第二話 零時の境界線
深夜の学園は無音に支配されていた。
校舎の中に人の姿は無く、広々とした敷地には凍り付くような静寂が横たわっている。
と、その静けさの中で生まれる音があった。
『全職員の帰宅を確認しました。皆さん、もう出てきても大丈夫ですよ』
グループ通話に設定したスマートフォンからクロエの声が聞こえてくる。その報告から数秒の間を置いて、身を潜めていた者たちが次々と姿を見せ始めた。
「私立のくせにザル警備だな……。こちらとしては好都合だが」
茂みの中から這い出てきたのは明だ。彼は体に貼り付く落ち葉を払い、挑むような目を校舎に向けている。
現在位置は東昇降口のすぐ傍、体育館に面した歩道の脇だ。
視線を上げると、体育館に繋がるひさしの上に望美の姿が見えた。その目は校舎の反対側、生徒会が陣地を作っているらしい屋上西部に向いている。
「警報装置を過信しているのかもしれませんわね。うちの学院も警備会社と契約していますけど、深夜まで残っている警備員は二人だけですし」
続いて倶久理が顔を出した。
枝先に服を引っ掛けないよう慎重に体を動かし、最後に乱れた裾を整えた後、
「ですが、それも無駄なこと。あの子たちの手に掛かれば、そこいらのセキュリティなんてオモチャの南京錠と変わりませんもの」
得意げな笑みを見せた。
現在、"謎の心霊現象"によって高臣学園の警備システムは無力化されている。
警報装置は作動せず、監視カメラは同じ映像をループして流し続けるだけ。仮に異変が起きたとしても、誰かがそれに気付くのは全てが終わった後だ。
そう。今宵今晩この場所で、明たちと生徒会の対決が行われるのだ。
「準備が終わったんならさっさと始めようぜ。こちとら補習漬けでメチャ睡眠不足なんだからよ」
側溝の蓋が勢いよく跳ね上がり、中から黒鉄が眠そうな顔を覗かせた。頭髪がしっとりと濡れているところを見るに、おそらく中で寝入っていたのだろう。
「おい白髪女、とっとと始めようぜ。早くしねえとマジで帰るぞ俺」
『あと数分くらいですよ。適当に駄弁っていればすぐですから、三下くんはもうちょっとだけ我慢してくださいねー』
「誰が三下だオラァン!? なんならてめえから先にシメんぞ!」
『さすがリョウ、惚れ惚れするような三下ムーブだね』
電話口で激しくがなり立てる黒鉄に対し、斗貴子と猛はむしろ楽しそうだ。もっとも審判役という彼らの立ち位置を考えればその気楽さも当然と言えよう。
共通回線に黒鉄の罵声が響き渡る中、斗貴子はいたってマイペースな調子で皆に呼びかけた。
『レギュレーションの確認をしておきますね。試合形式は四対四の団体戦で、行動範囲は学園の敷地内。敵の攻撃をモロに受けるか、敷地の外に出た時点でリタイアです。相手チーム全員をリタイアさせれば晴れて花園行きの切符を手にすることができます』
「分かりづらいネタはやめろ」
『じゃあクリスマスボウルにしておきます』
「大して変わらんわ」
若干話が逸れたが、端的に言うと攻撃を当てれば勝ちである。
荒神の能力を考えれば一発だけでも十分すぎるほど危険であることは否めないが、それでも無駄な人死にを避けることはできるだろう。
『なお、生徒会が勝利した場合敗者は速やかに橿原市を退去すること。ただし、明さんたちが勝利した時は──』
そこで斗貴子は言葉を止めて、ひときわ念を押すように、
『──皆に、全てを話すこと』
意志を込めた一言。ここに集う者はそれを知るために来たのだと宣言するかのように。
この通信はもちろん生徒会にも開かれている。武内が今どのような顔をしているのかは知らないが、この場で異論を表明していないということはすなわち承諾と同義だ。
逆に考えると、絶対に勝てる自信があるからこそ斗貴子の提案を飲んだとも受け取れる。
望美も言っていたが、武力の誇示は自身の発言力を補強することにも繋がる。武内にとって、この状況は目障りな明たちを大人しくさせる絶好の機会でもあるのだ。
