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ありがとう、と言えなくても……  作者: デルタミル
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最終幕 -生きてさえいれば……-

 ――そして二十三時を回った頃。


 巡回看護師による病室の見回りが終わった後、あたしは自分の寝ていたベッドからゆっくりと身体を起こす。

 ひんやりとした空気が背筋をぞくっとさせる。少し緊張してるみたいだ。

 周りは薄気味悪いくらいに静かで自分の息遣いが大きく聞こえる。




 あたしはベッドから出て棚の扉を開けると、ポーチを手に取った。

 でも、別に必要なものはここには入ってないし……スマホとか持って行って、音が鳴り出したら大変だしな……

 そう思ったあたしは手に取ったポーチを棚の中に戻した。


 ――どうせもう使うことないし、置いて行っても問題ないか。


 そう考えて廊下に出ようとして一度立ち止まって、もう一度自分のベッドへ戻った。

 あたしは出る前に一工夫しておくことにした。


 まず、病衣を掛け布団の上に分かりやすく置いといて、さっきのポーチはベッドの下に隠した。

 これならヤツに『あたしが逃げた』と思い込ませて、廊下に注意を引きつけることができる。

 その隙に、おねーさんとモチヅキにここから脱出してもらおうっていう考えだった。

 あたしは……脱出する前に『隔離病棟』の中を確かめておかなくちゃいけない。本来の目的はそれだったからね。


 


 ――あたしは廊下に顔を出して、巡回看護師がいないか確認をして病室から出た。

 足音に細心の注意を払いつつ、暗い廊下を歩いていく。


 時々後ろを振り返りながら追手が来ないか確認しておく。

 まずは自分の身を隠す場所を見つけないといけない……


 どこに隠れたらいいんだろう?

 病室? いや、あそこだと他の患者が巻き添えになっちゃうな……じゃあ空き病室? うーん、いずれ見つかるよな……

 とりあえずトイレにでも隠れておこう。あいつが走り回っている隙に、隔離病棟を確認しようという算段だった。

 多分、真夜中に聴いたあの重たい音は、『赤い扉』の音だと思うし……もし扉が開いてたらそこに忍び込もう。


 そう思って、あたしは東病棟の女子トイレの個室に隠れこんだ。




 トイレは誰も居ない時も電気が点いてるから、真っ暗な廊下の中でも分かりやすくて助かる分、ヤツに見つかる可能性も大きかった。

 ずっと隠れてるわけじゃないし、きっと大丈夫……


 そう思って、しばらく便座に座って籠っていると――――




 キィー……! ガシャンッ! 




 左斜め後ろから何か扉が開く音と閉まる音が聴こえてきた!




 タッタッタッタッタ……!!




 ――それと聞こえてきた、あの足音が……!!

 その足音はあたしのすぐ背後を通り抜けて、右へと消えて行った……

 多分、西病棟側へ走っていったんだと思う。

 よし、今だったらあの『隔離病棟』に行けるかも!


 そう思って立ち上がろうとした時――




 ――タタタタタタタッ!!


 さっきとは違った物凄い足音が、こっちに向かってきた!


「ひっ――」

 

 あたしは漏れ出る悲鳴を何とか両手で押さえ、便座の上で縮こまった。




 心臓がバクバク鳴り出してうるさい。このままだとヤツに見つかっちゃう!

 いっそのこと止まってくれればいいのに!

 あぁ、でも心臓が止まったら死ぬじゃん! バカじゃないのあたしは!?

 こんな時にモチヅキがいてくれたら…………!


 でもおねーさんもモチヅキも、隙を見て逃げ出した頃だと思うし…………


 くそ、どうすりゃいいんだよ! あたし難しい事考えるの苦手だってば!

 落ち着いて考えても分かんないよっ! モチヅキ……助けてよ…………!


 そっか……そうだよね…………結局あたし、また一人になるんだ…………

 ダチなんか作っても、またいなくなるんだね……


 あたしは両手で顔を覆うようにして、『どうかその足音がこのトイレにやってきませんように』と強く願った。



 …………ん? そういえば『その足音』はどこに行った?




 顔を覆う両手を下ろして、周囲に耳を澄ませてみる。




 しまった、現実逃避をしてたせいで足音を追うのを忘れてた……!




 …………あれ、おかしいな。何でこんなに背筋がぞっとするんだろう?




「…………」


 あたしはもう一つの異変に気が付いた。

 それは、あたしの足元に"変な影"が出来てることだった。

 自分の影と重なるようにして、もう一人分の影がそこにあった。まるで"誰かに見降ろされてるような"…………

 まさか、とは思って天井に顔を向けてみると――――











「――――ひひっ?」




 ――目と目が合った。

 トイレのドアと天井の間から誰かが顔を覗かせていた。白髪混じりの黒の短髪で、ギョロっとした目……

 その正体に気付いた時、『そいつ』の顔が急接近してきた――――











 ――頭に衝撃。


 耳鳴りのようなキーンという音と共に、視界が霞んだ。

 ドンッ! という音と共に、あたしの身体は引きずられていく。


 どこに連れていかれるのか分からなかったけど、どうせなら『隔離病棟』だったら目的も果たせて一石二鳥なのになぁって思いながら、流れに身を任せた……






 ずるずるずるずる…………


 コンクリートと衣服との摩擦音が聴こえる。少しずつだけど、耳鳴りも収まって視界がはっきりしてきた。

 あたしは仰向けにされたまま、右手は後ろに強く引っ張られ、廊下を引きずり回されてるみたいだった。

 声を出そうとしたけど、なんか口に貼られてるみたいで声が出なかった。

 真後ろからはすたすたと廊下を歩く足音が聴こえるだけで、あたしを襲ったやつの姿を確認することはできそうになかった。

 せめて今、自分がどこにいるのかを確かめようと何とか病室の部屋番号を確認しようとしたけど、暗くてよく見えない。




 やがてどこかの病室に連れ込まれた。窓のカーテンが開けられてたのか、そこから月の光が差し込んできて、病室の中が良く見えた。

 空き病室なのか患者はいなかった。ベッドすら置かれてなさそうだった。


「……?」


 なんか丸い物を掴まされて右手を縛られる。

 顔だけを右手に向けてみると、介護用のポールを掴まされてて、それは床と天井にしっかりくっついてて、力を入れてもびくともしなかった。そして解けないようになにかロープのようなもので右手とポールをぐるぐる巻きにして縛られてた。


「んーっ! んーっ!!」


 あたしは起き上がりながら、唸り声を上げて何とかもがこうとしたけどダメだった。


 そしてようやく…………『ヤツ』があたしの前に立った。




「ひひっ……! 無駄だってば…………無駄無駄…………無駄なの…………分かる……? 分かるよね……?」


 さっきあたしを襲った短髪の女…………このギョロっとした目は忘れもしない。まったく似合ってない看護師の衣装を纏って、あたしの前でしゃがみ込む。

 あたしはふぅふぅと鼻息を荒げ、そのギョロっとした目を睨みつける。


「なにその目……?」


 ゴンッ!!


「ぐふっ……!? んぐっ……ん……!!」


 顔面に鈍い痛み。

 女はあたしの顔を蹴った。


「なに? 文句あるなら聞いてあげよっかー? あ……お口が開かないから喋れないかぁあ?」


 女はあたしの顔をぺちぺちと叩きながらあざ笑う。


「ほらほらー、なんか言ってよー?」


 ぺちぺちぺちぺち……


 いらついたあたしは、まだ自由の利く足で女の顔を蹴り返してやった。


 ゴンッ!!


「いだぁあいっ!?」


 女は鼻を押さえながら後ずさった。


「こんの…………くそがきがぁああっ!!」


 ――女は錯乱してあたしの顔や腹を何度も蹴った。


「ごほっ……! ごほっ……んっ……!」

「きぃいいいっ!!!」


 頭……顔……腹……顔……足……顔……頭……頭……腹……


「いいいぃいっ!! ひいいっ!!」


 女は奇声を上げながら延々とあたしに暴行をふるい続けた。殴られて、蹴られて……痛みで意識が遠のいていきそうになった時、女は再びあたしの髪を乱暴に掴み上げ、その汚らしい顔を近づけてきた。


「はぁ……っ、はぁ……っ、クソガキにはちゃんと躾をしないといけないの……はぁ……はぁ……」


 女の吐息が顔中にかかって、あたしは嫌そうな目をしてやる。


「なに? また文句?」

「んふっ……ふふっ…………!」


 あたしは鼻で笑ってやる。


「ちっ」


 女は舌打ちをすると、あたしの口に貼ってあった何かを乱暴に引きはがした。


「――なんで笑ったの?」

「……えぇ……? そりゃ決まってんじゃん…………おまえの息、凄くくっさいなーって……ははっ……はっはっはっはっは…………!」

「なっ……?!」


 女は酷く慌てた様子で自分の口を押さえ込んだ。


「わかりやすくてマジでうけるんですけど……ぷぷっ……」


 女は再びあたしの髪を乱暴に掴むと、「あんたが大事にしてるもの……今から壊しに行くから……そこでだらしなく寝転んで待っててね?」と言って凄い速度で病室から出て行った。

