第四幕 -疑惑の病院潜入作戦 後編-
この病院の中に、杏奈を殺したヤツがいる。
この病院の中に、里緒菜の死の真相がある。
――まるで念仏のようにそれを心の中で唱え続けながら、あたしは貪るようにして晩飯を食ってた。
飯の味なんか分かるもんか。匂いなんて知るもんか。あたしの胸の中にあったのは、あたしの友人を奪ったヤツに対する憎悪。この手で同じ苦しみを味あわせてやりたい、そんな真っ黒な感情だ。
――その時、ベッドの向かいで晩飯を食っていたおねーさんが、こっちを心配そうな目で見つめながら、「まりなちゃん…………あの人と何かあったの?」って訊いてきた。
「――どうしてそう思うわけ?」
「だってまりなちゃん、あの人と一緒に病室から出て行って、その後帰ってきてから何か様子がおかしいよ……?」
「…………」
一瞬押し黙った。そんな表情が表に出ないようにふるまったつもりだったけど、おねーさんにはそうは見えなかったのかも。
でも、ほんとのことを告げるわけにもいかなかったあたしは――
「気のせいだって……あたしは時々こんな風におかしくなんだよ……」
適当にごまかしておく。
「で、でも…………」
――いや、待てよ? この状況、もしかしたらチャンスかも?
イチかバチか、あたしは布石を打ってみることにした。
「しょーがないじゃんかよ。あたしのダチが死んじゃったしさぁ。まぁ、"なんで死んだか目星はついてんだけど、分かっててもどーにもならないんだもんね"っ!」
――病室内に響き渡るくらいのわざとらしい声量でそんな言葉を吐き散らす。
幸い、"あたしを含めた六人全員がこの病室で今のあたしの言葉を聴いている"んだから。
――おねーさんはそれ以上は何も言わずに俯いてしまった。でも、今なんか変に突っ込まれるよりはむしろそうやって黙っててもらう方があたしとしてはありがたかった。
――晩飯を食い終わった後、あたしはぶらぶらと廊下を歩く。
途中の巡回看護師とすれ違って「もうすぐ消灯時間ですよ」と注意されても適当に頷き、あたしは一番気になっている場所へと向かう。
そう、東病棟へ続く連絡通路を真っすぐ行ったところにある、これ見よがしに設置されてたあの赤い扉だ。
『隔離病棟直通エレベーター』だったっけ。そんなものが本当にこの奥にあるのか確かめてみたくなった。もしかしたら、『闇社会』との怪しげな取引場所なんかに繋がってるかもしれない。
――――巡回看護師の目を掻い潜って扉前までやってきた。
横掛金が開けられた感じは無さそうだったけど、一応細工をしておこう。
あたしは近くに防犯カメラとか看護師がいないことがを確認して、さっきの晩飯の時に摘まんでおいたご飯粒を南京錠の鍵の穴に擦り付けた。
もし、次に見た時にこのご飯粒が裂けてたり無くなってたりしてたら、誰かがこの扉を開けたことになる。
――おっけ、後はさっさと病室に帰ろう。あんまりここにいたら細工に気付かれるかもしれないし。
でも気になるなぁ……あの赤い扉は何なんだろ? 今度さりげなくおねーさんに訊いてみよっかな。
病室に入って自分のベッドに戻ってくると、いつも通り寝る前の薬と水の入ったコップがベッドのテーブルの上に置かれてあった。しまったな……今戻ってきたばかりなのに、また病室の外に出たら怪しまれちゃうよな……どうしよ。
とりあえず他の患者の目もあるし、錠剤を飲むフリをして口に放り込んで水だけを飲み干す。錠剤は……枕の下にでも隠しとこう。あとは寝静まる時間帯まで静かにしておくことにしよっか……
――夜の十一時を回った頃、あたしは病室を抜け出して再び真っ暗な廊下に出た。
そしてナースステーション側じゃない左手の通路を通ってトイレまで行く。
物陰から急に誰かが飛び出して来たらどうしよう、とかそんなバカげたことを考えながら、突き当りの角を右に曲がってトイレの中に入る。
――用を足すついでに錠剤を流して再び廊下に出た後、周りに巡回看護師がいないことを確認して、そっと連絡通路の向こう側を覗き込んでみる。
ここからだと東側のナースステーションの中が少し見える程度で、肝心の赤い扉は廊下が暗すぎてどうなってるのかは分かんなかった。翌朝になってから、さりげなく確かめるしかないな。
――あたしは巡回看護師に見つかるのを恐れ、足早にその場から立ち去って病室へ戻る。入院生活二日目にして、まさか杏奈の訃報を聞くことになるなんて思いもしなかったけど……
――翌朝、入院生活三日目。
朝飯を済ませた後、早速あの赤い扉がどうなってるのかを確かめに行くことにした。
道中すれ違う看護師と適当に挨拶を交わしつつ、あの赤い扉の前までやってくる。南京錠を一瞬だけ手で手前に引き上げて鍵穴を見て、その米粒が昨日の状態と全く変わってなかったことを確認した後、すぐに南京錠から手を離してそのまま通路を歩いた。
