒鉄が大の字に伸びる。
武内の興味は既に黒鉄を離れ、その視線は渡り廊下の先に向けられていた。見えるのは南館の上り階段と、そこから降りてきた二人の荒神だ。
「ご丁寧に自らネタばらしをしてくれるとはな。随分と気前がいいじゃないか」
「外法扱いされるのは不愉快なのでな。それに貴様はとうに気付いていただろう。違うか、夜渚明」
ナキサワメの力は空気の流れを正確に探知する。呼吸音の微細な変化など、最初に奇襲を仕掛けた時点で見抜かれていたはずだ。
「息吹永世……神道に伝わる瞑想法ですわね。特殊な呼吸によって丹田にエネルギーを溜め、生命活動を活性化させるとか」
「その通りだ、白峰倶久理。大陸では気功などと呼ばれているが、武内家に伝わるものはそれとは比べ物にならぬ。研ぎ澄まされた呼吸は全身の気穴を解放し、その力を──」
息を吸い、
「──爆発させる!!」
突撃。
吐き出す空気もまた爆ぜるように。
その勢いはさながら怒れる巨象。圧された倶久理が後ずさり、そして明は……前に出た。
相対距離は瞬く間に縮まり、二秒と経たずにゼロとなる。
チキンレースから先に降りたのは明だ。進路をわずかに逸らしつつ、すれ違いざまに拳を振るう。
対する武内も鏡合わせのように同じ行動を取った。交差する拳は互いの顔面目掛け、その意識を刈り取らんと迫る。
動き始めたタイミングは明の方が一瞬早い。が、
「分を知れ、荒神! かような拳がこの己に届くものか!」
接近戦こそ武内が最も得意とする分野。拳の速度はこちらが数段上だ。
培ってきた時間は決して自分を裏切らない。努力に裏打ちされた自信と共に振り抜く力を強めていき──
「掛かりましたわ! 皆様、おいでくださいっ!」
その時、視界の上に青い光が見えた。
青の光は白峰倶久理の操る霊体の輝き。触れたものを感電させる"動く地雷"だ。
天井から雨漏りのように沸いてきた霊たちは、こちらの拳を遮るように降下。その向こうにいる明は早くも拳を収め、半歩遠くに下がっていた。
(あえて攻撃を誘い、こちらが手を出したところで亡者どもをけしかける作戦か。面白みのない)
厳めしい顔を歪め、失笑。
寸前まで伸びていた拳を瞬時に戻し、武内は床を三度蹴った。
一度目で霊の体当たりを避け、二度目で横に跳躍。三度目で明の側面に回り込む。
「やはりそう来たか。せっかちなのはお互い様だな、武内!」
そうして拳を放った瞬間、明が平手を突き出した。
こちらの拳を掴み取るような軌道。それだけなら諸共に打ち砕くこともできるが、込められた異能がそれを許さない。ナキサワメの力がもたらす振動波は、触れた瞬間武内を行動不能に追い込むだろう。
「ふん、それでこちらの決め手を封じたつもりか」
衝突の直前、拳を解いて手刀に変える。それから手首を翻し、制服越しに明の肘を跳ね除けた。
武内はさらなる一歩で懐に入ろうとして、その足が止まる。
足元に目を向けると、床の下から青い光球が顔を覗かせていた。
「……仕切り直しか」
軽く下がって手刀を構え直す武内。
対する明も拳法家のように平手を掲げ、迎撃の準備を整えていた。
「それはこっちの台詞だ。個人的には今ので決まると思っていた」
「その慢心こそが貴様ら荒神共通の愚かしさよ。力を得た者は決まって不相応な夢を抱き、挙句その身を焦がすのだ」
「自分だけはそうならない、とでも言いたげですわね。感じの悪いお方」
「貴様らと比べればな。そうであろう、白峰倶久理」
構えは崩さず、見透かすような視線を倶久理に向ける。
「聞けば貴様は父母の霊を呼び出すことに腐心していたそうだが……仮に貴様がただの人間だったとしても、同じことをしていたと思うか?」
「……どういう意味ですの?」
「霊を操る力さえなければ、貴様は素直に父母の死を受け入れていたはずだ。だが、その力が道を誤らせた。結果として貴様は現神に目をつけられ、奴らのいいように利用されることになった」
古傷を抉るような言いざまに、倶久理の表情がいっそう険しくなる。
武内は続いて明を見ると、
「貴様もだ、夜渚明。貴様が橿原市に戻る決意を固めたのは、荒神の力を持っていたからであろう。
この力があれば自分が殺されることはない。この力があれば妹の仇を取れる。……その馬鹿げた思い上がりによって、貴様は戦いの運命から逃れられなくなった。
いやそもそも、貴様の妹が殺されたのも力を得たせいであろう! これを力の罪過と言わずして何と言う!」
積もり積もった憤怒を吐き出すように、片足を踏み下ろした。反響する激音は彼の心の叫びに他ならない。
荒神であれ現神であれ、結局は同じこと。この地にいるのは力の奴隷となり果てた哀れな者どもばかりだ。
「武内宿禰は判断を誤った。封印などと甘っちょろいことをせず、あの時全てを抹消しておけば良かったのだ! そうすればこのような事態は起こらなかったはずだ!」
