第十五話 夢、覚めて虚ろ
心地よいまどろみから目覚めると、そこは山のふもとにほど近い林の中だった。
立ち込める白い霧は、この場所が結界の中である証。どうやらあの荒神たちと別れた直後にうたた寝してしまったようだ。
「らしくねえ」と毒づきながら、タヂカラオは慌てて結界の外に意識を向ける。
幸いなことに、天香久山に立ち入った者は誰もいなかった。頂上に続く山道も、遺跡の入り口も、ずっと変わらぬ静けさを保っている。
ほっと一息つきながら、次に思うのは先ほどのこと。
「誰も死なぬ決着、なあ……。そんなもんがどこかにあるものかよう?」
彼自身あの娘の気概は評価しているし、できることなら手を貸してやりたいとも思う。
だが、それはあくまで現神の利益と相反しないレベルでの話だ。
荒神ニニギの旗の下、現神は新たな神代の到来を目指して動いている。
そして、新たな神代を確実なものとするためにはより多くの荒神を捧げなければならない。もはや両者はどうあっても相容れることのない関係なのだ。
「かつての身内と殺し殺され、いがみ合い。まっこと今世は嫌な時代じゃのう」
昔が懐かしくないと言えば、嘘になる。
情けを完全に殺しきれるほど、自分は冷酷に徹しきれない。
さりとて、今さら生き方を変えられるほど要領の良い男でもない。
自分は兵士だ。兵士は上官を信じ、目の前の命令を確実にこなすことだけを考えねばならない。それがあるべき姿なのだ。
「ここにお前がいたら、いったいどんな言葉をかけてくれたんかのう。……なあ、オモイカネよう」
現神が封印される数十年前にオモイカネは息を引き取っていた。
原因は衰弱死。増殖し過ぎた脳細胞が多くの内臓に転移し、とうとう生命活動を維持できなくなったのだ。
神がまだ神として扱われていた時期だ。彼女の亡骸(といっても溶けた残骸なのだが)は丁重に葬られたが、時の流れと共にその墓標は忘れ去られてしまった。
唯一の慰めといえば、オモイカネが荒神殺しに関わることなく逝ったことだろう。
彼女は同胞たる現神に向けるそれと同じくらい、荒神たちにも強い愛情を注いでいた。
尊き神の一柱でありながらも決して驕り高ぶることなく、慈愛と知性によって荒神を導く彼女の姿はタヂカラオの誇りだった。
彼女のためなら恐ろしげなる蛮族の軍勢にも恐れず立ち向かえた。彼女のためなら千の矢に撃たれても痛くはなかった。
どのような命令でも疑問を抱くことはなかった。
彼女の示す先には、正しき未来が広がっていると信じていたから。
だが、今は。
「──タヂカラオよ、首尾はどうなっている」
突然の声にタヂカラオは顔を上げた。
山道の脇から苔むした老木の間を抜けて、彼の良く知る人物が歩いてくる。
この時代の窮屈そうな正装に身を固めた、暗い目の男。
タヂカラオを初めとする現神を解き放ち、彼らに再び希望を与えてくれた、いわば救世主とでも言うべき存在。
「お……おお、ニニギ様じゃあございやせんか。わざわざこんなところまでお越しくださるなんて、なんちゅうか、恐悦至極? でごぜえますな」
「慣れぬ言葉遣いはよせ。元よりお前にそういった配慮は期待していない」
ニニギはとんちんかんな挨拶にも顔色を変えず、首をわずかに揺らすことで状況報告を促した。
建前より実利を優先する姿勢はオモイカネにも通じるものだが、ニニギの場合はそういった傾向がより顕著なように思える。
それどころか……この男は、彼女と違って心の内が全く読めないのだ。
氷のような顔つきからは、さざ波程度の感情すら見て取れない。
共に過ごした時間で言えばオモイカネの方が圧倒的に長いのだから、分からないのも当然といえば当然なのだが……それでもふとした時に疑問を感じてしまう。
自分はこの男を信じていいのだろうか、と。
「……天香久山の防衛は滞りなく進んでる、ですだ。一昨日も荒神どもがやってきたんじゃが、ちょちょいのちょいで叩っ返してやりましたぜ」
たどたどしい敬語を使いながら、大げさな身振り手振りも交えて報告を進めていく。
ニニギは黙ってそれを聞いていたが、途中で手を挙げ、話を止めるように手のひらを動かした。
「叩き返した? それは逃げられたという意味か?」
「へえ、そういうことになります」
「荒神が来たのは一昨日だけか? あれほど我々を苦しめた連中がたった一度の敗走で諦めるとは思えないが」
「それなんじゃが、ちとニニギ様のお耳に入れておきたいことが」
「何だ?」
タヂカラオは少しだけ悩んでから、その言葉を口にした。
「あの連中、どうやら和睦を求めてるようで。……いかがしましょう?」
これまで全く動くことのなかったニニギの顔が、そこで初めて微細な変化を見せた。
しかし、タヂカラオに分かったのはそこまでだ。その変化が正負どちらの意味を持つものなのか、彼には分からない。
「……………………」
ニニギは石のように停止したまま沈黙し、そのまま数秒の時が流れる。
その間ニニギが何を思ったのか知ることはできなかったが、下された命令は簡潔なものだった。
「構うな。殺せ」