 向かった先は多分、六〇六号室だ。


 あの女が暴れまわってる隙に二人は逃げてると思うけど……心配だ。

 もし、すでに捕まってたとしたら…………




「……くっ……!」


 あたしは、左手を後ろに回して、パンツの右ポケットに忍ばせた『例の物』を取り出そうとした。

 奥に入れ込んでたせいで取り出すのになかなか苦労したけど、やっと取り出せた。


 そう、あの斉藤って人から護身用として受け取ったあの『小さなペンカッター』だ。

 まさかこんな場面で役に立つとか、マジで笑えない。




 さてどうしよう? 利き手とは反対側の手でロープを切らなくちゃいけない。あまり悠長に構えてられないけど……


「くそ……!」


 あたしは悪態をつきながら左手を上下へ小刻みに動かし、ロープに切れ目を入れていく。


「――よし……!」


 でもロープは複雑に絡み合ってて、一部に切れ目を入れた程度じゃ解けなかった。


「ああもう……!」


 悪戦苦闘して何とかロープを引きちぎってやった。

 急いで立ち上がろうとして――


「いっ……!?」


 ――今度は思い出したように全身が痛んだ。

 特に蹴られた腹が痛む。


「はぁ……はぁ……! くっ……!」


 あたしは腹を押さえつつ、何とか起き上がる。


「……これ……どうしよう……」


 ――まだ左手に握られたままのペンカッター。これであいつを殺すこともできる……






 でもあたしはすぐ後ろにあった窓を開けて、持っていたペンカッターを外に放り投げた。




 やっぱり、殺したら本当に終わりだと思うし…………そうなったらおねーさんたちとも二度と会えなくなるような気がしたから……




「おねーさん……モチヅキ……!」


 あたしは病室の外へ飛び出して、なるべく足音を立てないように気を付けつつ夜の廊下を走った。

 そして連絡通路を通り抜けて、突き当りに見えてるスタッフステーションに駆け込んで、とりあえず助けを呼ぼうとした。



「あっ……」


 でも、中を見てみるとスタッフが倒れてた。

 多分死んでないと思う。もし殺してたら、さすがに警察も動き出しちゃうだろうし。


 あたしはそのままスタッフステーションの突き当りを右に曲がり、自分の病室前へとゆっくりと歩いていく。

 ――自分の病室前で立ち止まる。病室の中は暗いままだ。

 あたしは片手だけを病室の中に入れて、手探りで電気のスイッチを探す。確か、入口のすぐ近くにあったはずなんだけど…………


 やがてスイッチに手が触れた。

 あたしは軽く深呼吸して、そのスイッチを押して中に入り込んだ――






 ――眩しい光に目が眩みつつ部屋の中を見回したけど、ヤツはいなかった。その代わりに誰かの脚が、モチヅキのベッドとあたしのベッドの間からはみ出しているのが見えた。

 あたしはその正体を確かめようとして、恐る恐る近づいて行く。




「モチヅキ…………?!」

「うっ……うぅ……」


 ――はみ出した脚の正体はモチヅキだった。彼は右手で腹を押さえながら床に座り込んでた。あたしは声を潜めながら話しかける。


「腹が痛いの……?! 大丈夫……?!」

「さっき…………女が入り込んできて…………シライシさんを…………っ!」


 モチヅキは顔をしかめながら、おねーさんが寝ていたベッドを指さす。


「まさか……!?」


 カーテンは開かれていて、ベッドの上には誰もいない。


「連れて行かれたの……?!」

「あぁ…………『隔離病棟』で…………バラバラにしてやる……って…………」

「マジ……?!」

「早く…………シライシさんを…………! ぐっ……」

「で、でもモチヅキは……!?」

「僕のことは……いいから…………くっ…………」


 モチヅキは腹を押さえながら、必死におねーさんを助けに行かせようとする。




 あたしは渋々立ち上がって、入口の方に歩いていく。






 ――廊下へ一歩踏み出そうとして、背を向けたまま、モチヅキに声をかける。






「――ねぇモチヅキ? 『陰キャ』って知ってる?」

「…………なんの…………ことだよ……?! 早く…………早くシライシさんを…………っ!」


 少し遠くからモチヅキの切羽詰まった声が聞こえてくる。


「"知ってる"よね? だってあの時、意味を聞いて否定してたもんね?」


 あたしはそう言いながらモチヅキへ振り返る。

 ちょうどモチヅキが身体を起こして、腹を押さえながらこっちを覗き込んでいるところだった。



「――あたしが出て行った後、殺すんでしょ? 多分、どっかのベッドの下で身動きが取れなくなってるおねーさんを……さ?」


「――――っ!」


 あたしが駆け出すのと、前方から丸椅子が飛んで来たのはほぼ同時だった。


「くっ!?」


 あたしは痛む両手で丸椅子をガードした。そのせいで一瞬視界が奪われてしまった。

 次に視界が開けた時、正面でおねーさんがヤツに羽交い絞めにされている光景が目に飛び込んできた。


 意識が朦朧としてるのか、シライシさんはふらりふらりとしながら無理やり立たされてる。


「おねーさんっ!!」


 その呼び声に反応するようにして、おねーさんは意識を取り戻す。

 自分が今置かれてる状況を理解したのか、おねーさんの表情が恐怖の色に変わる。


「ま……まりなちゃんっ!!」

「おねーさんっ!!」


 おねーさんは涙目になりながら、必死にもがこうとする。

 そしておねーさんの喉元に何か刃物のようなが押し当てられた。あれは……メスか?!



「ひひっ……ひひひっ……?!」


 モチヅキの姿をしたそいつはおねーさんのすぐ背後から不気味な笑い声を上げながら、メスを握る手でカツラを投げ捨てる。やっぱり変装だったんだ。



「マジでクズだよ……おまえ」


 あたしはおねーさんの背後にいるクズを睨みつける。


「あたしが変装してたってどうやって気づいた? 結構演技上手くなかった?」

「うん……上手かったよ。でもさ……なんかおかしーなって」

「おかしい……? 何が……?!」

「だって、仮におねーさんが『隔離病棟』に連れて行かれたんだとしたら、あの扉の音がしないとおかしいし……それに、人を引きずるのって結構大変だから、こんな早くに運び出せるとは思えないんだよね」

「はぁ……??」

「あと…………"引きずる音なんてまったく聞こえなかった"しさ。だから、おまえはまだその辺にいるか、この病室にいるって思ったのね」

「ふぅん……?」

「あとさ……おまえ、モチヅキのことなんにも知らないでしょ? あいつさ、メチャクチャ頭いいんだよね。だからおまえみたいなクズにやられるなんてこと、まずないわけ!」

「ぐぎぎ……ぎぎ……!」

「だからさ……この病室にいたモチヅキは偽者だなって思ったわけ…………そんな偽者がさ、あたしに『隔離病棟』ーって言ってくる訳じゃん? 『あー、こいつはあたしに一刻も早く隔離病棟に行かせたいんだなー』って。『あたしが病室から離れた隙におねーさんを殺すつもりなんだなー』って思ったわけ!」


 そう告げてやると、女は歯ぎしりをしながらあたしを睨みつけてきた。




「くそが……くそがくそがくそがぁっ!! あたしは間違ってない! 悪いのは全部あんたらだ! ふひひ……! 間違ってない……間違ってないの……!!」

「おまえに山ほど聞きたいことがあるからさ……ちゃんと答えてよね……?」

「ふひひ……ひひひ…………!」

「この病院にいる患者を殺してたのってさ……おまえだったの?」

「ひひひ……! だってそうしろって言われたもん……! それが役目だって言われたもん……! だからあたしは正しいのですっ!」


 ヤツはまったく悪びれることもなくそう答えた。きたならしい顔をしてキモい声を出しながら、まるで麻薬中毒者のように笑う。

 まぁ、予想通りの答えだったけど、あたしは続ける。




「里緒菜と杏奈を殺ったのも…………おまえ?」

「ふひっ……?」


 ――正直、これがあたしの一番知りたいことでもあった。

 こいつの口からその真相を直接聞きたかった。

 おねーさんは会話の流れについていけないのか、涙を流しつつ黙ってた。



「里緒菜……知ってるよね? 最近、あたしと同じ女子高生でボブカットの女の子が入院してきたよね。五〇一号室にさ」

「ふひ…………あー…………頭怪我した子? いたねーそんな子ー!!」

「里緒菜を…………どうしたわけ?」

「うん、夜中にねー? ぐっすり寝てる間にねー? 頭を壁に叩きつけてやったのーっ! あんだけぶつけてあげたのに目を覚まさないんだからねー! びっくりしちゃったぁー!」

「てめ……っ!?」


 その光景がダイレクトに浮かんできて、ぽろりと涙が出てしまった。あたしは声を詰まらせながら次の質問をした。


「杏奈は……杏奈もおまえなの…………?!」

「杏奈ぁ? ……あーっ、もしかしてあのぽちゃこー?! いやー、なかなか苦労しましたよせんぱい! ひひっ! だってだってー! 隔離病棟の地下通路から地上に出てぇ、そっからあのぽちゃこを捜さないといけなくてぇ……! めんどくさかったんだけどぉー! でも案外ちょろかったよ? だってあの子、いつも夜遊びしてるんだもんねー! 捜すのに時間かからなかったよー!?」


「地下通路……ってなに?」

「――あっ」


 女はしまった、と言わんばかりの顔をして、「ひゃはは!」と笑った。


「それで……? 杏奈を…………どうしたの?!」

「あーいっ! あたしがやりましたーっ! 正面からメスでいろんな所をめった刺しにしてやったのね、でもさぁ、なっかなか死なない! 掴みかかろうとしてきた! あーいらいらするっ!! だがあたしは刺し続けた!! 血まみれになってもあいつ、動いた!! だから刺し続けた!! ぶっすぶっすぶっすぶっす!! ひひっ、ひひひ……!」