東病棟のナースステーションを通り過ぎ、病室が並ぶ通路を歩き続けて再び連絡通路前まで戻ってきた時、思い出したように違和感を覚えた。
"昨日の状態と全く変わってなかった"ってどーゆーこと? つまり、あの赤い扉はあれから"一切触れられてない"ってことだよね? あの先がほんとに隔離病棟なら、そこにいる患者を世話するためにあの南京錠の鍵を開けなきゃいけないはずじゃん。
…………それとも、あの隔離病棟の中にも看護師がいるってことなのかな……? それはそれでなんか恐ろしい光景が思い浮かぶんだけど。
――とりあえず、おねーさんに『赤い扉』のことを訊いてみよう。看護師にはなんか訊きづらいし。
朝の体操と患者との交流のために、遊戯室Aに移動したあたしたちは昨日と同様にラジオ体操をした後、各自で自由行動をふるまってた。
おねーさんはまた部屋の隅っこに移動して座り込んでたので、昨日と同じく、あたしもおねーさんの隣に座りこむ。
「――あれ? まりなちゃん、混ざって来ないの?」
「うーん、なんかね……あーやってグループが出来てるとさ、なんか混ざりにくいじゃん?」
「うん、分かる……私も苦手で――」
おねーさんは昨日とは違って、笑顔をよく見せてくれて、落ち着いた様子だった。これなら、『赤い扉』のことも聞けるかもしれない。
「ところでおねーさん、ちょっと気になることがあるんだけど」
「ん? なぁに?」
「――東病棟のあの『赤い扉』ってなに?」
――あたしが『赤い扉』というキーワードを出した瞬間、おねーさんは笑顔を一変させ、真剣な表情に変わった。
少し身を寄せて来て、小声で話し始めた。
「――あの向こう側がどうなってるのか、知らない方がいいかも……」
「えっ……なんで?」
あたしも同じようにして身を寄せて小声で尋ねる。
「この『心療内科』って、『個室』がないじゃない? その『個室』の代わりに使われてるのが、あの赤い扉の先にある隔離病棟なんだって」
「『個室』の代わり……??」
「まりなちゃんは知ってるかどうか分からないけど、『精神科』っていうのがこの病院にないんだよね。だから精神病棟もない。でも『心療内科』はある」
「心療内科で手に負えなくなった患者を、あの隔離病棟にぶち込んでるってこと……?」
「そうかもね……だからひょっとしたら私たちも、近々移動させられるかもしれないね……」
「そんなはず……」
「でもまりなちゃん聴いた? 病室の入り口側にいた人、えっと……『モトヒラ』さんだっけ、あのスキンヘッドのおじさん。あの人、今日のお昼から隔離病棟に移ることになるんだって」
「え、マジ? あのおじさんから聞いたの?」
「うん、ちょうどまりなちゃんが女の人と一緒に病室から出て行った時にね」
「そうなんだ…………それにしてもおねーさん、隔離病棟について詳しいね」
「うん……なんかね、『モチヅキ』さんっていうちょっと変わった人から聞いたの」
「モチヅキって、あの根暗っぽい人だよね?」
「そうそう……それで、そのモチヅキさんって人、なんか変なこと言ってた。『この病院にはただでさえ招かれざる客人がいるし、ほんとどうかしてるよこの病院は』って」
「――おねーさん、その話をしたのっていつ?」
「確か、今年に入ってからかなぁ……ちょっと不思議な人だなーって思ってたけど、それがきっかけで話すようになったんだよね」
「そうなんだ……」
今年に入ってから……ってことは、この病院の死亡者数が増えた時期とも一致してる。
「まぁ、『隔離病棟』はあまり良くない話しか聞かないから……初めて心療内科に入院してくる患者さんには、その病棟のことは知らされてないみたい。だって……亡くなる人もいるし……」
「…………分かった、ありがと」
「うん、どういたしまして」
「じゃ、そういうことで一緒に遊ぶよっ」
「えっ、えっ?? あっ、まりなちゃんっ?!」
話を切り上げたあたしは、おねーさんの手を引いてゲーム機で遊ぶ患者のところまで移動した。ちょうどパーティーゲームで遊んでたらしく、あたしたちも混ぜてもらった。
最初はおねーさんもぎこちなかったけど、次第に患者たちと打ち解けて楽しそうにしてた。
――あたしはその場からそっと抜けて、"ヤツ"のところまで歩いていく。そいつはあたしたちが座り込んでいた場所とは反対側の隅っこの方で、体育座りをしてずっとあたしを凝視してた。
そいつの目の前に立ち、「なに見てんの? なんか用?」と凄んでやる。
そいつ――モチヅキは口元を歪め、静かに笑った。そしてそいつは言う。
「――――きみは、何をしにこの病院に来たのかな……?」
「はっ……?」
「まぁ、隣に座りなよ? そこに突っ立ってると、"見つかっちゃう"よ?」
