第十四話 追憶
次話は今夜中に投稿します。
どこまでも白い、霞のような膜に覆われた世界。
フィルター越しに見える景色はとても不安定で、瞬きする度微妙に形を変える。それは物理的な現象ではなく、胡乱な意識が見せる陽炎のような揺らめきだった。
ああ、自分は夢を見ているのだな。
自我の境界すらあいまいな状態で、タヂカラオはそんなことを思っていた。
彼の体は長い廊下を歩んでいる。艶のある長板が整然と敷き詰められた、広い廊下だ。
タヂカラオの足取りは荒々しいものだが、その体重を支える床板は軋み一つあげていない。大人数十人分の重さはあろうかという巨体に踏みつけられているにも関わらず、だ。
見た目は板だが、ただの板ではないのだろう。思うに、自分には理解もできぬ複雑な原理がはたらいているのだろう。
理解できないのだから、考えなくていい。無学な自分が頭をひねったところで、正しい結論に辿り着けるはずもないのだ。
「馬鹿の考え休むに似たり、ちゅうてな。小難しいことは賢い奴が考えればええんじゃ」
がははと笑い、自分の言葉に自分で肯定を返す。あまりの大声に、すれ違う女官たちから怪訝な目を向けられてしまった。
一部の者からは思考停止と揶揄されることもあるが、タヂカラオはこの生き方に疑問を持っていない。
人にはそれぞれ適性というものがある。
腕っぷしだけがとりえの自分が戦場の一番槍を任されているように、知に長けた者が寄り集まって政を進めていく。それが正しい在り様なのだ。
他の者ならいざ知らず、彼女が間違うことなど絶対に有り得ないのだから。
「──と、確かここじゃったな」
廊下の途中で脇道に逸れ、袋小路の果てにある木戸を押し開けた。
鈍い音と共に扉が動く。
同時に、中から微量の空気が流れ込んできた。花の香りを含んだほのかな風がタヂカラオの鼻先をくすぐる。
「おう、入るぜ」
「そういう台詞は開ける前に言うものだ」
部屋の奥から飛んできたのは鋭い声。少し低めのトーンだが、その響きは確かに女性らしさを内包している。
「ここは式典場じゃねえんだから、いちいち堅ぇこと言うなっての」
「ふむ、貴様の言うことにも一理あるな。このやり取りが六度目でなければ納得していたかもしれん」
女性は窓際にある座敷の上で、いくつもの書類に囲まれていた。
落ち着いた色の着物に、長い黒髪。華奢な体つき。そこだけ見れば可憐な女性そのものだが、その素顔を見た者はほとんどいない。
盃をひっくり返したような黒い竹笠と、その先から垂れ下がる薄布の纏いが彼女の顔を隠しているのだ。
「相っ変わらず忙しないのう、オモイカネ。客が来た時ぐらい手を休めたらどうじゃ」
咎めるように言うタヂカラオに、オモイカネと呼ばれた女性は憮然と反論する。
「"手は"休めているさ。だが頭を休めるわけにはいかない。今私が考えることを止めれば、高天原の八割は機能不全に陥る」
オモイカネの周りには念動力で浮かせた大量の筆が漂っていた。
十本や二十本では済まない量の筆が畳の上を飛び回り、そこらじゅうに散乱する紙束に流麗な文字を書き込んでいく。
その光景はまるで、目に見えぬ文官たちが彼女の仕事を補佐しているかのようだった。
「一人で根を詰め過ぎじゃ。なんぼか部下に任せてもええじゃろうに」
「幹部の承認が必要な書類も多いからな。なにせアマテラス様があのご様子だ、私以外に動ける者がいない」
「あの嬢ちゃん、まーだヘソを曲げてんのかよう?」
「今回は本格的だ。岩戸に引きこもったままもう一週間も出てきていない」
高天原の象徴たるアマテラスと、その実弟スサノオの確執……という表現すらはばかられる幼稚な争いは、目下彼らの悩みの種だった。
原因は常にスサノオの側にあるのだが、幼いアマテラスが弟の挑発を上手くあしらえるはずもなく。二人が騒ぎを起こす度に都は混乱し、政治は停滞していた。