「酷い…………」


 おねーさんは涙をぼろぼろ流しながら、女を睨みつけようとした。




「よくも…………よくもぉ……!!」


 あたしは拳を震わせ、涙を流しながら憎悪をむき出しにする。


 里緒菜…………また遊ぼって約束したのにね…………こんなクズのせいで…………まさか寝たまま死ぬことになるなんて思わなかったよね…………

 杏奈…………痛かったでしょ……何度も何度も刺されてさ……それでも必死に食らいつこうとしたんだよね…………『いつか世界一美味しいスイーツを食べたい』って言ってたのに……そんな夢も、こんなクズのせいで台無しにされるだなんて、思わなかったよね…………




「この……クズ…………!」


 あたしは絞り出すようにして、その言葉を投げかけた。

 真っ黒な感情に支配されて、ただあいつをどうやって殺そうか、そればかり考えていた。



「ふひっ! ひっひっひひい!!」

「まりなちゃん……まりなちゃん……!!」


 おねーさん…………


『だめ…………!』


 ――そんな言葉が聴こえたような気がした。

 でも、おねーさんは泣きながらあたしを呼んでるだけだ。


「『まりなちゃん』……だってさ! ぶふっ! ただの赤の他人でしょー?! 後ろ振り向いたら刺してくるかもしれないやつをなんでそこまで信じられるのぉお?! ちょっとおねーちゃんに教えて♪」


 おねーさんは、落ち着いた表情でヤツに顔を向ける。


「あんたなんかに…………絶対に分からないよ」


 落ち着いた声でそう言い放った。


「はぁ?」

「たとえ赤の他人でもね……家族以上の信頼を築けることだってあるの…………あんたにはそれが分からないんだ……可哀そうにね」

「なによ、あたしのことバカにしてんの? あるわけないでしょーそんなこと!」

「――『愛情』だよ」

「――っ!?」


 おねーさんの言い放った『愛情』という言葉に、ヤツは大きく反応した。


「私ね……まりなちゃんのこと……大好き。まるで妹みたいで可愛いもん!」

「――あっ……」


 おねーさんはあたしの顔を見て、にっこりと笑った。

 あたしも……あたしもおねーさんのこと…………!



「きぃいいいいいいいいぃいいいっ!!」


 女は突然奇声を上げて頭を抱えながら暴れだした。おねーさんを蹴り飛ばして、いきなり後ろにあった窓ガラスを片っ端からたたき割り始めた。


「きぃいいいぃいいぃいいっ!!」

「おねーさん!」


 あたしは膝をついたままのおねーさんを抱き寄せてあたしの後ろに逃がす。


「おねーさん、早く逃げて!!」

「でも……でもまりなちゃんは!?」

「いいから逃げろっつってんだろ!! お願いだから……っ!!」


 あたしは入り口側におねーさんを突き飛ばす。そしてすぐに入口から走り去る足音が聴こえた。


 よし……後はこいつとタイマンでやりあうだけだ。




「ひいいいいいっ!! あたしは間違ってないっ!! 間違ってないいいいっ!!」


 ヤツはヒステリーになって頭を掻きむしりながらこっちに振り返る。


「いいや、間違ってるよ。あんたはただの人殺し。死刑だね」


 そう告げると、ヤツは鬼の形相になる。


「なんでよぉおおっ!! それしか自由がないって言うからやったのにぃい!!」


 …………なるほどね。こいつはあくまで頼まれたからやっただけだと、そういうわけだ。


「うん、やっぱり間違ってるよ。それを身をもって思い知らせてやるから……かかって来いよこのクズが!!」

「うぁあああっ!!」


 女はメスを逆手に持って突進してきた。


「わっ!?」


 最初の振り下ろしを横に避ける――でも身体が思うように動かなくてよろめいてしまった……!


「ひひっ!!」


 追撃がくるっ! そう思って咄嗟にすぐ近くにあった来客用の丸椅子で振り下ろされたメスをガードする。


「ふひひひっ! ひっひひひ!」


 丸椅子を盾にしながら足で女の腹を蹴り飛ばす。


「ぐえっ……!?」


 女がノックバックしている間に、あたしは態勢を立て直して正面からヤツと向き合い、丸椅子を構える。

 そして女は突進をやめて様子を伺い始めた。


「なに……? あたしが丸椅子を持っただけでもう降参とか? ウケるんですけど?」

「ち……違う……!」


 もしかして、自分が不利になったと思い込んでるのか……? だったら……!


「おらぁああっ!!!」


 あたしは丸椅子を横に振り回す――


「ひひっ!!?」


 ――と見せかけて、あたしは振る角度を思いっきり下げる。

 ヤツは自分の頭を狙われたと思ったのか、しゃがむ動作をしようとして――


 ゴンッ!!


 予想通り、ヤツの頭に命中した。


「ひゃううっ!?」


 ヤツは床に倒れこみ、その拍子にメスが転がっていく。

 頭を抱えて悶え苦しむヤツを蹴り飛ばしたあたしは、すぐにメスを拾い上げて割れた窓の外へ放り投げた。



「あぁあ……! あぁああああああっ!!? あたしのメスがぁああああ!!?」


 女はあたしの横を走り抜け、窓の外を覗き込む。


「ぎいいぃいいっ!!」


 そしてすぐにこっちに振り返って憎悪のまなざしを向ける。


「え? なに? あのメスがないとなんにもできないわけ? ちょーダサいよ? おまえ」

「コロス…………コロスコロスコロスッ!!」


 女は地獄の底から蘇ってきた悪魔のような雄たけびを上げながら、こっちにゆらりゆらりと歩いてきた。




 そういえば、一回だけ里緒菜とマジで殴りあったことがあったっけ……

 お互いのどうでもいいプライドのせいで、大喧嘩になって……いきなり殴りかかってきたんだもんな……


「うぉおおおおあああっ!」


 ――女の右ストレートが飛んでくる。

 あたしはそれを右手で掴むようにして受け止めた。


「――里緒菜のパンチの方が、まだ早かったよっ!!」


 あたしは見よう見まねで、里緒菜があたしにやったのと同じことをヤツにしてやる。

 受け止めた反対側の拳で、女の肘関節めがけて上から叩きつけてやる。


「あぁああああああっ?!」


 それと同時に、受け止めた右手で押し曲げるようにした後、思いっきり腕ごと引き寄せる。


「ひっ!?」

「うぉらあああっ!!」


 ゴツンッ!!


 あたしは思いっきり女の顔面に頭突きを食らわせる。


「いだぁいいいっ!!」


 女が両手で顔を覆うようにして仰け反った隙に、腹パンをしてやる。


「ぐほぇっ!!?」


 腹を殴られたことで、前のめりになった女に追い打ちをかけるようにしてその顔面に膝蹴りを食らわせる。


「うぎぃいっ!!」


 後ろに倒れこんだ女は、あたしに背を向ける形で逃れようとする。


「なんだよ、もう降参かよ?」

「ひぃいいいっ!! ひいぃいいっ!?」


 女は窓とあたしのベッドの間に追い詰められ、棚を背にして座ったまま丸椅子を持って構える。


「ひぃいいっ! ひ……いぃい…………!」


 また変な奇声を上げやがって……そう思ったあたしは、近くに転がっていた丸椅子を拾い上げる。


「ひ……!?」


 そして大きく振りかぶり――


「うぉあああああああっ!!!」


 思いっきり女に向かって投げつけた。


 ガシャアンッ!


 丸椅子はちょうど女の頭上すれすれで棚にぶち当たった。


「ひぐっ……ひ……ひぃ……い…………!」




 女は丸椅子を被るようにして完全にあたしを拒絶した。

 手もがくがく震えて、怖いんだあたしが。あたしに勝てないと思ってるんだ。

 だったらその隙にこのまま近づいてその首を絞めて殺してやろうか――そう思ったけど、あたしにはできなかった。




 こうやって震えてるこいつのことを見てると…………ひょっとしたら、と考えてしまう。

 こいつはあたしの成れの果てだったのかもしれないって。


 自分に自信を持てなくて、誰かの目を気にして、誰かの言いなりになって……自分の存在を認めてもらいたくて……見放されることが怖くて……だから力で誰かを支配して……自分が正しい事を証明しようとして……

 いつの日か、本当に大事な物さえ忘れてしまったあの頃の自分を見てるみたいだった……




 里緒菜と杏奈を殺されてどうしようもなく憎かったけど……どうしようもないくらいに情けないと思ったけど……あたしは……






 それ以上にこいつを見放した周りを憎んだ。

 こいつは重度の精神病を患ってたんだろう。だったら何でこんな風になる前に、助けの手を差し伸べてあげなかったんだろうって……




 こいつはずっとこんなことを言ってたな。

『あたしは間違ってない』って。それからこうも言ってたな。

『それしか自由がないって言うから』って、『それが役目だ』って。


 ――ほんとはこの女だって、外で自由に生きたかったんだろう。

 平穏な日々ってやつを過ごしたかったんだろう。

 こいつは『闇社会』に拾われて取り返しのつかないことをしてしまったけど、もし違う人に拾われてたら……また違った人生になってたんだろうな……




 母さん……里緒菜……杏奈……

 あたし、こいつを殺したいのに殺せない…………




 あたしはゆっくりと女に近づき、話しかけた。


「あんた、『闇社会』が怖いんでしょ?」

「ひっ……!?」


 図星みたいだった。あたしは続ける。


「『闇社会』にこう言われたんじゃない? 『役目をまっとうできなかったら、お前に自由はない』って……」

「ひいぃい……いいい……!!」


 女はより一層がくがく震えだす。


「多分『闇社会』はあんたを消しに来ると思うよ。自分の正体を知られた上に、そいつらを取り逃がしちゃったわけだからさ……」

「うう……ひぐっ……うっ…………うぅう……!」


 女は丸椅子を強く握りしめ、泣き出してしまった。


「……あんたさ……かくれんぼって得意?」

「えっ…………かく……れんぼ…………?」


 女は丸椅子を少し横にずらして、あたしを見上げる。


「ほとぼりが冷めるまでの間、どっか見つからない場所にでも隠れておきなよ。あ、ベッドの下とかトイレとかはやめといた方が良いかもね。そういう場所ってすぐ見つかるからさ。だから普通は絶対に隠れ無さそうな場所を選んで隠れた方がいいよ」