――とりあえず、あたしはそいつの言う通りに、右隣に座り込んだ。
「見つかるって誰にだよ?」
モチヅキは視線を前方に向けたまま口を開く。
「『招かれざる客人』にだよ」
「なにそれ、そういやあんた、初めてあたしと目が合った時も、そんなこと言ってたよね」
「うん、言ったね。だってきみは『病気』でもないのにここにやってきたからさ」
「なんで病気じゃないって分かるわけ?」
「『匂い』だよ、本当に病気を患っている人は独特の『匂い』を放つ。簡単に言えば、オーラのようなものかな……でも、きみからは"何も匂わなかった"。だから健康な人なんだなって思ったんだよ。そう言った意味での『招かれざる客人』だね」
すごいな、その特殊能力。
「へぇ? もしそうだったらなんなの? 病院側にチクるわけ?」
「ふふっ…………そんなことしないさ。まぁ、何をしに来たのかすごく気になるけどね」
「……それで? あたし以外にもいるの? その『招かれざる客人』ってヤツ」
モチヅキってヤツは、ふと前方に向けていた視線を逸らした。
「…………おっと、そろそろ話を切り上げた方が良さそうだ。また今度ゆっくり話そう……」
そう言って立ち上がると、ゆらゆらと歩いて遊戯室から出て行ってしまった。
その様子を見ていた三つ編みの看護師――そうだ、『おかむら』だ――がこちらにやってきて、あたしの前でしゃがみ込んだ。
「――モチヅキさんと何を話されてたんですか?」
「えっ? ただの世間話ですけど?」
「そうなんですか? あの患者さん、あたしたち看護師には一切口を利いてくれなくて……意思の疎通ができなくて困ってたところだったんです」
「あ、そうなんですか……」
「時折、不気味な顔をして笑ってたりするし……なんか怖いです……」
おいおい、看護師がそれを言ったらまずいんじゃね? と思いつつ、「まぁ……ちょっと頭がイッちゃってる人なんじゃないんですか?」とあたしも同意しておく。
「どうなんでしょう……?」
「気になるなら直接聞きに行けばいいじゃないですか」
至極まともなことを言ってみたつもりだけど――
「えー、いやですよー……」
と心底嫌な顔をされた。じゃあどうしろってんだよ!
「看護師さん、もしかして暇なんですか?」
「え? どうしてですか?」
「いや、だってあたしなんかとぺらぺら喋ってるし。みんなの所に混ざってきたらいいじゃないですか」
「あたし、ああいう風にグループで何かをするのって苦手なんです」
「なに、看護師さん『陰キャ』なの?」
「え?? 『いんきゃ』……??」
「あー、『陰気な性格の人』って意味ね」
「――――あたしって、そんな風に見えるんですか?」
――『陰キャ』の意味を告げた瞬間、一気に周りの温度が落ちたような気がした。
看護師は笑顔だったけど、目は全く笑ってなかった。なんか変なスイッチでも入れちゃったのかな。
「うーん、ごめん、やっぱ見えないかも」
「ですよねー!」
あたしが否定すると、周りの温度が元に戻った……気がする。
なんだよこの看護師、マジでウザいんだけど。
「あの……まだあたしに何か用ですか?」
少し迷惑そうな顔をしてそう訊いてみる。すると――
「他の患者さんとは楽しそうに話してるのに……何であたしと話す時はそんな迷惑そうな顔をするんですか?」
「いやぁ…………なんかあんまり積極的すぎる看護師って、ちょっとウザいかなーって思って」
「……………………ふぅん? そうですか」
――心底どうでも良さそう声でそう吐き捨てた『おかむら』看護師は、すっと立ち上がって遊戯室から出て行った。マジで何なんだよあの女。
――――その日のお昼二時過ぎだったか。
『いけだ』とかいう看護師が入ってきて、「モトヒラさーん、これから個室の方に移動しますからねー」と母性的な声で優しく語り掛け、おじさんが寝てるベッドごと病室から運び出していく。あたしはそれをカーテン越しにそっと見守ってた。
これでベッドが一つ空いた状態になった。これからまた新しい患者でもやってくるのかな。
――――夕方の薬を飲む時間がやってきて、あたしはいつも通り水だけを飲み干し、トイレで薬を処理する。
その後、また連絡通路の向こう側に行って、さりげなく赤い扉の南京錠の鍵穴がどうなってるのか確かめてみた。
――米粒が無くなってる代わりに、何か薄い赤色のインクで文字が書かれてた。カタカナで…………
『サ』…………『ワ』…………『ル』…………『ナ』…………
「――――っ?!」
あたしは慌てて南京錠から手を離し、すぐ近くのトイレの個室へ逃げ込んだ。
「はぁ……はぁ…………っ」
動悸が止まらない…………心臓がバクバクしてる。
なんなんだよあれ……朝見た時は無かったじゃん……! 誰かがあたしの細工に気付いたんだ。きっと『余計なことをするな』っていう警告なんだ……!
