第八話 第一歩
明朝。明と望美は再び天香久山へと向かっていた。
望美は普段通りの調子で登山口に続く坂道を歩いていく。一方、その背中を追う明は露骨にむくれ面だ。
「……俺は反対したからな」
「分かってる。結果が駄目でも夜渚くんのせいにはしない」
足を止めずに答える望美。明は無駄と知りつつ、もう何度目かも分からない問いを繰り返す。
「望美、本気でタヂカラオが話し合いに応じると思っているのか? はっきり言って正気の沙汰とは思えんぞ」
タヂカラオとの対話。望美がそれを言い出した時、明は思わず自分の耳を疑った。
つい先日もその手の話をしたばかりだが、さすがに昨日の今日でそういう流れになってしまうとは思いもしなかった。
相手はこちらを襲った現神、しかも超がつくほどの武闘派だ。出会い頭に攻撃が飛んでこないだけでも武内の方が数倍マシだろう。
だが、それでも望美の決意は固かった。その歩みは緩まず、着々と勾配を登っていく。
「成功する可能性が低いことは分かってる。でも、ゼロじゃない。少なくとも今までの現神よりは話が通じると思う」
「それは、俺たちをあえて見逃したからか?」
あの時、タヂカラオは明たちに追い打ちをかけることもできたはずだ。
にも関わらず、攻撃は来なかった。ただの一発も。
その不可解な行動が何を示しているのかは分からないが、違和感を覚えたのは確かだ。
「しかし、だからといって奴が善良な現神ということにはならないだろう。事実として俺たちは襲われている」
「戦うことと殺すことは必ずしもイコールじゃないと思う」
「では奴が手を抜いていたと?」
「分からない。でも、シナツヒコみたいに"何が何でも"って感じじゃなかった」
だから、と望美は続けて、
「私はそれを知りに行きたい。胸の中にあるモヤモヤを放置したまま戦うのは嫌だから」
「このまま行くとモヤモヤしたまま殺されそうだがな……」
「大丈夫、失敗した時は逃げればいい。タヂカラオの結界は不安定って話、聞いたでしょう?」
「おい、慎重に事を運べと言っていたのはどこの誰だ? 俺には行き当たりばったりなプランにしか思えないが」
望美は一瞬振り返り、「お前が言うか?」とでも言いたげな視線を向けた後、
「私は慎重に"考えて"動いた方がいいって言ったの。これは考えた上での結論。だから問題なし」
真面目な口調でそう言われてしまうと明は閉口するしかない。
今のように、望美は時たま周囲を驚かせるような行動力を発揮することがある。
彼女は常に理性的だが、それは決して大人しいとか臆病といった意味ではない。
覚悟が決まっている、とでも言うのだろうか。目的のためには手段を選ばない思い切りの良さと容赦の無さを持ち合わせているのだ。
その気質はある意味頼もしくもあり、またある意味では危なっかしい。
ブレーキを掛けたと思ったら次の瞬間にはアクセルをベタ踏みするようなアンバランスさは、日頃から大胆不敵を自任する明をもしばしば戸惑わせていた。
「……仕方のない奴だ。先っちょだけだぞ?」
「何の話をしてるのか分からないけど……一応ありがとう、夜渚くん」
「気にするな。俺も男だ、今まで揉んできた分の埋め合わせくらいはしてやる」
「やっぱりあれ全部わざとだったんだ……」
それからしばらくの間、望美は明から距離を取りつつ先を進んでいた。が、その足がある一点で停止する。
「……着いた」
天香久山の登山口。道と山との境界線を前にして、望美は一度深呼吸。
「夜渚くん、タヂカラオの反応はある?」
「いや、無い。おそらく結界の中にいるんだろう」
周囲にいるのは獣とカラス程度だ。誰がやったのかは知らないが、前回の戦いで荒れた山道も綺麗に片づけられていた。
「今さらなんだけど、どうすればタヂカラオに気付いてもらえるんだろう?」
「普通に呼べば聞こえるんじゃないか? まあそんなことをしなくとも、山を登っていけば向こうから──」
「待って」
歩き出そうとする明の腕を望美が掴む。
その時だった。
「──かかかっ、やっぱりまた来たかよう!」
豪快な笑い声が聞こえてくると同時、目の前の風景が歪む。
歪みの隙から沸き出てくるのは青の光球。光はたき火のような放電音を伴いながら膨張し、そのシルエットを巨人の形へと変える。
数秒後、そこにはタヂカラオがいた。
「あん? 今度はたったの二人かよう? なんじゃ、せっかく出てきたっちゅうのに張り合いのない」
タヂカラオは二人を見るなりがっくりと肩を落とすが、すぐに笑顔を取り戻すと、
「ま、ええわ。二人でも百人でも荒神は荒神じゃ。……ってえことで」
丸みのある瞳に獰猛な光が宿る。
明はいつでも仕掛けられるように拳を構え──と、そこで望美が手を引いた。明の足と体は後ろのめりに山の外へ。
「……む」
それを見た瞬間、タヂカラオの様子が明らかに変わった。
黒々とした太眉をぐにゃりと曲げて、心底残念そうにうなる。それはさながら晩飯をお預けにされた犬のようなしょぼくれ方だった。
「望美、これは……?」
「やっぱり」
望美は明の腕を掴んだまま数歩後ろに下がる。
そうして天香久山から明確に離れると、境界線で悩ましげに立ち尽くすタヂカラオに話しかけた。
「あなたが受けた命令は、たぶん"天香久山に荒神を立ち入らせないこと"だよね。逆に言えばそれ以上の事を命じられてはいない。だからする必要がない……違う?」
「……ほう」
答え合わせをするような望美の言葉に、タヂカラオは大きく感嘆の息を吐いた。
「恐るべしやオモイカネ、ってか。鋭いところもあやつ譲りとはのう」