「…………えっ……?」

「あ……そうだな……その後は誰にかくまってもらう方がいいんだろう……?」




 警察はやめといた方がいいよな……里緒菜の死にも関与してるっぽいし…………

 そうだ、あの人たちの方がよっぽど安全だろう。




「もし、『公安』って名乗る人たちが来たら、その人たちに匿ってもらいなよ。『闇社会』と戦ってる人たちらしいからさ」

「…………」


 女はあたしの言うことをちゃんと理解してるのか分からないけど、黙って聞いてた。




「…………もう二度と会うこともないと思うけど……絶対に死んじゃダメだよ? ちゃんと自分のやってきたことに責任を持ちなよ? それが…………」




 ――――それこそがきっと……




「あんたが『本当に自由になるための役目』なんじゃないの?」

「…………っ」


 女は息を詰まらせながら涙を流し、静かに頷いた。




「じゃあね……もし勝手に死んだら一生呪ってやるからな……」




 あたしは立ち上がって病室の入り口に歩いていく。あたしの後ろから聞こえてきたのは、真夜中に聴いたあの薄気味悪い笑い声じゃなく、年相応の女性の泣き声だった……










 ――不思議な気持ちだ。

 本当ならあたしは憎しみに支配されてるはずなのに……今はまったく違う感情で満たされてた。


 早く、おねーさんとモチヅキに会いたい……早くここから脱出して、外でわいわいはしゃぎたい……

 またおねーさんに頭を撫でてもらいたい……またモチヅキから知恵を分けてもらいたい……

 ありきたりだけど、そんな日常を願う感情……




 それを叶えるためには、最後の一仕事をしなくちゃいけない。それさえ果たせばあたしはやっと抜け出せる。長い悪夢を終わらせることができる。




 あたしは周囲に気を配りながら、東病棟の『赤い扉』を目指した。




 そして連絡通路を通り抜けて東病棟に入った直後――


「――っ?!」




 ――いつの間にか、コンクリートの上に押し倒されてた。


「――んっ?!」


 仰向けにされてまた口に何かを貼られた。あー、なんかさっきもこんなことあったような……

 これってまさか、また監禁されるってやつかな?


「――やれやれ……こんな小娘にしてやられるとは思ってもみませんでしたよ」


 ――暗くてよく分からないけど、少し声が高くて……若い男の声。それに、すぐ近くから何人かの足音が聴こえてくる。


「とりあえず、すぐ近くの空き病室に連れて行きなさい。この娘に話があるので」

「はっ!」

「あなたたちは、『掃除屋』を呼んで証拠隠滅の準備をしておくように。それと"あの女"を急いで探し出しなさい。絶対に逃がしてはいけません、いいですね?」

「了解っ!」

「さぁ……参りましょうか、小娘さん」




 ――両腕と両脚を持ち上げられ、宙に浮いた感覚になる。

 くそ…………また運び込まれるのか……でもこいつらは一体……?




 そして、また空き病室に連れ込まれて、ベッドの上へ仰向けにして押し付けられる。

 次に影たちがベッドの両脇にある転落防止用の柵を持ち上げた。 


 カチャッ、という金属音と共にあたしの両手に何かが嵌められた。

 そしてそのままベッドの両脇に両手を引っ張られ、またカチャッ、という音と共に固定される。 


 金属音……まさか、手錠!?

 これじゃ絶対に脱出できないじゃん!!


「脚の自由も奪っておきなさい」


 若い男の声の号令と共に、あたしの両脚にも何かが嵌められ、同じようにして、両脇に引っ張られて固定される。


「んっ?! んーーーっ!!」

「少しうるさいですね…………ご自分がどういう状況になっているのか、ちゃんと理解してもらった方が良さそうです。あなたたち、ベッドごと窓際まで移動させなさい」


 ベッドが動く……そして窓際まで直線上に移動した後、カシャンッ! という音が聴こえてきた。

 多分、キャスターが固定された音だろう。


 そして影が、あたしの頭上にある窓のカーテンを開く――



 シャァアッ!!




「――っ!」




 そいつの顔が月の光に照らされ、はっきりと浮かび上がる。


「――ふぅ……どうですか? ご自分の状況、ちゃんと理解できましたね?」


 そう言われて視線を両手、両足へ向けてみる。手錠と足枷で柵に繋がれて完全に身動きが取れない状態になってた。

 再びあたしはそいつの顔へ視線を戻す。


「私の顔に見覚えがありますね?」

「んっ……?! んんーーっ!!?」




 ――――思い出した! こいつはあの時の……っ!




 確か、母さんが病院に運び込まれた日。あたしがこの病院から出るのとすれ違いに病院の中へ入っていった、あの銀髪の男だ!!

 ってことはこいつが……!




 銀髪の男は不敵な笑みを浮かべて、あたしの左横から覗き込むようにして話しかけてきた。


「あなた、一度私とすれ違っていますよね? そう、あれはちょうど、私がこの病院にビジネスを持ちかけた日の夕方でした。この病院から金髪に染めたギャル娘が出てくるものだからとても印象に残っていてね、それで覚えてたのですよ。しかしまさか、こんな小娘に私の計画が邪魔されることになろうとは……」


 計画……?! じゃあこいつがあの女を使って患者を殺した黒幕なわけ?!


「……気になりませんか? なぜ私が"あの女にあなたのご友人を殺させたのか"?」

「――っ!! ふぅっ、ふぅっ!!」

「ほらほら、興奮なさると酸欠になっちゃいますよ? それとも……このままあなたの可愛らしい喉元にナイフを突き立てて、黙らせてあげた方がよろしいのでしょうか……? 永遠にね……くくっ、くっくくく……!」


 とりあえず落ち着こう……このまま殺されたら聞きたいことも聞けなくなる。


「いいですね……その従順さ、そしてあなたの『行動力』と『勇気』……是非とも私たちに分けてほしいものですね……」


 誰が……おまえらみたいなゲス野郎なんかに……!


「さて、話を戻しましょう。なぜ"ご友人を殺させたのか"? 順番に教えてあげますよ。せっかくここまでたどり着かれたのですから、それくらいの報酬はご用意しないとね。まず苗木里緒菜さんですが、とある筋の者から頼まれたのですよ。『うちの組の者が空手使いの女子高生にやられたから、報復をしてほしい』と。もちろん私たちはこう申し上げましたよ? 『ご自分で敵討ちをされてはどうですか』とね。でも彼らはここ近年、色々な事件を起こしてまして……表立って動けない立場にいらっしゃったそうなのです。だから……この私がその組の方の依頼の仲介人となって、ネットの闇サイトを通じて流すことにしたのです。『漆原高校に通う女子高生、苗木里緒菜を再起不能にした者には百万円の報酬を差し上げます』とね!!」




 …………嘘、でしょ……?

 あたしらが暴れてボコってた連中の中にヤクザが混じってたってこと?!

 それで……その報復をするために闇サイトに依頼を出したってわけ?!




「依頼を引き受けてくださったのはどこかの高校生たちでした。まぁ、個人だろうがグループだろうが、報酬は変わりなく百万円でしたけどね……その後私は、彼らに接触して大きな石をお渡ししました。『これは人工物だから、よほどのことがない限り死ぬことはありません』ってね。まさか、それを信じて本当にそれで殴り倒してしまうとは……! ははっ、はっははははは!! 彼らもバカですよねぇ! それが致命傷になるだなんて夢にも思わなかったことでしょう! はっははははは! ふっはははは!! …………で、後はもうお分かりですね?」




 …………あの女を使って、病院に運び込まれた里緒菜にとどめを刺したってことか。




「いやー、苦労しましたよ……警察に圧力をかけて、その高校生を『傷害致死』として逮捕させるのはね。おかげで高校生たちの独断で苗木里緒菜を殺害したことになり、一件落着というわけですがね」




 なんてクズ野郎なんだよ……おまえらは……っ!!




「さて、次に森山杏奈さんですが……死ぬことになったのはあなたのせいですからね?」

「んっ……?!」


 あたしの……せい……?


「どこからどう見ても健全なあなたが、この病院に入院してきたんですから……まさか、この私が気づいてないとでも思ったのですか?」




 うそだ…………じゃああたしがこの病院に潜入したせいで、杏奈は殺されたってこと……?!




「私の部下に"斉藤"とかいう女の素性を調べさせました。そしたら……あなたとは文字通りなんの血縁関係もない、ましてや親戚ですらないじゃありませんか。それなのにその女はなぜか『あなたの母親の友人』として姿を現したという。無論、あなたの母親の交友関係も洗ってもらいましたが、『斉藤』とかいう女はどこにも浮上しませんでした。そしてあなたの問診票を見てみると摩訶不思議……まるで『うつ病患者』のテンプレートのような回答でした。そしたらもう……怪しくて怪しくて仕方がなくなりまして……あなたを揺さぶるために、森山杏奈には死んで頂きました」


「ふぅうっ! んんんっ!! ふぅっ!!」


 あたしの……せい……あたしの…………


「しかし……あなたは錯乱状態になるどころか、他の患者たちとの絆をより一層強くして、私たちに歯向かおうとしていたそうじゃありませんか……そしてあのモチヅキとかいうクソガキの入れ知恵によって、あなたは"あの女"の正体に気付くに至った…………さて、どう責任を取って頂きましょうかね……?」




 責任…………あたしの……せい……




「――――そこに、誰かいるんですか……?」




 誰かがライトを持って病室に入ってきた。近くにいた男たちは一斉に身を潜める。

 そして銀髪の男はしゃがみ込んであたしの口に掛け布団を押し込み、耳元で囁いた。




「よーく見ていなさい、これも全て……あなたが蒔いた種です……」

「――――っ!!」


 声が出ない!!