「はぁ…………はぁ…………」
「――あれ? もしかしてまりなちゃん、入ってるの?」
――扉の外からおねーさんの声が聞こえてくる。
「あっ……えっ?? おねーさん?」
「うん……なんか西病棟のトイレが埋まってたからこっちに来たんだけど…………大丈夫? どこか苦しいの?」
「あっ……あぁ…………ちょっと力んでてさ……疲れちゃって……あはは……」
――適当にごまかした。
あたしと入れ替わりに、おねーさんが個室に入る。
…………まだ心臓がバクバクした状態のまま、あたしは病室に戻った。
しばらくして、トイレから戻ってきたおねーさんは自分のベッドに腰掛けて、こっちに振り返る。
おねーさんはあたしを安心させようとしてるのか、優しく微笑んだ。あたしも微笑み返してベッドで横になる。
――――大丈夫。きっとあのメッセージに深い意味はないはず。多分誰かに悪戯とかされないように『サワルナ』って書いただけでしょ……
あたしはそうやって自分に納得させるようにして、あのメッセージを忘れることにした。
――晩飯の後、さっきの『いけだ』看護師が寝る前の薬と水の入ったコップを運んできた。あたしはもう何度目になる作業か忘れたけど、薬を飲むフリをして水だけを飲み干した。
そして看護師がおねーさんの方を向いた隙に錠剤を枕の下に隠す。この流れも変わらない。次に看護師が隣のモチヅキとかいうヤツの所に薬を運んだ時だった――――
「――――今日は飲む気分じゃない、これを持ってさっさと消えてくれ」
少し小さな声だったけど、それでもはっきりとした声で、モチヅキは薬を拒否った。
「ちょっとモチヅキさん、いきなり何を言われるんですか? ちゃんとお薬を飲まないと、病気も治りませんよ?」
「――――しつこい」
――――びしゃっ! カランカラン……
水のような音と、何かが転がるような音が隣から聞こえた。
何事かと思ってカーテン越しにそっと隣を盗み見ると、モチヅキのベッドの上のテーブルは水浸し状態になってて、看護師の足元にはコップが転がり落ちてた。何が起こった?
「――なんてことをするんですか!」
看護師がブチ切れ始めたけど、モチヅキは何事もなかったかのように、アルミ包装を指で押し開けて薬を口の中に放り込み、水無しでそのまま飲み込んだ。
「はっ……? あ、え……えっ……??」
モチヅキの謎の行動に理解できなかったのか、看護師は足元に落ちてるコップと目の前で無表情にしてるモチヅキと何度も視線を交差させた。
「――薬は飲んだんだから、もういいだろう…………?」
「あっ…………はい…………」
看護師はまるで魂が抜けた表情をして、向かいにいる患者と入口にいるもう一人の患者に薬と水を飲ませていった……
――――消灯時間が来る前に、あたしはトイレに行っていつも通りの作業を済ませて、再び自分ののベッドで横になった……
――――翌朝、病院生活四日目の午前六時。
久々にマジで良い朝を迎えられたような気がする。あたしは早起きが大の苦手だったけど、これだけ清々しい朝を迎えたのは今日が初めてかも!
