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見られたかもしれない白いアレ

 グリは椅子に腰掛けていた。


 まるで大きな物差しが背中にくくりつけられたように、背筋をピンと伸ばしている。

両手は膝の上に置いているけど、テーブルの下に隠れて見えないのをいいことに、親指を握ったり緩めたり落ち着かない。


 そして、なるべく首を動かさないように、大きな目をくるりと動かしてあたりを見回した。


 目に入るのは、ペンション『草原の丘』の見慣れた調度品たちだ。

窓際で暖かな日差しを受けているベッド、使い込まれて飴色に光る飾り棚。

 壁にかかったおかみさんお手製のタペストリーは、どの客室よりも細かい刺繍で飾られている。前におかみさんが、この部屋は一番広くて上等な客室だから特に気に入ったものを選んだの、と話してくれた。


 タペストリーを穴があくほど見つめた後、目の前のテーブルに目を戻した。

 見慣れたティーカップに注がれているのは飲み慣れた野草茶ではなく、薫り高い紅茶。その向こうには、ベリーや杏のジャムが宝石のようにキラキラ輝く焼き菓子。ほんのり甘いお酒の香りがする、ドライフルーツがたっぷり入ったケーキ。ナッツを絡めた一口サイズのチョコレートもある。

 

 夢のようなお菓子の向こう側には同じ紅茶が注がれたカップがあって、その主はニコニコしながらこちらを見つめている。


 ――昨日、階段から転がり落ちた後。

 童話の中のお姫様のように都合よく失神することができなかったグリは、瞬時に立ち上がるとすごい勢いで貴族様に非礼を詫びた。恥ずかしくて消えてしまいたくて、顔なんて見ている暇が無かった。

 そして心配するおかみさんに、

「大丈夫です!怪我はないです!」

と連呼しながら『草原の丘』の玄関を出ると、一目散に走って家路に着いた。正直に言うとおしりが痛かったけど、そんな些細なことはこの際どうでもよかった。


 父も母も息を上げて帰宅したグリに驚いていたが、お客さんの前で階段から落ちたので恥ずかしくて走って帰ってきたと正直に言うと、納得した様子だった。納得されてしまうのが悲しかった。

 おかみさんを助けるために数日泊りがけで働きたいというと、二人とも応援してくれたので安心した。


 ベッドに入っても、いきなり階段から落ちて走って飛び出す、という自分の失態が何度も再生されて眠れなかった。それだけではなく、貴族様のふんわりした黒髪や、品の良いたたずまいなんかも脳裏に焼きついて離れなかった。

 ――目が合ったとき、笑いかけてくれたな。

貴族様にとってそんなことは深い意味なんてないことはわかっている。でも、あの美しい男性が自分のような田舎娘に笑顔を向けてくれたことがとてもうれしかった。

 ――落ちたときに、パンツが見えてたらどうしよう。


 貴族様の優しい笑顔、ズキリと痛むおしり、見られたかもしれないパンツ。

 代わる代わる襲ってくる言いようの無い感情がこそばゆく、グリは枕に顔をうずめて足をばたばたすることしかできなかった。


 いつの間にか眠ったらしく、まぶしい朝を迎えた。

 数日分の着替えや洗面用具が詰まったかばんを持って『草原の丘』に向かうと、なだらかな斜面にはグリの膝ほどの高さに白いつぼみをつけた細い茎が、涼しい風にそよそよと揺れていた。

 

「わ、メルヘンドロップがもう咲いてる」

 グリはピンク色に色づいた花を見つけると、そっと茎から摘みとった。花の根元に唇を当てると、甘い蜜がこぼれてくる。

「甘いなぁ」

 花を唇に挟んだまま、グリは今年初めてのメルヘンドロップをうっとりと味わった。

メルヘンドロップは不思議な植物で、つぼみや咲き始めの花は白色だが、花の付け根の蜜が熟すにつれてだんだんとピンク色に変わっていく。花をあまり傷つけないように、毎朝ひとつだけメルヘンドロップの蜜を味わうのがグリにとってひそかな楽しみだった。

 

 ―そういえば、メルヘンドロップの蜜をなめると恋が叶うんだっけ。

そんなことを思い出して、グリは赤面した。昨晩あれほど、深い意味なんてないと考えようとした優しい笑顔がまた脳裏に戻ってくる。

 今までおいしいおやつとしか思っていなかったメルヘンドロップが急に恋の妙薬のように感じられ、なんだか自分がうしろめたいことをしているような気持ちになった。

 慌ててピンク色の花を口から離してそっと地面に置くと、グリはぺちぺちと両手で自分の頬をたたいて気合を入れ直し歩き始めた。


アーチをくぐると、おかみさんは朝食の配膳を済ませて庭木の水やりをしていた。

 「おはようございます。昨日はすみませんでした。…その、お客様の前でそそっかしい失敗をしてしまって」

 「あらおはようグリ。いいんだよ、今日もう一回きちんとご挨拶しておいで。それより本当に怪我はないのかい?あんな勢いで飛び出していったから、私もディアス様もぽかんとしちゃったよ」

 おかみさんは今思い出してもおかしい、といった様子で笑った。グリもつられて笑顔になる。

 「ちょっとおしりが痛いんですけど、大丈夫です。貴族様のお名前はディアス様、というのですね」

 

 階段下の物置の隅にかばんを降ろすと、スカートのすそに枯れ草なんかがついていないか確認しつつ、ぱんぱんとはたいてみた。以前どこかの客室に置いてあったのか、埃をかぶった鏡があったので目をやった。

 癖のないこげ茶色の髪は邪魔にならないように一つにまとめているものの、そろそろ切らなければ面倒な長さだった。濃いグレーがかった緑色の瞳は、薄暗い物置の中ではほとんど色彩を持っていない。

 客観的に言ってしまえば、華が無かった。

「…うん。知ってる」

 グリはややうんざりした調子で鏡を見るのをやめると、物置を出た。


 自分の容姿がどうであろうと、階段から転がり落ちた娘であることには変わりない。まずは気を取り直して、貴族様改め、ディアス様にきちんとご挨拶しなければ。

 グリは深呼吸すると、勇気を出して客室のドアをノックしたのだった。




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