 ライトの明かりでその人の輪郭が浮き上がる。

 さっきスタッフステーションで気絶してた看護師さんかな……!?

 看護師さんっ! ダメ! 来ちゃダメだよっ!! 早く逃げて!!


 あたしの悲痛の願いは届くことなく、看護師はさらに病室に足を踏み入れ、あたしのベッドを照らし……



「あっ――?! むぐっ!?」


 看護師の短い悲鳴の直後、すぐ後ろにいた影が看護師を羽交い絞めにして、もう一人の影が看護師さんの正面から頭にめがけて何かを叩きつけた。




 その一撃で看護師さんはうつ伏せに倒れ、痙攣を数回繰り返した後、動かなくなった。


「んーーーっ!!? ぐすっ! んんーーっ!! ぐすっ……んーっ! んっ……!!」


 あたしは涙を流しながら声にならない悲鳴を上げた。




 銀髪の男は再び立ち上がって、口を開く。




「後始末は、よろしくお願いします」

「はっ!」

「まぁ、非常階段から転げ落ちて頭を打ったことにしておきなさい」

「し、しかし……この床に着いた血は?」

「『掃除屋』に任せておきなさい。あなたたちは早く、その人形を外へ運び出しなさい!」

「了解っ!」


 男たちは動かなくなった看護師さんを病室の外へ運び出していった……




「さて……あまり死体を増やしたくありませんので、手短にお聞きします。『逃げた二人』はどこですか?」

「――――っ?! んーっ! んーっ!!」


 あたしは首を振って唸り声で知らないと訴える。


「はぁ……めんどくさいですね……少し痛い目を見てもらった方が良さそうです」


 銀髪の男は拳を鳴らしながら、あたしを見下ろした。


「んっ……!? ふぅっ、ふぅっ! んーっ!!?」

「仕方ないじゃありませんか。これもあなたが悪いのですよ? ……もう一度お聞きします。『逃げた二人』はどこですか?」


「んっ!! ふぅっ、ふぅっ!」


 あたしは首を振って知らないと訴えた。


「――ちっ!!」


 ――ゴンッ!!!


「んぐっ!!? んふっ……ぐふっ…………うぅ……ぐすっ……!」


 顔面を思いっきり殴られた。鈍い痛みが襲う。骨の一本や二本、折れたかもしれない。


「あなたたち、ロープを出しなさい」

「はっ!」


 銀髪の男は身を潜めていた男からいかにも頑丈そうなロープを受け取ると、あたしの首にそれをかける。


「あまり手を汚したくないのですが…………これが最後ですよ? 『逃げた二人』はどこですか?」

「ふぅっ!! ふぅっ!! んんっ!!」


 あたしは唸り声を上げて、首を横に何度も振る。

 だってほんとに知らないんだよ!!


「――しぶとい女ですね……仕方ありません。……ふっ!!」


 ぎぎぎぎ……っ!! という音と共に息ができなくなる。


「ぐっ……んっ……! んっ…………!!」


 痛い……! 苦しい……! もうやめて……! 死にたくない……!!






 だんだんと目の前が真っ暗になって、意識が遠のいていく……




 母さん……里緒菜……杏奈……交番にいた人たち……そして病院で知り合ったおねーさんとモチヅキの顔が次々と浮かんできた…………それと……"あの女"の泣き顔も…………あの野郎、ちゃんと逃げ切れたんだろうな…………死んだらただじゃおかないからな…………

 おねーさん……もう一度、頭を撫でて欲しかったな…………






 これで…………長かった悪夢も終わる…………











  ――――ジリリリリリリリリリリリリ――!!






「――なにっ?!」




「んぐっ!! ごふっ……ごふっ……!! ふぅすぅっ! ふぅすぅっ!! ごほっ……ごほっ……!」


 突然呼吸ができるようになって、あたしはむせながら鼻から目一杯に息を吸い込んだ。




 ――タッタッタッタッタ!!

 と慌ただしく足音を鳴らしながら男が病室に入ってくる。


「――『ニカイドウ』さんっ! 大変です! 火災報知器が!」

「聞こえてますよっ!! これは一体どういうことなのですっ!? 細工をしていたのではなかったのですか?!」

「非常ベルは鳴らせなくしておいたはずなんですが……!?」

「…………だとしたら『自動火災報知機』です! 誰かが天井に向かって火あぶりをしたんですよっ!!」

「そ、そんなっ!?」

「こうなった以上、致し方ありません。後のことは頼みます、私はここで捕まるわけにはいかないので」

「は、はい……しかし、逃げたやつらはどうすれば……?!」

「あんなゴミどもに構ってる暇はありません! どうせ何も出来やしませんよ! ……あ、そこにいる小娘は隔離病棟の病室に放り込んで、証拠と一緒に焼き殺しておいてください! 絶対に生かして帰してはなりません!」


 銀髪の男は一目散に病室から飛び出していった。


「悪く思うなよ小娘……? 全ては『ニカイドウ』さんのためだ」


 男たちはキャスターのロックを外して、猛スピードでベッドを運び出していく。


「んーっ! んーーっ!!」


 せっかく生還できると思ったのに、また命の危機にさらされるとか……

 いつまで続くんだろう、この悪夢……




 でも、これでやっと念願の隔離病棟の中に入れる!

『火災報知器』が鳴り出したとなれば、消防車と警察がやってくるはず! まだ助かるチャンスはある!




 そして例の扉の鍵が外され、中に入れられる。

 ほんの少しの通路が続いた後、エレベーターの中へ。


「ん……?!」


 突然身体が浮く感じがした。このエレベーターどんどん降下していってるんだ……!

 どこまで続いてるんだろう……?



「エレベーターの鍵は持ってるな?」

「ああ」

「下りて火ぃ着けて上に戻ったら、ちゃんと鍵回してエレベーターの主電源切っとけよ?」

「ぬかりなく」

「んっ……?!」


 え、今エレベーターがなんて言った?


「んーっ!? んーーーーっ!!」

「ぎゃあぎゃあうっせえ女だな!! これだから女は嫌いなんだよ!!」


 嫌だよ……エレベーター止まったら……もう終わりじゃん……っ!!


「ふーっ!! ふーっ!! んーーーーーっ!!!」


 あたしはじたばたと暴れた。

 嫌だ、死にたくない! もう嫌だよ!! 助けて!! 誰かっ!!



「とりあえず、その辺の病室でいいか」


 薄暗い廊下の途中にあった病室に入っていく。


「んっ……?! んん……っ!!?」


 ――病室に入った途端、血生臭い匂いが鼻を刺激した。


「んっ……!? んんっ!! んんんっ!!」


 嫌だ!! 怖いよっ!! 助けてよぉっ!!


「とりあえず、灯油をそこら中にまいておくか」


 男は小瓶のような物を取り出すと、ベッドの周りを囲むようにして床に垂らしていった。そして壁や天井にも小瓶を吹っ掛けていく……

 そして男たちはライターに火を灯すと、懐から丸められた紙を取り出し、それに火を着けて床に放り投げた。


 ボォッ!!


「んんんーーーーっ!!?」


 周りは一瞬にして火の海になる。

 さらに男たちは、火の着いた紙をもう一枚用意して、さっき液体を吹っ掛けた壁付近へ放り投げた。それによって部屋中に火が燃え広がっていく。


「ひっひひひっ!! じゃ、ずらかるぜ!!」


 男たちの姿が見えなくなった。




「んんんっ!! んんっ!!」


 熱いっ!! 熱いっ!! 助けて!!


「ぐすっ!! ううぅうううっ!!? んんっ!!」


 ガシャガシャと両腕と両脚をばたつかせても、手錠はびくともしなかった。


「んんんんっ!! んんんんっ!! んんんんんんっ!!?」


 やばい……これ、ほんとに助かるのかな……?

 

「ぐふっ……ぐふっ…………」


 煙が…………くそ……息が…………


「ぐふっ…………ぐっ………………」


 なるべく、息を吸う量を抑えて煙を吸わないようにしようとした。


「んっ………………ふぅ………………」


 絶対に……生き残ってやる……

『闇社会』なんかに…………負けてたまるもんか…………!

 死んだ母さんや里緒菜、杏奈の分まで…………生き抜いてやるんだ…………!!


「ふっ…………!」


 あたしはじっとして、熱さに耐えた。火がベッドに燃え移ろうとしても、じっと耐えた。





 

 ――――生きたい……! 死にたくない……! おねーさん……お願い、助けて……!!











「まりなちゃぁあああんっ!!」

「おいっ! 無事かっ!?」

「――っ!!?」


 二人組の誰かが病室の中に入ってきた。

 あれ……見覚えあるな……一人は全身ライダースーツで、ヘルメットを被ってて……もう一人は……


「んんっ!!? んんーーーっ!!」


 おねーさんだっ!! どうしてここに!?