身体を起こして向かいにいるおねーさんに視線を投げかける。
「おはよう、まりなちゃんっ!」
「うん、おはよっ!」
おねーさんもとても良い表情をしてる。おねーさんの隣にいたあのぶつぶつ言ってたボサボサ頭の患者も、今日は珍しく大欠伸をしながら、腕のストレッチをしてた。
おめめパッチリの状態で、あたしは朝の薬を処理していく。朝飯を食った後の遊戯室での集まりも、患者が凄く活動的というか、とっても明るかった。
いや、患者だけじゃなく看護師もそうだった。ラジオ体操はみんなきびきびとしてて軍人みたいだったし、その後の自由行動の際なんか、まるで『一人はみんなのために、みんなは一人のために』状態で、全員が一つのグループになって賑わってた。
あ、一人だけグループの外にいたヤツがいる。そう――モチヅキだ。
あのモチヅキは昨日と変わらず部屋の隅っこで、体育座りをして患者たちをぼぅっと見つめてた。
なんだよノリが悪ぃなあ! せっかくみんなが一つになってんだからおめぇも空気読んで混ざれよ! そう思ってモチヅキのところまで行こうとした時――
「……………………」
モチヅキの生気のないギョロッとした目が、あたしを射抜いた。その瞬間、背筋が凍り付いて動けなくなる。
あの目はまるで神話に出てくるメヂューサのそれだった。ただ見られただけなのに、身体が固まってしまった。
「――――な、なに……これ……」
なんで……? なんで動けないんだろ……? それに、あのモチヅキの目から逸らすことができない。時間さえも止まってしまったみたいだ……
「――――まりなちゃん? どうしたの? こっちに来て遊ぼう?」
「―――えっ?」
横からおねーさんに声をかけられ、我に返った。
もう一度モチヅキの方を見てみると、モチヅキは体育座りをした状態のまま、俯いてた。
さっきの目は何だったんだろ……
とりあえず今はそのことは忘れて、おねーさんたちと楽しく過ごすことにした。
――――昼飯を済ませた後、あたしはベッドから身体を起こしてこれからどうするか考えた。
今は『赤い扉』のことは無視してた方がいいっぽい。きっと『闇社会』ってやつはこっちの動きに気付いたんだ。それ以上踏み込んだら間違いなくぶっ潰される。
でも、この病院で何が起こってるのか、その真相を確かめないと…………あたしはくたばる人生を送る羽目になってしまう。
――そんなことを考えていると、
「――気分が悪い、屋上に行きたいんだけど」
とすぐ隣のカーテンの向こうからモチヅキの声が聞こえてきた。
なんだよ、今度は外の空気でも吸いたくなってきたのかよ。昨日の我儘といい、ほんとにイカれてんじゃないの。
すぐに入口から足音が聞こえてきて、「モチヅキさん、気分が悪いんですか?」と看護師が声をかける。
「あぁ、とてもね。きみみたいな一方的な人間がいるせいでね」
「は……はぁ…………?」
「――隣にいるミヤガワさんと屋上に行こうと思うんだ――」
サーッとカーテンが開かれ、「――いいよね?」とそこからモチヅキの顔が覗かせる。
「えっ? あたし??」
「暇だから気分転換しに行こうよ」
いきなりなに言ってんだろ、こいつ――そう思って嫌そうな顔をしてやる。
「ほ、ほら、ミヤガワさんも嫌がってるよー? 付き添いならあたしがしてあげるから」
――よく見たらこの看護師、昨日あたしに付きまとってた三つ編み看護師の『おかむら』じゃんか。
「あー、あんたみたいなのが付き添いになったら、ただでさえイカれてるそいつがもっとイカれちゃうかもねー」
と、『おかむら』の顔を見ながらバカにしてやる。
「イカれてるとは少し言葉が過ぎるね、でも違いない。この看護師のせいで今の僕の気分は最悪だ」
「――じゃああたしにどうしろって言うの?」
『おかむら』は小さく舌打ちをしてあたしらから視線を逸らす。
「あっ……あの……っ!」
――さすがにこの状況がまずいと思ったのか分かんないけど、シライシさんがベッドから身を乗り出して声を張った。
「えっと…………患者さんの自由にさせてあげたらいいと思います…………」
最後の方は消え入りそうなもしょもしょとした声でそう言った。
「――――じゃあ勝手にすれば?!」
『おかむら』はそう言ってブチ切れながら、乱暴に三つ編みを左右に揺らして病室から出て行った。
「――やれやれ、ヒステリックな女だね……さあ、行こうか」
あたしとモチヅキは連れ立って、エレベーターに乗って屋上へ向かった。
―――庭園の長ベンチに並んで腰をかけたあたしたちだったけど、特に何か会話をするわけでもなく、互いに無言だった。
