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【冬物語】〜ミレアの海中時計〜

作者: メアリー



 淡く揺らめく無限の水面。日差しの反射による白い光にチクリと痛みが走る。瞳に映る溢れこぼれ落ちそうそうなほどのその輝き。しかし、それは徐々に深い暗闇に犯されてゆく。

 どれくらいの時が流れたのだろうか。研磨された宝石のような輝きは紺碧に染まり、瞳の主はやがて静かに閉じる。



 ーー『死』をゆっくりと感じる時間。人は何を考えているのか。

 彼女こと、ミレアは考える力などはもう残されてはいない。

 ただ、静かに聴いていた。耳をすませば響く、その音を。



 ーーカチッーーカチッーーカチッ。



 骨に直接響く反響音。この時ばかりはひどく心地いい。

 長針は12の位を少し過ぎ、短針は5を示しているだろうか?

 瞳を閉じていても、不思議とミレアには分かった。肢体から伸びる骨ばった美しい指先、そして海面から差し込む細い陽に照らされ輝く金色の長髪、その一本一本に到るまでとうに感覚は失われていた。

 それでもミレアには、針の動きから磨り減った傷の数まで。細い左腕に巻かれた時計のすべてを感じることができた。

 刻まれ続ける家族の音。それが、ミレアの安らぎ。






 ミレアの父はあまり家に帰らない人であった。背は高く、強張った大きな背中はコート越しにもよく分かる。父の大きな靴を幼いミレアが準備すると、よく汗をかいた。たまに帰ってくると、必ずお土産をくれた。アメリカ帰りの時はアメコミヒーローのお人形。エジプト帰りの時はどこかの部族の仮面。ロシア帰り時は雪の降る街。どこかズレた娘へのお土産。ミレアはそれが嫌いだった。

「お土産なんていらない。パパがいればいい」

そう、思わず呟いてしまった9歳の冬。誕生日が近かったからだろうか。今まで口にしたことがなかったセリフなだけに、父は面を喰らっていた。が、父はまたお土産を買ってきてあげると言って優しい笑みを浮かべたまま家を出た。その日は州の最低気温を更新した。ひどく寒かったことと父の笑みだけが今でも記憶に残っている。

 それから父はしばらく帰っては来なかった。ともに暮らしていたメイドのリゼルに聞いても、すぐに帰って来ますというばかり。父の書斎に積まれた書類は綺麗に片付けられ、まるでもう用がないと言わんばかりのものだった。扉の外では、春が来て、夏が過ぎ、秋が巡って、冬がまた訪れる。この冬は何回目なのか、ミレアはいつからか数えることをやめた。



 ミレアが高等学校へ上がる年の冬の朝、初めて列車に乗車した。ブルーのロングコートにニット帽、首にはホワイトのロングマフラー。両手にはめられた手袋の暖かさには15年生きて一番感謝した。列車にはいつもリゼルと乗っていた分、切符を買うことにはこの旅で一番苦労した。

 列車に揺られ数時間。途中に見えた山岳になぜか視線を奪われる。父も、昔同じ山に目を奪われたのだろうかと。



 高等学校への進学が決まった日、郵便ポストに一通の封筒が届いた。中身は無く、送り先はカナダの知らない女性から。リゼルへ見せると、すぐに地図とお金を渡してくれた。

「これは何?」

「ご主人様がいらっしゃいます」

そう静かに答えてくれた。手渡してくれた時に触れたリゼルの手がいつもより暖かく感じられたのは、きっと気のせいなどではないのだろう。彼女は、本当に私にことを大切にしてくれていたのだとミレアは後になって考えた。

 その晩、ベッドへ潜り枕元の明かりだけ切らずに、渡された地図を眺める。自分が知らない街。この地図の上をパパが歩いたのか。そう思い、どこかに痕跡はないものかと隅々まで目を通す。そんなものは当然見つかるはずもなく、少しして明かりを消した。



