お皿の位置がわからない
窓の外に、朝の光に照らされたなだらかな丘が広がっている。
柔らかい織物を広げたように丘全体がピンク色に染まっているのは、メルヘンドロップが満開を迎えているからだ。
「雨が降らなくてよかった」
グリは声に出してつぶやいた。
今日はディアスが都に帰る日で、それは同時に夢のような日々とグリの初恋が終わる日を意味していた。冷たい雨があの人を濡らすと困るから、せめてまぶしい光の中で送り出せますように。こう願うグリの心が天に通じたかのような、ぴかぴかの朝だった。
グリは丘に広がるピンク色の花々をいとおしそうに見つめると、洗面台に向かった。顔を洗って着替えを済ませ、髪にブラシをかける。灰緑色のふんわりしたリボンに手を伸ばして、その手触りを楽しんだ。少し悩んだが、そのままそっとテーブルの上に戻した。それを身に着けていると、未練がましい娘のように思われる気がしたからだ。
私は田舎娘で、彼は貴族。住む世界が違う。こう自分に言い聞かせると、グリは部屋を出た。
「おはようございます!」
寂しさを悟られないようにいつもより元気な声を意識してにディアスの部屋に朝食を運ぶと、部屋の中はさっぱりと片付いていた。いつもサイドテーブルに置かれていた数冊の本や万年筆も、今は姿が見えない。
ディアスはベッドに腰掛けて窓の外を眺めていたが、グリを振り返ると微笑んだ。
「おはよう、グリ」
いつか帰ってしまうのだから、少しでも初恋の人を目に焼き付けておこう。こう心に決めて、どんなに恥ずかしくても毎朝この時間だけはディアスをまっすぐ見て返事をしようと決めていた。でも、今日はどうしてもできなかった。これで最後なのに。
「気持ちのいい朝ですね。雨が降らなくて良かったです」
テーブルにスープをこぼさないように注意しているふりをして目をそらすと、視界の隅でディアスがこちらに歩いてくるのがわかった。ディアスの振る舞いをつとめて気にしないようにして、グリは細心の注意を払ってテーブルの上に料理を並べた。胸の鼓動がうるさいとさえ感じる。料理を並べる行為に全神経を集中していないと、わけもなくこの場から逃げ出そうとする自分を抑えられそうになかった。
全ての料理をこぼすことなく置き終わり、グリは心から安堵した。そのタイミングを見計らったかのように、ディアスが口を開いた。
「リボンはどうしたの?」
「ひゃっ!あ……部屋に置き忘れたのかな……です」
さっきまで食事を載せていたトレーを胸の前にかかえてディアスを見ると、少し不機嫌な表情をしていたので驚いた。
「僕が結んであげるから持っておいで」
グリは目をしばたいた。
「いえ、あ、でも、お食事が冷めてしまいますから」
「いいから持っておいで」
有無を言わせぬ、ある意味貴族らしい物言いを意外に思いつつグリは素直に従うことにした。ぺこりと一礼して、部屋を出る。
「まったくあの子は」
一人残されたディアスは、困ったような笑顔をしてテーブルを見た。
パンとスープの位置が逆だった。
リボンを手に戻ってきたグリをディアスは椅子に座らせた。さらりと結び目が解かれ、束ねなおされていく。うなじの産毛がくすぐったくてそわそわするのを感じる。
おとなしくリボンを結んでもらいながらグリは勇気を出して切り出した。顔が見えないから、話しかけるのも少し気が楽だった。
「ディアス様。立たれる前にもし時間があれば、メルヘンドロップを見に行きませんか」
「メルヘンドロップ?」
「あの丘に咲いているピンク色の花、このへんではメルヘンドロップって呼ぶんです。すごく綺麗な場所があるので、よかったら、ぜひ」
一緒に花を見ようと誘われて男性が喜ぶのか不安だったが、ディアスの声は思いのほかうれしそうだった。
「グリが連れて行ってくれるなら見たいな」
グリはぱっと笑顔になった。ディアスが後ろに立っていて良かった。もし顔を見られていたら、青くなったり赤くなったり落ち着きの無い娘だと呆れられていただろうなと思う。
「では、お時間あるときに声をかけてくださいね」
リボンを結んでもらったグリは元気に椅子を立つと、くるりと回って見せた。
「うん。よく似合ってる」
まぶしいものを見るような笑顔を向けられて、グリは我に返った。なんで私いま回っちゃったんだろう。恥ずかしい。
「では、失礼します」
うつむいて赤くなった顔を隠しつつ、部屋を後にした。
ドアを閉めたとたんに、寂しさがこみ上げてきた。うれしくなったり悲しくなったり、感情の変化が忙しすぎて目が回りそうだ。さっきまで舞い上がっていた自分がばかみたいに思えてくる。
グリはため息をついて目をつむった。
ディアス様が帰ってしまったら、この気持ちもきっとなくなる。いつもみたいな、ちょっとうっかり者の自分に戻るだけだ。
まぶたの裏に、ピンク色の可憐な花が思い出される。
――メルヘンドロップ、私の恋を、どうかきれいに忘れさせてください
グリにはこう願うことしか出来なかった。