「まりなちゃんっ!! まりなちゃんっ!!」


 おねーさんがあたしに駆け寄ろうとして、ライダースーツの男が止める。


「落ち着けっ! とにかくベッドの周りを何とかしないと、迂闊に近づけないぞ!」

「そんな悠長なことを言ってたらまりなちゃんが死んじゃうっ!!」

「すぐそこの病室にまだ燃えてない掛け布団があっただろ! あれを水で濡らすんだ!」

「そんなことしてどうするんですか!」

「いいから言う通りにしろ! あいつが死んでもいいのか!?」

「わ、わかりました!!」


 おねーさんとライダースーツの男は一度病室から出て、十数秒後にまた戻ってきた。


「こ……これ、どうするんですか!?」


 どこの水か分かんないけど、水に濡れた状態の掛け布団が運ばれてきた。


「これを火元にかぶせるようにして押し付けろ! それである程度は鎮火できるはずだ!」

「はいっ!!」


 おねーさんとライダースーツの男は周りの火に覆いかぶせるようにして掛け布団を叩きつけていく。すると、叩きつけた所の火が見る見るうちに小さくなった。周りの火も同じようにして叩きつけていく。

 でもまだ火が残ってる。ほっといたらまた炎上するに違いない。


「んんっ!! んんんーっ!!」

「まりなちゃんっ!!」


 ベッドに燃え移りかけた火も同様にして、上からかぶせるようにして消していく。

 安全を確認した二人は急いであたしのもとへ駆け寄ってくる。


「これもただの一時しのぎにしか過ぎない! 早くしないとまた燃え移る!」

「で、でもまりなちゃんっ! 手錠が……!」

「問題ない、俺がこじ開ける。その間にアンタは、宮川の口元に貼られたガムテープを剥がしてやってくれ」

「はいっ!」


 おねーさんは、あたしの口元に貼られたガムテープを丁寧に剥がしていった。



「おねーさんっ!!」

「まりなちゃんっ! ごめんね……遅くなって……ごめん!」

「これってどういうことなの……?! なんでこの人が……!?」

「あのあと、エレベーターを使って一階に降りてね、玄関が閉まってたから、仕方なく非常口から出たんだけど……なんか変な人たちも来てて……どうしようか迷ってたら、この人が助けてくれて……」

「でも……エレベーター止まってたはずじゃ……?」

「それが…………えっと……」


 おねーさんは少し言い辛そうにしてたけど、ライダースーツの男が代弁した。


「アンタは大した奴だよ。まさか『闇社会』に堕ちた人間すら助けてしまうとはな……」

「えっ…………?」

「『ヤツら』より先に保護したよ、"あの女"を。今は別の仲間が匿ってる」

「……あいつ……生きてたんだ……」

「『絶対に死んじゃダメだよ』って言ったそうじゃないか。だからあの女、その約束を守ったみたいだぞ? それで俺たちに、隠し持ってた鍵を託してこう言ったよ。『あの子も……死んだらダメだから』ってな。まぁ、詳しいことは後で説明してやるよ」


 そういえば、モチヅキはどうしたんだろう……?!


「ねぇ、モチヅキってやつはいなかった?! 髪の長い人!」

「あぁ……シライシより先に出てきた患者だな、もちろん声をかけたさ。そしたら伝言を頼まれてな。『最高のフィナーレを飾る準備をしておいたから、よろしく頼む』って言ってたな」


 …………もしかして、あの自動火災報知機のことを言ってるのかな……? あたしが脱出できるチャンスを作ってくれたのはモチヅキだったんだ……



「よし、手錠と足枷、どっちも外れたぞ! 立てるか?」


 あたしは公安の男とおねーさんに支えられながら何とかベッドから抜け出す。


「とにかく病室から出るぞ! 出たら閉めろ!」


 病室から出てみると、そこも火の海だった。


「どうしよう……! エレベーターの前も火の海……!」


 と、おねーさんは絶望した表情でそう言った。


「通気口から脱出できないのかな?!」

「何言ってんだ! ドラマじゃないんだからそんなに上手くいくわけないだろう!」


 ――怒られてしまった。


「くそ……ここまで来たのに…………! どこかに抜け道でもあればいいんだが…………」




 抜け道…………抜け道…………


「あっ!!」

「どうした宮川?!」




『杏奈ぁ? ……あーっ、もしかしてあのぽちゃこー?! いやー、なかなか苦労しましたよせんぱい! ひひっ! だってだってー! 隔離病棟の地下通路から地上に出てぇ、そっからあのぽちゃこを捜さないといけなくてぇ……! めんどくさかったんだけどぉー! でも案外ちょろかったよ? だってあの子、いつも夜遊びしてるんだもんねー! 捜すのに時間かからなかったよー!?』


 ――あの女の言葉が鮮明に呼び起こされた。




「この隔離病棟の中に『地下通路』っていうのがある! あの女はそれを通って外に出てたらしいから!」

「『地下通路』だと?! そんなものが本当に実在するのか!? ……とにかく探してみるしかないな……」

「でも……どこを探したいいのか分からないですよ……!?」




 あまり迷ってる時間はなさそうだ。時間が経つに連れて火の勢いがどんどん増していってる。このままだと逃げ場がなくなってしまいそうだ。


 とりあえず周りを見渡してみる。さっき出てきた病室を背にして、右手がエレベーター側に続く通路。でもそっちも火の海と化してて、消火活動はとても間に合いそうにない。

 左手を見てみると、通路が続いてて、そっちにもまだ病室が続いてる。

 奥に進んでいくしかない。




 あたしたち三人は、煙を吸わないように口元に手を当てつつ、姿勢を低くして通路を走る。



「おい、あの鉄扉がそれじゃないのか!?」


 そう言って公安の男は通路の最奥にあった黒ずんだ鉄扉を指さす。

 あたしたちは藁にもすがる思いでその鉄扉へ駆け寄る。


「これ……鍵がかかってるよ!?」

「そんな……! じゃあ私たち、出られないの?!」

「落ち着け! 鍵穴が潰れてなけりゃ何とかなる!」


 さすがというべきか、公安の男は針金を懐から取り出して鍵穴にぶっ刺した。


「後ろから火が……!」


 おねーさんはあたしたちがやってきた方向を見つめ、青ざめる。

 振り返ってみると確かに、あの病室から燃え広がってきた火の手がこちらに回ってきたようだった。これでもう完全に退路を断たれちゃったってことか。


「刑事さん、早くっ!!」


 おねーさんは公安の男を急かす。


「もう少しだから落ち着け! あと俺は『刑事』じゃなく『公安』だ!」

「そんなことどうでもいいから早くしてください!」

「無茶苦茶な女だなまったく! ――よしっ、開いたぞ!」


 カチッ、という確かな音が聴こえた。

 そして、キィ……という金属音を立てながら重い扉は開かれる。






「――電気が通ってるのか……?」


 扉の奥もまた通路になっていて薄暗かったけど、壁に取り付けられた電気のおかげで何とか歩くことができそうだった。


「シライシ、後ろの扉は閉めておけ。火の侵入を許しちゃいけない」

「あ、ごめんなさい……っ!」


 シライシさんが慌てて鉄扉を閉める。それを確認したあたしたちは、通路の奥へ進んでみる。




「とりあえず、これで焼け死ぬ心配はないだろう」

「あの鉄扉がどれくらいの温度まで耐えられるかによるんじゃないの?」

「触った感触から察するに、耐火金庫に使われる素材と同じ物が使われているようだ。千度くらいの温度ならどうってことはないんじゃないか?」

「仮に焼け死ぬことを避けられたとしても……もし地上に続く道がなかったら……私たち…………」


 おねーさんは不安を隠せないのか、あたしの手をぎゅっと握りしめてきた。


「大丈夫だよおねーさん、これまでいろんなことが起こったけど、なんだかんだで生き残ったんだから、ね?」


おねーさんを安心させようと、あたしは手を握り返す。


「まりなちゃん……」

「とにかく奥まで進んでみようよ」


 …………何度か曲がり角を曲がっていくと、少し開けた空間に出た。


「ここは……?」


 さっきとは内装が一変してた。床、壁、天井一面コンクリートになっていて、声が反響する。下水道かと思ったけど、なんか違う。

 一応電球が天井に等間隔で吊り下げられていたけど、所々消えかかっているやつもあった。


 少し進むと、通路の途中に扉が見えた。近づいて確かめてみると、その扉は酷く錆びていて、ドアノブをひねってもびくともしなかった。


「さすがにこの奥が出口……ってわけじゃないよね」


 あたしたちはそのまま通路の奥へ進んでいく。

 所々、錆びた扉があったけど、どれも開きそうにない。もしかしたら、扉の中は部屋になってるのかもしれない……


「…………」


 更に進んだ所で、公安の男は足を止めて考え込んだ。




「どうしたの?」

「…………資料で見たことがあるんだ、こういう場所を」

「えっ……? じゃあ、ここってなんなの?」

「……『地下壕』だ」

「えっ?!」


 公安の男の言葉にあたしたちは息を呑んだ。地下壕ってあれだよね? 防空壕とは別に、軍隊とかが作ったっていう……

 なんで隔離病棟の中に地下壕なんかが……?


「もしそうだとしたら、出口の心配をする必要はない。いずれ地上に出る道が見つかるはずだ」

「それ、マジ……!?」

「あぁ。これで俺たちが抱えている"とある案件"の解決の糸口も掴めそうだ」

「あ、あの……話についていけないんですけど、何か重大なことなんですか……?」

「当然だとも。あの隔離病棟の中で一体何が行われていたのか、なぜ地下壕と繋がっていたのか、この病院の正体は何なのか……それを考えた時、"国家レベル"の問題に発展しかねないんじゃないかと思ったわけだ」

「国家レベル……ってどういうこと?」


 すると、おねーさんが神妙な顔つきでこう言った。


「地下壕が隠されてたということは……ひょっとして、『旧軍』が絡んでるのでしょうか?」

「えっ!?」



『旧軍』……って、いわゆる『日本軍』のことだよね……?