 目的地に着く頃には日は落ち、駅の人通りもまばらになっていた。初めて訪れる土地。ミレアはリゼルに貰った地図を強く握り締め、駅を出た。

 街灯が地面を白く照らしてくれる。一人で歩く知らない街。そこに刻まれてゆく自分の足跡を見ると、ひどく小さく見えて目を逸らす。

 通りのお店はすっかり明かりを落とし、空を見上げるとアメリカでは分からなかった星の輝きに思わず息を飲む。そういえば、父は星が好きな人だった。今になって思い出すなんて薄情な人間だと自己嫌悪。

 駅前の通りを抜けて脇の路地へ。道なりへ10分ほど歩き角に建てられた可愛いクマのマスコットが目印のパン屋さんを曲がった所にその家はポツンと静かにあった。地図に示されたもので間違いないか数回の確認。胸で祈りの十字架を刻みベルを数度鳴らす。

 ……暖色の柔らかな明かりがつき細いシルエットが浮かび上がる。その人影が扉をそっと開ける。年は幾つだろうか。目に刻まれた小さなものと首筋にかかるシワ。肩口で切りそろえられた明るい茶髪のストレートがそれらを払拭するように女性の年齢を隠していた。

 じっと、少し怯えたような表情のミレアに気づいたのだろう。黙ってリビングへと通してくれた。



 暖炉に火が灯る。暖かな炎の熱が椅子に腰掛けたミレアの指先を柔らかく包みこむ。

「……暖かい」

 すると、女性が奥から毛布を持ってきてくれる。名前はキャロルと言うらしい。お礼を言い、足に毛布をかけると指先を柔らかな羽毛に滑らせる。



 沈黙が続いた。外からかすかに聞こえていた人声も消え、暖炉の薪がパチッっと弾ける音以外はもう何も聞こえない。

「……ごめんなさい」

 キャロルの声はミレアの心に直接届くような、そんな優しい声だった。

「パパのこと知ってるんですか」

 問いかけに頷くキャロルの表情は、先ほどの声とは似ても似つかない悲しいもの。すっかり温まっていたミレアの指先がスッと冷えていく。そしてゆっくりと、記憶の奥深くに閉まっていたものを取り出すようにキャロルは語り始めた。ミレアの父、アルバート・スミスのことを。



 アルバートはミレアと最後に別れた翌週、カナダの街に訪れていた。スミスは出版社で働いていた。アメリカだけではなく世界に目を向けた雑誌作り。それをを掲げる出版社とあっては誰かが国外へ赴かなくてはならない。アルバートも進んで名乗り出たわけではなかったが、一人娘を育てるお金を稼ぐためにも避けては通れない道であった。

 その日は雪が例年以上に降り積もり、車を運転するアルバートの車も例に漏れずしきりにワイパーを動かしていた。視界も霞む退屈な車内。外では12時を知らせる教会の鐘が響く。だが、そんな音も豪雪と車のけたましいエンジン音がすり潰し、アルバートには聞こえない。ツマミを回しラジオをかける。聞こえてくるパーソナリティーの英語はカナダ独特の訛りの聞いたもの。静かに耳を傾ける。しばらくして、ある曲が流れ始める。John Mayerで『Daughters』。この曲は、父親の在り方とそこから娘達が何を学び生きていくかについて歌ったもの。自然とハンドルを握る指先でリズムを刻む。バックミラーを覗くと、後部座席に置かれた緑色の包装に赤いリボンをつけた小柄な箱が目に映る。

「……あぁ、早く会いたい」

 それが、アルバートの最後の言葉となった。



 キャロルはその日、市の郵便局へと急いでいた。降り積もる豪雪はキャロルの足を搦め捕り、中々前へ進むことを許してはくれない。着込んできた上着やダウンジャケットも小馬鹿にするような冷気に唇はすっかり青くなっていた。