ちょっと気まずい状況だな…………こっちから話を振った方がいいのかな…………そう思い始めた時、彼が言った。
「――――僕の友達はね、この病院に殺されたようなものだよ」
「えっ……?」
いきなり本題を切り出されて戸惑うあたしをよそに、モチヅキは喋り続ける。
「大人たちがろくでもないせいで、人間不信になっていた僕の唯一の理解者であり、かけがえのない存在だった。彼は周りから執拗に受けた罵詈雑言や暴力によって、身も心もボロボロになってね…………まあ簡単に言えば、『イジメ』を受けてたわけだけど…………それでこの病院で『心療内科』を受診し、入院してきたんだ」
「ちょっと待って、『入院してきた』ってどういうこと? あんた、いつからこの病院にいるの?」
「三年くらい前からずっとだよ。親は僕の面倒を見るのが億劫になったのか、まるでここを施設のように扱ってね…………まぁ、居心地は悪くなかったから何も言わなかったんだけど…………」
――ろくでもない親っているもんなんだね…………そう考えたら、あたしの母さんはずっと、あたしと向き合おうとしてくれてたんだな……
「――――今年になってから、この病院はおかしくなり始めてね。死人が一気に増え始めるなんてどう考えても異常だった。そんなタイミングの悪い時期に彼が入院してきて…………違う病室だったけど、時間がある度に彼に会いに行ってた。それがいつの日か、『隔離病棟に移動した』とかなんとかって、看護師が言いだしてね…………『この心療内科には個室がないから、その代わりみたいなもので、心配する必要はないですよ』って適当なことを言われたよ。それから数日後、彼は発狂死したんだ。『壁に何度も頭を打ち付け、脳出血で死んだのだ』と…………!」
そんなことがあったんだ…………あたしと同じで、友達をこの病院で…………
ん? "あたしと同じ"? 里緒菜……里緒菜の死因…………
――その瞬間、色んな言葉が頭の中でフラッシュバックした。
『えーっと……なんだっけ…………娘さんの容態が急変し、高熱を出して危篤状態になっています……って言われたらしくて、駆け付けたときにはもう死んでたんだって』
『確かー、脳出血を起こしてたってハナシだったね』
『死因は、何か重たいもので頭部を殴られたことによる脳出血だ。病院側も、この頭の傷が死因に直結していると判断した』
『あの病院は、前年度と比べて今年度の死亡者数が圧倒的に多かった、それも桁が違う。一般の病院に比べて四倍の数字が弾き出され、明らかに異常な数値だったんだ。だからこの前、厚生労働省による調査があの病院に入ったんだが……何も不審な点は出てこなかったそうでな、お手上げ状態らしい』
『苗木里緒菜の死にも関わっている可能性がある』
『この『心療内科』って、個室がないじゃない? その個室の代わりに使われてるのが、あの赤い扉の先にある隔離病棟なんだって』
『それから数日後、彼は発狂死したんだよ』
――――もし、そうだとしたら…………
死人が出たのはこの一般病棟じゃなくて『隔離病棟』の方だった……?
確か『公安』の人の調べじゃ、この病院で死んだ人は他の病院と比べて四倍の数値が出てたって言ってたっけ。今、あたしの脳裏には恐ろしい想像が焼き付いてる。
まさか、『他の科』でも同じように手に負え無さそうだと判断した患者、というか『殺しても怪しまれなさそうな患者』をその『隔離病棟』に連れ込んで、そこで"止めを刺してる"んじゃないのかなって……
――あたしはモチヅキに話しかけた。
「ねぇ、モチヅキ。この病院にある隔離病棟ってさ、六階からしか行けないの?」
「ん? あぁ、そうみたいだね。他の階にはあんなものは存在しないよ」
「…………ちなみになんだけど、その隔離病棟って、"精神疾患を抱えた患者以外にも運ばれることってある"の……?」
「…………他の患者?」
あたしの言葉の意図を理解したのか、モチヅキは真剣な表情になった。
「…………なるほど、ね…………ハハッ……ハハ…………ハハハッ…………!」
彼は嘲るように笑いだした。
「そうか……死の匂いはあそこからだったか……道理で『招かれざる客人』がいるわけだ」
「ねぇ、いい加減教えてよ。その『招かれざる客人』って誰なの?」
そう尋ねると、彼は驚いた顔をしてあたしを見る。
「え、もしかしてきみ、気づいてなかったの?」
「はっ? 何にだよ?」
すると彼は、驚くべき言葉を口にした。
「――その招かれざる客人が『患者や看護師と日に日に成り代わっていたこと』に」