「そういうことだ。こういった頑丈な地下壕は並大抵の民間人が作れるものじゃない。おそらく第二次世界大戦時代、軍によって作られた物だろう。つまりこの病院は、この地下壕の存在を知っていてそれを隠していた。『旧軍』による箝口令かんこうれいが敷かれていたか、あるいは『闇社会』と手を組んで存在を抹消させたか」


「今回、『闇社会』はあの隔離病棟で何をしようとしてたんだろう?」

「あの血生臭い匂い……あれは死臭だ。おそらく数えきれないほどの人間があそこで死んでるんだろう」

「うぇ……っ!?」


 あたしはそれを聞いて吐きそうになる。


「もし『旧軍』がそれに関わるとすれば、大体想像がつくよな? あそこで何が行われていたのか」

「まさか……『拷問』とか!? 『人体実験』とか!? それとも、秘密兵器の開発とか?!」

「だろうな……そうなると今回は情報の収穫だけで、それ以上は踏み込まない方が良さそうだ」

「え、調べないんですか?! 何かしら証拠が出るんじゃ……?」

「おねーさん、多分それは難しいんじゃないかな。もしかしたら『闇社会』と『旧軍』ってやつがグルって可能性もあるんだよ?」

「うそ……!?」

「宮川の言う通りだ。あの病院に『闇社会』と『旧軍』が関わっているとなれば、『闇社会』と『旧軍』がお互いの利益のために、手を組んでてもおかしくないさ。そして自分たちの弊害となるやつらは容赦なく排除するだろう」

「どっちも敵に回すと非常に厄介ってことなんだね……?」

「そうだ、だからこの情報を持ち帰って奴らの動向を伺うしかない。たとえ、この地下壕さえも隠蔽いんぺいされたとしてもな…………おっと、向こうに梯子が見えてきたな。地上に続いてるかもしれない、行くぞ」




 ――そして鉄梯子の前で立ち止まり、見上げてみる。

 その鉄梯子は真っ暗な天井の向こうへ続いてるようだった。


「ライトを照らしてみるか」


 公安の男は懐から小さなライトを取り出してその暗闇を照らした。

 良いライトなのか、遠くまで光が届いた。


「結構高さがありそうですね……落ちたらどうしよう……」

「滑り落ちそうになったら、あたしが支えてあげるから安心しなよ」

「ありがとう、まりなちゃん」


 あたしとおねーさんは微笑みあって、公安の男に続いて鉄梯子に足をかける。

 公安の男、おねーさん、あたしの順番で少しずつ鉄梯子を上っていく。




 ――どうか、無事に地上に出られますように……




 その想いを胸にひたすら上った。




 やがて上にいた公安の男が歩みを止めて言った。


「これってまさか……マンホールの蓋か……?」


 マンホール……?! うそ、じゃあどこかのマンホールの下が病院へ続いてたってこと!? そりゃ周りに知られたらヤバイよね……

 そんなことを考えていると、公安の男は何かガチャガチャやり始めた。

 

「ふっ……!! ぐっ……うぅう…………!!」


 男の唸り声。


 ゴォ…………と重い音が聴こえてきた。

 マンホールの蓋を下から押し上げようとしてるのかもしれない。


「ふぅ…………やっぱりそうだったか……こりゃさすがに女の力じゃ無理だぞ…………」




 

 ――あれ? そうなるとあの女はどうやってこのマンホールの蓋を開けたんだろう……?




「ぐぐっ…………! んぐぅっ!!」




 ゴォ……ゴォオオオオオ…………!




 ――蓋が動いたと思ったその瞬間、月の光があたしたちを照らす。




「おい、地上だぞ!」


 公安の男の掛け声と共にあたしたちは地上へ這い上がった。

 やっと外の空気を吸えた感じがする。


 さて、ここはどこだろう? どこかの路地裏みたいだけど、近くに人の気配はまったく感じられない。




 あたしたちが無事に地上に這い上がったのを確認した公安の男は、マンホールの蓋を元通りに閉めた後、口を開いた。




「ふぅ…………アンタら、よくやったよ…………無事に生き延びることができてよかったな……」


 公安の男は安堵した声でそう言った。


「おねーさん…………」

「私たち……助かったんだね……!」




 おねーさんはあたしを強く抱き寄せる。




「まりなちゃん……よく頑張ったね……頑張ったよ……!」




 背中をさすられるたびに、胸の中が熱くなってくる。

 あたしはおねーさんの胸に顔をうずめて、涙を流した……

 ようやく、長い悪夢が終わったんだと…………











 ――――夜が明けた。




 公安の男からあの女の正体を告げられた。

 女の本名は『来栖くるす美野里みのり』、二十五歳。十年前、進学先の高校で酷いイジメに遭っていた。そしてある日来栖は、家庭科室の保管庫から盗み出したとみられる包丁を手に、教室にいた同級生たちに襲い掛かったという。

 負傷者は十四人。幸いにも死者は出なかったらしいけど、教室の中は物が散乱してたり、血飛沫が飛んでたりして酷い有様だった。

 教室から生徒たちが逃げ出した後、騒ぎを聞きつけた先生たちが教室の中になだれ込むと、壁の隅っこで包丁を握りしめたまま、体育座りをしてガタガタ震えている来栖の姿があったと。

 焦点が合ってなくて、何かぶつぶつ言いながら先生たちを見上げてたけど、抵抗をする様子はなかった。


 来栖はやってきた警察に連行されたものの、『何かぶつぶつ呟いている』『ぼーっとしている』『時折怯えて話にならない』『突然笑いだす』といった奇行が見られたため、精神病院へ強制入院させられることになったらしい。

 そこでどれだけの治療を行おうが、どれだけ看護師が面倒を見ようが、来栖には回復の傾向はまったく見られなかったという。

 やがて違う精神病棟へとたらいまわしにされ……ある日『行方知れず』となったらしい。

 というのも、たらいまわしにされ続けて今から数年前、どこの病院へ移ったのか分からなくなったんだそうだ。病院から逃げ出したわけでもないため、いつの間にか『存在も忘れ去られた』。


 どういう経緯か分からないけど、あの女はあの病院へとやってきて、『闇社会』と接触した。


 それで今回の惨劇を引き起こすに至った……と考えていたけど、真実はそうじゃなかった。




 結論から言うと、あの女は"誰も殺してなかった"。

 来栖から聞き出した真相はこうだった。




『自由が欲しくないか? もし自由が欲しかったら、我々の仕事を手伝え』。


 ――隔離病棟に幽閉されていた来栖に対し、ヤツらはそう言って近づいたらしい。

『何か起こったら、その全ての責任はお前にある』とも。

 そしてある日からいきなり看護師としての一般教養を詰め込まれ、看護師のフリをさせられたという。

 特に『まつした』『おかむら』『いけだ』この三人の看護師とは声や体型が似ていたため、変装するにはもってこいだったとか。

 変装している間、本物の看護師がどうなっていたのかは分からないらしい。少なくとも、変装を怪しまれたことは一度もなかったと話していたと。


 …………そしてまたある日、変な噂を耳にしたと言う。それは不自然な形で患者の死が増え始めたこと。

 その時期はちょうど"ヤツら"が現れた時期とほぼ一致していて、来栖はすぐに"ヤツら"が関係しているんだと身構えたらしい。

 なぜなら、死んだほとんどの患者は"余命が残されていない"か、"重症患者"ばかりだったから。




 ――そしてまたある日、苗木里緒菜という女性が病院へ入院してきた。

 その人は頭を怪我していて、『後遺症がないかを調べるために、一週間の検査入院』を余儀なくされていた。

 そしてヤツらは次の仕事と称して、来栖にこう命じたという。


『苗木里緒菜の頭を殴打し、脳出血に見せかけて止めを刺せ』と。


 だからその日の夜の薬に睡眠薬を飲ませ、昏睡状態にさせた。

 後は壁に思いっきり頭を打ち付ければ、それだけで症状が悪化するはずだった――

 





 ――でも、来栖にはできなかったと。

 公安の前で拳を震わせ、涙ながらにこう語った。

『あの光景が何度も蘇って、あたしにはできなかった』と。


 ――あの日、教室で暴れまわった自分を客観視した時、それがどれほどおぞましい姿だったのか、今だからこそ想像できたと。

 だから、何もせずに苗木里緒菜から姿を消して、ヤツらに『予定通りに終わりました』と報告をしたらしい。


 でも、苗木里緒菜は死んだ。


 来栖がそれを知ったのは翌朝のこと。死因は『何か重たいもので頭部を殴られたことによる脳出血』だと言われ、なんで里緒菜が死んだのか訳が分からなくなったと。

 その時初めて、自分が今置かれた状況を察したという。


『この病院内で死んだ患者は全て自分が殺したことにするつもりだ』と。


 でも自由になりたかったのは本当だから、逆らうことはできなかった。

 もしその時が来たら全ての罪を被ろう、そう考えたらしい。




 ――そしてあたしが入院してきた。

『闇社会』の連中はすぐにあたしを怪しんだという。『苗木里緒菜』の友人ということもあり、早急に調査を命じられたらしい。

『宮川まりなの動向を探り、報告をしろ』と。


 ――そしてあたしの前に現れ、目的を探ろうとした。でもあたしのカムフラージュを見破れず、『普通の患者だった』とヤツらに報告すると、その日の夜、隔離病棟の病室に連れ込まれ、『そこの地下通路を通って森山杏奈を殺してこい。居場所はここに書いてある。もししくじったらお前の命はない』と言われ、メモ用紙を手渡されたという。