「神としての自覚に欠けるアマテラス様も問題だが、スサノオもスサノオだ。いったい奴は姉の何が気に入らないというんだ?」
「理由なんぞ無くとも喧嘩はできる。姉弟っちゅうのはそういうもんじゃ」
「そんな非合理的な話があるか」
「俺っちに言わせりゃ、むしろお前がお行儀良過ぎるんじゃ。ウズメなんぞいっつも好き放題やっとろうが」
「その尻拭いをしているのは誰だと思っている……!」
オモイカネが静かに語気を荒げ、その怒りを受けて筆が震える。
しかし彼女はすぐに冷静さを取り戻すと、腰を上げて窓の方に足を進めた。
「……最近、神に対する人々の崇敬が薄れているように感じる。正確には新しき神々の雛型……三貴士に対する崇敬だが」
「するってえと、アマテラス、ツクヨミ、スサノオの三柱かよう」
「中でも特にスサノオの影響が大きい。奴の粗暴さが災いして、三貴士とそれに連なる者たちを粗製の神……"粗神"と呼ぶ輩もいるほどだ」
吐き捨てるように言って、オモイカネは外の景色を見下ろす。
遥か眼下には緑あふれる日の元の大地が広がっており、ところどころに豆粒のような家屋や縞模様を描く畑が見えた。
のどかで牧歌的な風景。それは未開と言い換えてもいい。
「この国はまだ発展の途上にある。高天原の叡智は広く民衆に行き渡っておらず、人々は蝦夷や隼人の脅威に晒され続けている」
その声は優しいが、同時に断固とした厳しさをも備えていた。
「だからこそ神が必要とされているのだ。民草の心を束ね、蛮族どもを打ち滅ぼし、この地で真の安寧を得るために。その覚悟があったから、私はあのような恥辱にも──」
そこでオモイカネは急に言葉を止め、気まずそうに頭を振った。
「くだらぬことを口走ってしまったな。自己憐憫など、私らしくもない」
「なんの、役得よ。お前みてえなべっぴんさんの愚痴ならいくら聞いても聞き足りねえってんだ」
「調子のいい男だ。貴様とて、この体を知らぬわけではなかろう」
疲れたようにつぶやきながら、オモイカネが竹笠を取る。
「これが私だ」
……そこにあったのは、
「肥大した脳髄に全身を侵された、醜い姿。こうなってはまともな食事も取れんし、子を成すことなどもってのほかだ。これでも貴様は私を女だとのたまうのか?」
かろうじて人の形を残した唇が、自嘲気味に歪む。
そんな彼女とは対照的に、タヂカラオは能天気な笑みを浮かべた。
「おうよ! 皆のことをいっつも気にかけとる、最高の女じゃ!」
「……っ」
オモイカネが息を詰める。
その内心を知ってか知らずか、タヂカラオは自らの胸を自信たっぷりに叩き、
「それに、子供ならとっくにおるじゃろうが!」
「何……?」
「とぼけるでないわ。お前の異能を受け継いだ人間ども、新しき時代の先導者! 奴らを我が子と呼ばずして、何と言う!」
それはタヂカラオの本心だった。
自分があの人間たちに与えたのは、決して力だけではない。
国を守り、人を守り、未来を守る。
その志を、願いを。
それら全てを一緒くたにして託したのだ。
細かな思いは違えど、現神全員が同じ期待を抱いているはずだと彼は信じている。
「だからよ、そんな顔するんじゃねえって。誰が何と言おうと、お前はいい奴で、いい女で、いい母親なんじゃ」
タヂカラオは声を和らげ、その大きな手でオモイカネの肩に触れる。
体格差を差し引いてもとりわけ小さなオモイカネの体。その双肩にどれほどの重責が掛かっているのか、自分の貧弱な脳みそで理解することはできないのかもしれない。
だから、せめて彼女の心を守れるように。彼女の忠実な剣となり盾となれるように。
「……貴様は、どうしようもないうつけ者だ」
彼女の控えめな微笑を見ながら、タヂカラオはその決意を再び固くしたのだった。