――――モチヅキだけは気づいてたんだ。その嗅覚の鋭さを活かして、この病院の異常さにいち早く気づいてた。
話によれば、『招かれざる客人』ってヤツは、度々患者や看護師に紛れ込んであたしたちを監視してたらしい。
ただ、なんでそんなことをしてるのかまではさっぱり分かんないらしい。だからあたしは尋ねてみた。"あたしが入院してきてから、誰が『招かれざる客人』となり替わってたのか"を。
「――――きみが入院してきてからか…………そうだね、じゃあまず初日。夕方の薬を運びに来た『まつした』っていう看護師がいただろう? あれは偽者だよ」
「初日にあのうるうるとした目で見てきた看護師が……全然分かんなかった」
「――次。確か昨日の交流タイムの時かな……ほら、きみと話をしてた時、乱入しようとしてきた『おかむら』って看護師がいただろ? あれは偽者だね」
確か、入院生活三日目の朝だっけ。ずっとあたしに付きまとってきてメンドーな女だなって思ったけど……
「――じゃあ今日は? 今日は誰に成り代わってるの?」
「正確には、『成り代わってた』が正しいかな。しかも『二度』だ」
「はっ……?! 『二度』……っ?!」
「一度目は『僕』に成り代わってて、二度目はさっきの『おかむら』って看護師と――」
「――ちょ、ちょっとストップストップ! え、『僕』って言った今?!」
「うん、だから一度目は『僕』と」
「ま、マジで追い付いていけないんですけど……」
「僕だってビックリしたよ…………遊戯室に行く前、ちょっとお腹を下してね……トイレで長くこもってたんだけどさ……それでも仕方なく集まりに参加してあげようと思って遊戯室に近づいたら、物凄く危険な匂いが漂ってくるじゃないか。それでドアのガラス越しに、僕がいつも座る場所をそっと覗いてみたら、そこに『僕』がいるんだからさ…………」
「えっ…………」
――――あのギョロっとした目は普通じゃないと思ってたけど……まさかあれが『偽者』だったなんて……
「――で、その後あんたどうしたの?」
「いや、どうも何も、またトイレに籠ったさ。だって怖いじゃないか。そのまま病室に戻って後ろから刺されたりしたら嫌だし…………だから『交流タイム』が終わる時間を見計らって病室に戻ったよ。その時にはもう危険な匂いはしなかったけどね」
「…………それで、二度目はさっきの看護師なんだ?」
「あぁ、何を思ったか、『付き添いならあたしがしてあげるから』とか言い出してさ。今まで一度だってそんなこと言わなかったくせにね」
「ふぅん…………」
「まぁ、そういうことだよ。この病院はおかしい。きみも背後から刺されないように気を付けるといい……」
そう言ってモチヅキはベンチから立ち上がり、エレベーターの方まで歩こうとするので、慌てて引き留めた。
「あ、ちょっと待って!」
「ん……?」
モチヅキは顔だけをこちらに向けて立ち止まる。あたしも立ち上がって訊いてみた。
「あのさ……なんか特徴ないの? その『偽者』だって見抜くコツとかさ」
「そうだね…………特に顕著に表れているのは『目』だ」
「『目』?」
「きみも見てるはずだよ、アレが時折見せる『異常な目』をね」
「――あっ…………」
そういえば…………有無を言わさず相手を従わせるかのような不思議な目をしてたな…………まるで石化魔法にでもかかったかのような感じになる。
モチヅキはこう答える。
「あれは『精神病質者』によく見られる特徴でね。一見すると社交的で、馴染みやすそうな雰囲気を漂わせているけど、時折相手を従わせんとするかのような冷酷な目になることがある。それは自分にとって不利益なことが起こりうる際、無意識の内に見せている本性のようなものだと思う」
自分にとって不利益…………
「今回紛れ込んだ『招かれざる客人』は、会話の中で『自分という存在』が貶められるような発言を受けた際に、目つきと言動が一緒になって現れてるみたいだね」
「…………つまり、それが出てきたらそいつが……」
「可能性が高いと思うよ…………それじゃ、僕は病室に戻るよ。特に、誰かが隔離病棟に移動させられた日は気を付けた方がいい」
モチヅキはそう告げると、今度こそこの場から去っていった……
――――一人、屋上に取り残されたあたしの頭の中に確信めいたものがあった。
それは、『招かれざる客人』=(イコール)『闇社会』だということ。
『招かれざる客人』は患者や看護師に化けて次々と患者に手をかけていったんだ。里緒菜に止めを刺したのもおそらくそいつだ。
そして………杏奈を殺ったのも……きっとそいつなんだ…………っ!