 来栖は目立たない服装に着替えて例の地下通路を通って、あの鉄梯子を上った。

 マンホールの蓋は"開いていた"のでそのまま地上に出て、メモ用紙に従ってその場所に向かった。道中、猛スピードで走ってきた長い髪の男と肩をぶつけたという。

 来栖はその拍子で地面に転げたが、男はそのまま走り去っていったと。


 とりあえず来栖はそのままメモ用紙に書かれた場所に辿り着き、杏奈を捜した。

 そして大きなゴミ箱を見つけ、開けてみるとそこに杏奈がいたという。杏奈は全身血まみれ状態でもう死んでたらしい。凶器となったであろう"メス"が杏奈の腹に刺さったままだった。きっとこのメスで滅多刺しにされたんだと思った来栖は、『もしこの凶器に自分の指紋が付いてたら……』と怖くなり、メスを引き抜いてその場を走り去ったという。


 地下通路を通って再び隔離病棟へと戻り、看護師の服に着替えようとしたとき、自分の服が汚れていることに気が付いた。

 ちょうど男と肩をぶつけた部分、そこに血が付いていたと。


 おそらくあの男が森山杏奈を殺したんだと、来栖は考えた。

 杏奈の殺しも自分がやったと報告し、後はあたしの監視を任されたと。


 ついでに『突然死しても疑いが向けられなさそうな患者集め』もさせられたらしい。手口に関してはあたしらが読んだ通り、真夜中にそいつをマークしておいて、自然な理由をつけて隔離病棟へ幽閉する。でも来栖がやったのはそこまでで、殺しに関しては否認していた。

 後の流れはあたしが見てきた通りだ。度々変装してはあたしらを監視していた。

 そしてあたしらに追い詰められると、ついに『闇社会』からこんな命令が下されたと。


『これが最後の仕事だ。あの目障りなミヤガワマリナを抹殺しろ。失敗すれば二度と自由はないと思え』と。




 ――あの死闘は来栖にとって、最初で最後のチャンスだったと。


 憎しみを抱えたミヤガワマリナと、自由のためにこの手を汚そうとする自分との対決。

 間違いなくどちらかが死んでどちらかが生き残る。

 たとえ自分が生き残ったとしても……どう生きていいのかわからなかった。でも、この人にはちゃんとした人生がある……だから、この人に殺されて終わりにしよう、そう考えたそうだ。


 あたしを煽って憎しみを誘発して、怒りに任せたあたしが来栖を殺す。

 そういう筋書きで終わらせようとしていたら、思わぬことが起こった。


 ――そう、あたしがあの女を逃がす選択肢を選んだことだ。


 あの時、あたしが出て行って間もなくして、来栖も病室から脱出した。

 その十数秒後、さっきまでいた病室のドアが開け放たれる音がして、急いでスタッフステーションの中にあった大型のドラム式洗濯機の中に隠れこんだそうだ。

 衣服の中に紛れて外の様子を伺っていると、案の定黒服の男たちがステーションの中に入ってきた。

 でもまさか洗濯機の中に隠れていると思ってなかったのか、男たちはそのまま出て行ったという。




 ――ドラム式洗濯機の構造上、中からは開けられないようになっていたため、後はあたしに言われた通り、『公安』に助けられるのをひたすら待ったという。


 そして突然非常ベルの音が聴こえてきて、しばらく経った後、ドラム式洗濯機のドアが開けられてもう終わりだと思った来栖の目の前に現れたのが、『警察庁警備局特別任務遂行部隊隊長 コードネーム ナナシ』という警察手帳を広げたライダースーツの男だったと。

 ちなみに手帳では素顔だったらしい。


 そこには男ともう一人、さっきまで自分が拉致ってたシライシの姿もあって、すぐさまあたしの行方を聞いてきたらしい。

『まりながあの隔離病棟で殺されるかもしれない』と来栖はそう告げて、公安の『ナナシ』さんに鍵束を託したんだそうだ。

『ナナシ』さんはそれを受け取って、おねーさんと一緒にあたしを助けに来た……というわけだ。もしその鍵がなかったら今頃……そう考えると、こういうこともあるんだなと思う……






 運転席で来栖の話をしてくれた公安の『ナナシ』さんの話を、後部座席に座っていたあたしとおねーさんは黙って聞いていた。




「――それで? これからどうするの、『ナナシ』さん?」

「ふむ……とりあえず、アンタはあの隔離病棟で死んだことにする。そうでないと、また『闇社会』から命を狙われることになるからな」

「じゃあ……あたしは正真正銘、『新しい人生』を生きるわけ?」

「……まぁ、そういうことだ。『宮川まりな』としての人生は、あそこで終わったんだ」

「そんな……まりなちゃん……」


 とても残念そうな顔をするシライシさんに、あたしは微笑みかける。


「いいんだよおねーさん。それでもあたしたちは生き残ったんだから」











 ――あたしたちが向かった先は人通りの少ない怪しげな小屋の中。

 そこにいたローブを纏った女によって、あたしは『整形手術』を施された。公安の『ナナシ』さんとおねーさんに見守られながら、無事に手術を終える。











 ――そしてあの悪夢のような日から一カ月半が経った。











 ――『私』は新しい学校からの帰宅路を歩いていた。

 なかなか新しい自分には慣れなかったけれど、それも時間が解決してくれるに違いない。

 そして歩道橋の上を歩いていると、見覚えのある人物とすれ違った。




「――新しい自分には慣れたか?」


 その声で『私』は歩みを止めて振り返る。


「一カ月ぶりですね、『ナナシ』さん」


 そう笑いかけると、『ナナシ』さんは『私』と向き合う。


「ずいぶんしおらしくなったな……一カ月前とは大違いだ」

「そうですね……新しい自分になるのはやっぱり難しいです。まずは話し方から改めようと思ったのですが……」

「いやいや、十分に変わったと思うがな。髪も伸ばして黒く染めて、顔も変わったんだ。はたから見ても、『あの時のアンタ』だなんて分かるはずがない」

「だといいのですが……」

「――例の病院、どうなったか知ってるか?」

「例の病院というと、『あの病院』ですか?」

「……ん、知らないのか? だったら帰り道のついでに見てくるといい。想像通りの結果になったみたいだからな」


 ――『予想通りの結果』って何だろう……?


「――まぁ、せいぜい『新しい人生』ってやつを生きてくれよ。新しい母親と一緒にな」

「母親…………まぁ…………そうですね…………」


『あの人』を母親と呼ぶには、なんかこう……照れくささを感じるというか…………




「アンタは俺たちにとって『初めての例外』だからな、これからの将来が楽しみだ」

「え? 『初めての例外』って?」

「じゃあな、もう二度と姿を見せることはないが…………命を大事にな」




 ――そう言ってライダースーツの男は踵を返して消えて行った。




「帰ろう」




 ――そして帰り道の途中にあったあの病院の前に着く。




「あっ……」




『廃院のお知らせ』と書かれたプレート看板が入口の横に打ち付けられてあった。


 当病院は諸事情により閉院となりました、と書かれてあって、日付はあの悪夢の夜の翌朝になっていた。どう考えても異常としか思えない閉院の理由だけど、周りはそれ以上に突っ込まなかったみたいだ。






 ――この『病院』を見上げると、不意に思い出す。

 何もかも失って、何もかも嫌になって、逃げていた二カ月前までの自分のことを。

 でも失わなかったものが一つだけある。それは『命』だ。


 生きてさえいれば……また新しい事に挑戦できる。

 生きてさえいれば……また新しい誰かに巡り合える。

 生きてさえいれば……また生まれ変わることができるんだって。


 もう、"『私』は『あたし』じゃない"けれど、『あたし』――宮川みやがわまりな――の分まで誠実に生きようと思う。それが自分のやってきたことに対する責任の取り方だと思うから――




 …………柄にもなく、また涙を流してしまった。

 ここにいるとどうしても前の自分を意識してしまう。前の自分に未練なんてないはずなのに……




 私は何事もなかったかのように、その病院を後にした。











 ――新しい家の前で、一度深呼吸をする。

 今度こそ、ちゃんと言いたかった。今までちゃんと言えなかったからこそ、今度こそ……




 私は意を決して玄関のドアを開ける。


 その音に気付いたのか、『その人』はやってきた。




「――おかえり、風香ふうかちゃん」

「…………ただいま…………えっと…………」


 一度言い淀んでしまったけど、あの時と同じようにもう一度『その人』の目を見据えてちゃんと言った。




「ただいまっ! お母さんっ!」

「まりなちゃん……! あ……ごめん、間違え――!?」


 ――『私』は白石しらいし朱莉あかりさんの胸に飛び込んだ。


「いいんだよ…………今はどっちでも……どっちの自分にとっても……お母さんはお母さんだから……」

「ありがとう……ありがとう……! 私も嬉しい……! やっと家族になれたって感じがする……」


 朱莉さんは私を強く抱きしめる。


「風香って名前ね…………もし、新しい家族が出来たら、その子につけてあげようって思ってた名前なんだ……それがあなたで本当に良かった……!」

「うん……私も嬉しい……! 新しいお母さんが……朱莉さんだったことが嬉しいよぉ……!」

「よしよし……今日はお母さんがめいいっぱい甘やかしてあげるからね……」

「ぐすっ……うん……っ!」






 ――生きてさえいれば……またこんな奇跡だって起こせる…………




 私は確かに母親のぬくもりを感じながら、朱莉さんの胸の中で泣き続けた――

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