第二十二話 かすかに揺らめく陽の欠片
夕暮れに染まる高臣学園。下校時間を知らせるチャイムが鳴り響く中、駐車場への道のりを歩む稲船隆二の姿があった。
職員玄関から駐車場までの距離は百メートル弱。普段なら早歩きで移動時間を短縮しているところだが、今日だけはそうする気が起きなかった。
スマートフォンを耳に当てながら、努めてゆっくりと歩道を進む。電話の向こう側にいる彼女と歩調を揃えるように。
「……ああ、問題ない。集団昏倒事件に付随するゴタゴタは既に収束しつつある。このペースでいけば、学園祭も例年通り開催することができるだろう」
『お疲れ様。色々と忙しい時期でしょうけど、徹夜だけは絶対に駄目よ。あなたって自分のことをロボットか何かと勘違いしてる節があるから』
「病人に説教されない程度には健康的な生活サイクルを心がけているつもりだ」
『病人だからこそ気になるのよ。……あ、でもあなたが入院すれば毎日顔を見られるようになるのね。悩ましい選択だわ』
ころころと笑う彼女の声を聴いていると、凝り固まった心が溶けていくような気分になる。
それは稲船にとって何事にも代えがたい時間だった。
「最近はあまり見舞いに行けていないが……体調はどうだ?」
『小康状態ってとこかしら。良くもないけど、急激に悪化している様子もない。ずっとこんな感じならいいんだけどね』
「……そうか。落ち着いているのであれば、何よりだ」
相変わらず嘘の下手な女だ、と稲船は心中でため息をつく。
天真爛漫。天衣無縫。有り体に言えば猪突猛進を絵に描いたような単純さ。現場を知らず社会を知らず、しかし情熱だけは人一倍な新任教師。
そんな彼女の姿が見られなくなってから、何年の月日が経ったのだろう?
殺風景な病室で日に日にやつれていく彼女を、あと何度見られるのだろう?
稲船は眉間に手を当て、目を閉じて、ネガティブな思考に終止符を打つ。それから柄にもなく明るい声で、
「産業革命以降、医療技術は指数関数的な速度で発展し続けてきた。焦らずともじきに治療法が見つかるはずだ」
『変な理屈の付け方をするのね。そういう時は普通に"大丈夫だ"って言うだけで女は安心するのよ?』
「立場ある者として根拠に乏しい発言をするわけにはいかないからな。君に対しては特に」
『うふふ、あの時みたいに統計データ付きの反論を送り付けられるのが怖いんでしょう?』
「もうその話は忘れろ。唾棄すべき過去だ」
『残念だけど絶対に忘れてあげない。私にとっては大切な思い出だから』
和やかな会話。電話越しに流れる穏やかな空気。
できることならいつまでも続けていたいが、彼女の体調を考えれば長話はあまりよろしくない。
稲船は後ろ髪引かれる思いをおくびにも出さず、適当なところで彼女に別れを告げた。もっとも、彼女にはこちらの本心など見抜かれていただろうが。
稲船は苦笑しながら歩みを速め──と、そこで視界の端に見知った後ろ姿を発見した。
「あれは……新田くんか?」
右手に見える街路樹の裏、暗がりにある花壇の前に膝を降ろす晄がいた。
あれは確か、数日前にコスモスのつぼみを見つけた場所だ。
こんな時間まで世話をしているとは実に感心なことだが、少々危なっかしくもある。
橿原市周辺は他の都市圏と比べても凶悪犯罪の少ない町だが、少ないだけで皆無ではない。年頃の少女が遅くまで残っているのはやはり問題があるだろう。
(心配のし過ぎかもしれないが……一応、釘を刺しておくか)
そう考えた稲船は、進路を右にずらしてそのまま晄の方へと歩いていく。
晄はこちらに気付かず、ひそひそ声でコスモスたちに話しかけている。
微笑ましいものだ、と稲船は頬を緩め、その様子をそっと眺めようとして──
「ヘイ野郎ども、今日の配給だあっ!」
その瞬間、それが見えた。
光の粒。
山吹色の淡い光を宿したそれは、晄の指先からこぼれ出てつぼみの中へと吸収されていく。入った瞬間、あたりが少しだけ明るくなったような気がした。
「ほんとは本物のお日様を見せてあげたいんだけど、今はこれが精いっぱい。もうすぐ植え替え用の新しいプランターが届く予定だから、それまでの辛抱だよ」
ファイトだベイベー! などと小声ではしゃぎばがら、他のつぼみにも同じことをしていく晄。
その奇妙な光景を目にした稲船は、呆けたような顔で立ち尽くしていた。
それは目の前で起きている事が理解できないからではなく、むしろ……
「……アマテラス」
理解できているからこそ、彼は運命の皮肉を思わずにはいられないのだ。
五章終了。ここで大体折り返し地点です。
ここまで読み進めてくださったわずかな読者様方に感謝を。
次章はようやく序盤から引っ張り続けてきた諸々の伏線をまとめて消化していきます。というか六章と七章でほぼすべての謎は解けます。