武内は見てきた。意に添わず荒神となり、現神に平穏を奪われた者を。
力に溺れるがゆえ、忠告に耳を傾けなかった者の末路を。
そして、ニニギとかいう不届き者の野心がもたらした悲劇の数々を。
「人の心は脆弱だ。力を持つと使わずにはいられぬ。それを阻止するためには力そのものを遠ざけておくしかないのだ」
「つまり何か? 現神も、八十神も、遺跡も……全てを一人で闇に葬って"無かったこと"にするのがお前の責務だと? よくもまあそこまでヒロイックな精神に浸れるな」
「己は気付いただけだ。武内が果たすべき真の役目をな」
現神の封印が破られた時に備え、武内宿禰は子孫たちに様々な技術を遺していた。
現代医学を先取りしたような効率的な鍛錬法。優れた武術。そして息吹永世に代表される、人体に秘められた力を引き出す手法。
それらは皆、人が現神に立ち向かうため生み出されたものだ。
だが、その中でたった一つだけ再現不可能な技術がある。
それは、荒神創成の秘法。
高天原の重鎮だった武内宿禰が知らぬはずもないその技術について、古文書には大雑把な概要程度しか記されていない。
子供の頃は不思議に思っていたが、今なら分かる。武内宿禰はあえてその部分を削ったのだ。
子孫たちが人の身に余る力を手にすることがないように。道を踏み外さぬように。
だからこそ遺された技術は人の在り方を変えてしまうようなものではなく、人の可能性を極限まで高めるものなのだ。
武内はその事実を啓示と受け取った。
これは只人である自分にしかできないこと。
荒神では駄目だ。彼らは既に力の味を知ってしまった。害悪と知りつつ人が酒を捨てずにはいられないように、彼らが誘惑に抗うことは難しいだろう。
荒神など、信用できるはずがないのだ。
「実りのない会話はここまでだ。どうせ何を言っても貴様らは止まらぬのであろう」
腹の底から息を吐き、長く長く吐き続ける。一拍の間を置いてから深く吸い込むと、総毛立つような開放感が広がっていく。
「ならば痛みをもって貴様らに教えてやろう。そして敗北を胸に立ち去るがいい、この橿原の地から!」
鼓動が高まり、流れる血潮が熱く燃える。
武内は十字に手刀を振りかぶり、獣じみた吠声と共に飛び掛かった。
初撃は縦に裂くように。紙一重で明に回避されるが、続く横薙ぎがその首を狙う。
「ちっ……倶久理っ!」
「心得ておりますわ!」
それを読んでいたかのように、手刀の進路上に霊が飛んでくる。同時に側面からも。
だが、そんなものは武内にとって障害のうちにも入らない。
鋭角的な足運びで攻撃をかいくぐり、力づくで手刀の道筋を曲げる。薙ぎはすぐさま刺突に転じ、明の腹を穿とうとする。
「させるか!」
そこには明の平手が待ち構えていた。またもカウンターの振動波狙い。
武内は瞬時に手刀を引っ込め、もう一方の手で迂回するように腕を払う。
視覚外からの一撃。並の人間ならここでノックアウトされるところだが、相手は荒神。人の領域から外れた存在だ。
微細な空気の動きで気付いたのか、明は間一髪で体を退いた。だがその足取りは急な動きについていけず、不安定なものだ。
「異能にばかり頼っておるからそうなる! それが貴様の限界だ夜渚明!」
とどめとばかりに踏み込んで、手刀の切っ先を矛のように構える。
武内はこれが罠だと知っていた。
明は後ろ手で反撃の拳を作っており、天井と床下からは霊体の青い光がかすかに見えている。こうして窮地を演出し、敵がエサに食いついた瞬間総攻撃をかけるつもりなのだろう。
舐められたものだ。この連中は武内家の戦いを全く理解していない。
武内流武術の神髄は"無傷での瞬殺"。それは敵の攻撃を華麗に受け流し、返す刃で倒すことを信条としている。
彼らの仮想敵は人間ではなく現神だ。異様な体と特殊な異能を持つ現神に対して一般的な武術は使い物にならない。
攻撃を受けてはいけない。奴らの異能は強力であり、触れただけでも致命傷となるのだから。
戦いを長引かせてもいけない。奴らの異能は多彩であり、触れずとも殺す手段に富んでいるのだから。
だからこそ武内にとって回避とは攻撃と同義であり、むしろ相手から攻撃してくれるのは絶好のチャンスでもあるのだ。
「しかと見るがいい! これこそ武内の名が継いできたものの重みだ!」
二十を超える霊の群れが武内に襲い掛かる。
上から下から、そして背後から。青い軌跡が残像となって周囲を包み、その中心に武内はいた。
しかし、そのうちの一つたりとて武内の体に触れることはできない。
全弾回避。それを可能にしているのは超絶的な機動力と武内自身の精神力だ。
身長二メートル弱の巨体は柳のような動きで青の囲みを脱出し、明の元に到達する。明は既に拳を振り始めていたが、武内に焦りはない。
(笑止千万。この技の前では素人の拳撃など毛ほどの脅威でもないわ!)
