第九話 穴
橿原市街の中心部から北東に約一キロ。
区画整備された住宅地の狭間に、小高い山が頭を突き出している。
それが、指定文化遺産「耳成山」だ。
標高は約百三十メートルだが、ふもとの海抜が五十メートル以上あるため、実質的な標高差は百メートルにも満たない。山というより、緑豊かな丘陵に近い。
南口には、ため池を擁する市民公園。そして北には高臣学園。
その立地ゆえに人の出入りは多く、幼い子供が遊びがてらに登ることも珍しくない。
およそ神秘とは縁遠い、ごく普通の山。この土地に住む多くの人々は、そう認識していた。
夜渚明もその一人だった。七年前の、あの事件が起きるまでは。
「うん、到着。……っていっても、学園のすぐ隣なんだよね」
正門を出てから南に、わずか十歩半。道路脇の側溝をまたげば、そこはもう耳成山だ。
まずは北西の登山口へ。一応、正規の登山ルートは南口だが、学園から最も近いのは北西側だ。
今朝と同じく古井戸の前まで来た時、後ろにいた望美が話しかけてきた。
「ねえ夜渚くん。調査って言ってたけど、どこから始めるつもり?」
小走りに追いついて、こちらの顔を覗き込むように首を伸ばす。
至近に望美の息遣いを感じ、明は反射的に上体を反らした。
「あ……ごめん。ビックリしたよね」
身を引く望美に、明は慌てて、
「ああ、君のせいじゃない。あまりこういった距離感に慣れていなかっただけだ」
「……夜渚くんって潔癖症?」
「いいや。だが、男子とはもう少し距離を取って話した方がいいかもしれないな。人によってはピンクな勘違いをされかねん」
「そう感じるのは夜渚くんがえっちなことばかり考えてるからじゃないかな……」
「えっちなことが嫌いな男などいない」
「オープンスケベ、ダメ、ゼッタイ」
「そちらから話を振ったのにアウト判定するのは理不尽じゃないか?」
「世の中ってそういうもの」
「まさか女子高生に世の理を説かれるとはな。……ところで、なんの話だったか」
「耳成山。調査。どこから」
人工知能アプリに語りかけるような棒読みだった。
無駄話をしている間も、二人の足は止まらない。
進めば進むほど、重なり合う木々が視界をさえぎり、外の景色を隠してしまう。
何とはなしに、上に目を凝らす。緑色のブラインド越しに、太陽らしき光がかろうじて見えた。
「やっぱり、最初は頂上から?」
「子供の頃から何度も登っているが、あそこには何も無い。パスだ」
「じゃあ、中腹にある神社? 拝殿の裏に秘密の抜け道が……とか、映画では定番だけど」
「古来からの因習と手毬歌もな。だが、その線も薄いだろう」
耳成山に何かがあるとしても、簡単に人の立ち入れるような場所には無い、というのが明の見解だった。
七年前の事件の折、警察は周辺一帯をくまなく捜索している。失踪の現場である耳成山とて、例外ではない。
(しかし、事件に関するものは何も見つからなかった。捜査員ですら見落としてしまうような、巧妙な偽装がなされていたと考えるべきだ)
立ち止まり、周りを見渡してみる。
岩肌の目立つ坂道が、幾度も左右に折り返しながら、上へと続いていた。
道の外には落ち葉だらけの地面。あとは……木と、木と、これまた木だ。
木を隠すなら森……自然と、そんな言葉が浮かんできた。
「……それだ」
一人つぶやき、ひらめきのままに道を外れる。望美が驚きの声をあげた。
「えっ、と……何か、思いついたの?」
「ああ。とりあえず、山の南側に行ってみよう」
不安定な斜面に気を付けながら、道なき道を南へ。
道中、望美がまた問うた。
「南側に何があるの?」
明は枝に手をかけ振り返ると、
「防空壕だ。戦時中、耳成山には多くの防空壕が作られていたと聞く」
「言われてみれば……幼稚園の遠足で登った時、南の山道で変な穴を見たことがあるような」
望美の言葉に、明は肯定で返す。
「そう、あのあたりだ。たとえば誰かが何かを埋めたとしても、防空壕の近くであればさほど怪しまれない。土を掘り返した跡が風景の一部に溶け込んでしまうからな」
「夜渚くん」
「死体か凶器か、もしくは金目の物か……。何が埋められているのか知らんが、どうせまともなものでは──」
「夜渚くん!」
緊迫した叫びに、のぼせていた心が一瞬で冷えた。
望美は、固い表情で、ある一点を指差していた。
明のいる場所からやや上方、木々の密度が薄くなっているところ。
そこに目を向けた時、明は自分の推理が的外れであることを思い知った。
「……馬鹿な」
穴。
埋められても、ましてや隠されてもいない。
誰にはばかることもなく、大きな横穴が口を開けていた。