 12時の鐘がわずかだが耳に聞こえる。キャロルはそれに気がつくと一層足を早める。彼女の背負うリュックには茶色い大きな保存袋が入っている。中身は小説の原稿。キャロルは今年で27歳となる。夢を追うのにも潮時がある。次の投稿を最後に入選しなければ、きっぱりと諦め安定した職につくと昨晩故郷の母と電話をした。今日はその締め切り。豪雪により定刻よりも早く閉まると聞いたキャロルは手短に着替えると、書き立ての原稿をしまい家を出た。

「……お願い神様」

 祈る彼女の視界に郵便局が見える。そして、そこまで来たことで自分が往来の中央に歩み出ていたことと、車のヘッドライトに照らされている現実に気がついた。その光の中で考えたことは、郵便局はもうすぐだったのに。『死』が迫る時、考えることは目先のことだった。

 幸運なことにキャロルは助かった。車がハンドルを切り避けてくれたおかげだ。だが、その車の主は建物に追突し……後日、息を引き取った。



 パチッ。最後の薪の炎が跳ねると、話は終わった。

 ミレアは自分の感情に驚き、顔を伏せた。父の死の事実を受け止めきれず悲しみにくれたからではない。それを聞いた自分が涙の一つも流さず、ただ無感情に時が流れることを祈っていたからだ。血の気が引いていく。まるで、今まで自分の中に秘められていた父との記憶が感情が全て虚構であったのかと突きつけられているような、深い恐怖が心を飲み込もうとしていた。なんでパパに会いに来たんだっけ、そう思ってしまった。

 ミレアの前に薄汚れ、ところどころ凹みが見られる緑色の包装紙に包まれた箱が置かれる。ようやく顔をあげたミレアは、息が止まった。キャロルがただ黙して、頭を下げていたからだ。これが許しを求めてるのだということはすぐに理解できた。キャロルの肩は小刻みに震えていた。それに気がつくと、一層自分が滑稽に思えてしまう。実の娘である自分よりも目の前で罪の許しを請う彼女の方が人間らしく、アルバート・スミスのことを思っていたのではないのかと。知らないうちに噛みしめていた唇に強く痛みが走る。

「顔をあげてください」

 ミレアに出来ることはこれだけ。もう帰ろう、そう思った。席を立ち、毛布を畳む。

「これだけは届けさせてください」

 キャロルは置かれていた緑色の箱を前へひと押しする。尋ねると、父の車に積み込まれていたものだと言う。きっと、娘への贈り物だと。 

 ミレアは早く立ち去りたい気持ちを抑え、箱を開ける。


 ーー涙が、頬を流れた。


 自身の心を超え、体が言葉や気持ちを語りだすことが人にはある。ミレアにとっては今この瞬間だった。箱の中身は時計。一言だけメッセージが添えられていた。


『お誕生日おめでとう、愛しのミレア』


 とめどなく涙が溢れ出す。感情がようやく体へ追いつく。

「ーーパパ、パパ、パパ、パパ」

 ミレアはただ、パパに会いたかった。不安だった。捨てられたんじゃないのかと。嫌われたんじゃないのかと。答えが欲しかった。だから、一人で遠い見知らぬこの家までやって来た。答えはあった。


 ーーミレアは、ただ父親からの愛が欲しかった。






 ゆっくりと深い、深い暗闇へ落ちてゆく。

 もう水面から差し込む光さえも何も見えない。

 ミレアに絶望はない。在るのは、深い感謝と父への愛だけ。

 父から愛を貰ってから、長い長い時を生きた。もう思い残すことはない。ようやく父の元へ行ける。

 9歳の冬に願った望みがようやく叶えられそうだ。



 『……パパ、時計ありがとう』



 ヒビ割れた時計とともに、ミレアは静かな眠りにつく。



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[良い点] John Mayerを出すところ。 [一言]  朝露です。投稿お疲れ様です。  今回の作品はとても三人称らしい作品だと感じました。具体性も強く想像しやすい文章でした。  今回は回想の場面が…
[良い点] 答えが出て、変わらない思いを改めて認識してー後を、追う。外から見たら悲しい出来事なそれも、きっと主人公にとっては、幸福に包まれての終わりだったのだと思う。 [気になる点] 外国人設定などを…
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