階段のおり方がわからない
「シーツは洗い立てだし、布団もふかふかに干したし、窓も手すりも磨き上げたわ。これで完璧!」
丁寧に使われているが決して新しくはない部屋の備品たちを少しでも見栄え良くしようと、グリは一日奮闘した。日差しの暖かい時間は過ぎ、オレンジ色の夕暮れが部屋の中に満ちようとしている。
そろそろ貴族様が到着する頃だろうか。冷え始める前に窓を閉めておこうとしたグリはモッコウバラのアーチをくぐる見慣れない影を見つけ、あわてて階下に向かった。
階段の踊り場からそっとホールを伺うと、長身の若者が一人で入ってきたところだった。
話の内容はよく聞こえないが、おかみさんが対応しているのがわかる。
「あれが貴族様かな」
思っていたよりいい人そう、というのがグリの正直な感想だった。声の調子から威圧感は感じられないし、穏やかな笑顔が見える。おかみさんの後姿も、心配していたほどの緊張は感じられない。
「――きれいな人」
男の人を綺麗だと思ったのは初めてだった。生まれて初めて見る貴族様は、なんというか、美しかった。
石炭のようなツヤのある黒髪は、少しクセがあるのかふんわりとしている。仕立ての良いシャツをさらっと着こなしているのは、日ごろから着慣れているからだろう。腕にかけられた上着も田舎町にふさわしい地味な色目のもので、貴族といえばいばりんぼで目立ちたがり、というグリのイメージはあっさりと覆された。
「…何かわからないことがあれば聞いてくださいね。あと、身の回りのお世話をする娘がいますから、紹介しておかなくちゃ。あら、あの子まだ掃除してるのかしら。グリ、降りておいで!」
「は、はい、ただいま!」
突然自分の名前を呼ばれて、ぽうっと見とれていたグリはあわてて返事をした。
田舎娘なのは事実だから仕方ないけれど、こっそり盗み見するようなはしたない娘だとは思われたくなかった。
いかにも今2階から降りてきた、といった体を取り繕って、急いで踊り場から出ようとした瞬間。
目が合った。
突然勢いよく踊り場から出てきたグリを見て、貴族様は驚いたようにぱちり、と瞬きした。
そして、笑った。
その笑顔があまりにも優しかったので、グリは頭が真っ白になってしまった。顔が熱くほてっていくのがわかる。
『階段ってどうやって下りるんだっけ?』
頭のどこかで冷静な自分が問いかけたけど、もう遅かった。
グリは盛大に足を踏み外した。
世界がスローモーションになってひっくり返り、おかみさんの悲鳴と、革靴の足音が駆け寄ってくる音が聞こえた。