『開始時刻は零時きっかり。時間になったらチャイムを鳴らしますから絶対に聞き逃さないように。ではでは皆さん、頑張ってくださいね~』
気の抜けるような締めの言葉を皮切りに、めいめいが共通回線から抜けていく。
そんな中、明だけは最後まで通話を切らなかった。
「結局はお前ら姉弟の手のひらの上というわけか。気に入らんな」
これだけスムーズに話がまとまったのは、間違いなく斗貴子の介入があったからだ。
一触即発の場面に颯爽と現れ、あたかも善意の第三者のような態度で仲裁を始める彼女の姿は確かに頼もしいものがあった。
生徒会の何人かは全面戦争が回避されたことにほっと胸を撫で下ろしていたし、その心象が彼女の影響力にいくらかのプラス効果を与えたことは言うまでもない。
まさに救世のホワイトナイト。仕込みを疑うほどに最高のタイミングだ。猛がグルであることにさえ気付かなければ明も素直に感謝していただろう。
そのうえ当の仕掛人どもは審判役を自任して楽をしているのだからたまらない。審判役などと言えば聞こえはいいが、要するに勝っても負けてもノーダメージという最高に都合のいい立場なのだ。
「猛の奴め、何をニヤニヤしているのかと思えばこちらの行動を事前に把握していたとはな。ダシにされた俺はとんだ道化だ」
『あらあら、憶測で友達を疑うのはよくないと思いますよ?』
「他人様の覚悟にタダ乗りしておいて良く言えたものだ。ご丁寧にチーム戦用の黒鉄と倶久理まで揃えておいて今さら偶然とか抜かすつもりか?」
『いえいえそれこそ奇跡です。世界はドラマティックとドラスティックで構成されているんですよ? ……っていうか、その二人は私が呼んだんじゃありませんし』
「……なんだと?」
『倶久理さんですよ。彼女が三下くんを引っ張り出して学園の前まで来ていたんです。まあ、忍び込む手引きをしたのは私ですけど』
明は驚きに両目を剥いたまま、倶久理の方に目を向けた。
視線に気付いた倶久理は淑やかに頷くと、
「彼女が教えてくれましたの。明様がとても無謀なことをなさろうとしていると。ですから、せめてものお力添えをと」
「彼女……? 誰だそれは」
「まあ、お忘れですの? メリーさんですわ」
その瞬間、明のスマートフォンから黒電話のベル音が鳴り響いた。聞き覚えのある音色に明の顔が引きつっていく。
「ちょっと待て。まさか……まだ憑いていたのか?」
明の問いに倶久理は沈黙。ややあってから頬を赤らめ、
「ご安心ください。明様がどのような動画を見ていらしたとしても、わたくしは絶対に軽蔑いたしません……よ?」
「真綿で首を絞めるようなフォローに感謝する。明日朝一で機種変してくるとしよう」
片頬に手を当て、怪しく光る液晶画面を恨めしげに睨む。右上にちょこんと映ったデジタル時計は11:59を示していた。
「夜渚くん、そろそろ。ちゃんと切り替えて」
望美の注意が届いた矢先、近くのスピーカーからチャイムが聞こえてきた。
それは新しき時を告げる福音。曖昧な昨日は既に過去となり、目の前には白紙の今日が広がっている。
「──始まったか」
戦いは穏やかな風と共に幕を開けた。
明は通話を打ち切ると、意識を戦場に没入させていく。
戦闘開始から約十秒。仲間たちは浅い息を吐きながら周囲を警戒しており、同様に生徒会の反応も屋上西側から動いていない。
まずはこちらから攻め込むか、あるいはどこかに立てこもって相手を迎え撃つか。
明はしばし思案し、しかしその思考は途中で断ち切られることになる。
「……羽音?」
西風が運んでくる音は鳥のはばたきだった。
何の気なしに見上げた空には小さな影が一つ。
それはすぐさま二つとなり、三つとなり、四つとなり……気が付けば、五十を超える大きな群れとなっていた。
黒い翼に尖ったくちばし。そのフォルムは町でよく見るカラスそのものだが、一つだけ違う点がある。
そのカラスたちには、三本の足が生えていたのだ。