体に特殊なひねりを掛けて、渦巻くように手刀を打ち出す。筋肉の弾性を利用した一撃は肉体の限界を超えた速度を可能にしていた。
それは武内家に伝わる最強の奥義。
武内宿禰が終生をかけて研究してきた技であり、彼の血筋を引く平群神手が完成させた究極の徒手拳術。
その指先は鎧を貫き、素手で竹を破壊するという。
ゆえに、武撃ち。
人類最速の手刀は明の拳が届く前に戦いを終わらせるだろう。
武内はそう確信していた。
しかし、現実はそうならなかった。
「ぐぁっ──!」
痛々しい悲鳴。それは、わずかに早く届いた明の拳があげさせたものだ。
だが、その悲鳴は武内のものではないし、第一武内は明に殴られていない。
明は、自分の胸を自分の拳で叩いたのだ。
「な、っ──!?」
何を、と言おうとして、言葉が止まる。
前触れなく訪れる肉体の変調。
鈍痛、吐き気、不快感がない交ぜとなって武内を襲う。その症状は目の前にいる明と同じものだ。
「要は、音叉、だ……」
刹那のつぶやきに、武内は一つの仮説を立てていた。
「まさか、貴様……!?」
歯を食い縛りながら明をにらむ武内。彼の「してやったり」な表情が答えだった。
ナキサワメは波を操る異能。それは当然、明自身に影響を及ぼすこともできる。
もしも明が、自分の持つ波動を"武内と同じ波動"に変えられるとしたら?
そして、もしその状態で自分に振動波を撃ち込んだとしたら?
これほどの近距離だ。同じ波長を有する二つの存在は、多少なりとも共振し合うのではないだろうか?
(この男……自分自身を生贄にすることで己の呼吸を乱そうというのか……!)
狂気とも思える所業だが、それは確かに一定の成果を上げていた。
外部からの痛みにはいくらでも耐えられるが、体の内側から響くような震えを抑える手段はない。
痛みと強張りは武内の横隔膜にまで至り……そして、呼吸が途切れる。
息吹永世が、終わる。
「ぐう……!」
まるで体のギアを一気に落とされたような感覚。放ったはずの手刀は遅々として進まず、彼の心を苛立たせる。
だが、それでも常人の尺度で言えばまだ速い部類だ。振動波の影響で動きの鈍った明を倒すことくらいはできるだろう。
いや、できなければ困る。ここでしくじれば、これまで築き上げてきたものが無駄になってしまう。
絶対の勝利を。
信ずるもののために。
武内家の誇りのために!
「ぬ──おおおおおおおおおおおおおおっ!」
強い覚悟は彼に勝つための力を与えた。
前のめりに放った手刀が、ついに明を捉えた。
確かな手ごたえ。体をくの字に折り曲げ、明が沈んでいく。
──その後ろには、一体の霊が潜んでいた。
「……あ」
自分でも驚くほど軽い声が出た。
無理矢理に力を加えたことで、彼の重心は前に傾いていた。
姿勢を戻すのが、間に合わない。
そして、
痺れるような衝撃が体を駆け巡った。
「貴方の言ったこと、半分は正しいと思いますわ。確かにわたくしは自分を見失っていたのでしょう。それが未熟さの証だとおっしゃるなら、罵倒は甘んじて受け入れます」
白む景色に薄れる意識。そんな時、倶久理の静かな声が聞こえてきた。
「ですが、それは力を持っていたからではありませんわ。独りきりだったからです。間違いを指摘してくれる友人なくして、いったい誰が正しく生きられましょう?」
膝を折った武内は、しばらく時が止まったかのように静止していた。
彼に再び動きがあったのは十秒ほど経った後のことだ。
「……そう、かもしれぬな。頭に血が上っている者は、自分でそうと気付けないものだ」
ぎこちなく破顔し、張り詰めていた表情筋を久方ぶりに緩める。
うっすらとした視界に最後まで浮かんでいたは、生徒会の顔だった。
<最終結果:荒神チーム>
×明
×望美
×黒鉄
○倶久理
<最終結果:生徒会チーム>
×武内
×門倉
×クロエ
×蓮
勝者──荒神チーム