あたしは震える身体を両手で抱きしめるようにして、心を落ち着けていく。今、あたしの五感は『黄信号』から『赤信号』に変わってる。
――――もしかすると、次に『隔離病棟』へ幽閉される人は…………おそらく…………
――――モチヅキから衝撃の告白を受けたその二日後の病院生活六日目の朝のこと。
病室の入り口側にいた『ウエスギ』とかいう青年は私服に着替えてた。聞けば「体調がすっかり良くなったから、今日で退院します」とのことだった。まぁ、この人とは一度も話したことないからよく知らないけど…………"無事に退院できて良かったな"と思う。
あたしは神妙な気持ちでその人が病室から出て行くのを静かに見守った……
――――そして次の日、病院生活七日目のお昼三時過ぎのこと。
――――異変は始まった。
「――ぁあああああぁあぁあっ!! 怖いっ!! 怖いっ!! 助けてぇっ!!」
――――突如、すぐ近くから女性の悲鳴が聞こえてきた。自分のベッドで仰向けになって、うつらうつらとしていたところを叩き起こされたような気分だった。
その声の正体を確かめるべく、身体を起こしてみると、入口から見て二列目の右側にいた患者、「イシカワ」とかいうおばさんが、ベッドの上で頭を抱えてじたばたして暴れてた。
その騒ぎを聞きつけた二人の看護師が病室に駆け込んでくる。
「ひぃいっ!! ひぃいいいっ! 来るなぁあああ!!」
おばさんは看護師たちを見るなり更に怯えて、両手で振り払うようにして看護師たちを拒絶する。
「イシカワさんっ! 落ち着いてくださいっ!」
看護師たちは必死にイシカワさんを宥めようとしたけど、落ち着く気配がない。
そして看護師の一人、おさげの髪の『いけだ』とかいう看護師が、少し乱暴におばさんを押さえつけると、おばさんの右腕に何かを注射した。
するとさっきまで暴れてたおばさんが急に大人しくなった。『いけだ』看護師はそのままゆっくりとおばさんを仰向けに寝かせる。
「――大丈夫ですからねー、イシカワさーん。もう何も怖くありませんからねー」
そして『いけだ』看護師のすぐ横にいた『おかむら』看護師が「あ、あの……『いけだ』さん、注射して良かったんですか……?」 と不安げに尋ねる。
…………あれ? この『おかむら』看護師、さっきとは違う?
「――大丈夫ですよ『おかむら』さん、先生から許可を頂いてるので」
と語る『いけだ』看護師。
「え……でも……私が習ってきた対処法とはなんか違う…………」
『おかむら』看護師は少しか細い声でそう反論する。やっぱ変だ。
「――あたしは何も間違ってませんよ? とにかく、この患者さんには個室に移って頂くことになりそうです」
…………そっか、わかった!! 『一人称』が違うんだ!
『おかむら』看護師は自分のことを『あたし』と言ってたのに、今は『私』になってる!
もし、『私』と言ってる方が本物だとしたら…………!
「あっ、あの――――!」
あたしは身を乗り出して、看護師を呼び止めた。
「――――っ」
刹那、『いけだ』看護師のギョロっとした目がこちらに向いた。あたしは咄嗟に目を逸らして、『おかむら』看護師の目を見る。
「い、いくらなんでも…………扱いが酷くないですか? なんか見てて怖いですよ?」
「ほ、ほら……『いけだ』さん? 周りの患者さんの目もありますから、もう少し冷静に――」
「――――っ」
「…………っ!?」
そう言って『おかむら』さんが『いけだ?』――に顔を向けた瞬間、その『いけだ?』のギョロっとした目を直視し、大きく後ずさった。
「――――『周りの患者さんの目もありますから』、この患者さんには個室に移っていただいた方が、他の患者さんの療養になるでしょう、と申し上げてるんですけど、あたしは」
『いけだ?』の迫力に圧された『おかむら』看護師は、それ以上何も言わなかった。どうしよう、このままだとこの患者さん、あの隔離病棟に連れて行かれちゃう。
「――――とりあえず、きみたちさっさと出て行ってくれないかな」
思わぬ助け船が入った。隣のベッドにいたモチヅキが珍しく声を張ったんだ。
「――――っ」
再び『いけだ?』のギョロっとした目がモチヅキを射抜く。だけどさすがと言うべきか、モチヅキはまったく動じることなく続けた。
「いいね、その目。でもそれはもう"何度も見慣れた目"だ。きみみたいな人間にも分かりやすく言ってあげるよ。その患者を連れてさっさとこの部屋から出て行け!」
ちょっとモチヅキーっ! 『その患者を連れて』は一言余計じゃんっ!! このままだと『イシカワ』さん連れて行かれちゃうじゃんっ!! バカじゃん! バカバカっ!!
「――――それでは、失礼しました」
『いけだ?』は何事もなかったかのように『おかむら』看護師に目で合図をすると、『イシカワ』さんが寝ているベッドごと、病室から運び出していく。
そして出る間際――
「――――っ」
『いけだ?』のギョロっとした目がこっちを向いた。あたしは再び視線を逸らして俯く。
――――少しして、妙な静けさがこの病室に訪れた。
心臓がバクバク鳴り出した。あたしは凄く緊張してたらしい。背中に嫌な汗をびっしょりとかいてて、気持ち悪かった。
ふと、向かいにいるおねーさんと目が合った。
おねーさんもさっきのやりとりに違和感を覚えてたのか、とても不安な表情を浮かべてた。
「何なのかな…………あの看護師さんたち、いつもと全然違ったよね……」とおねーさんは言う。
「そうだね…………」とあたしは曖昧に頷くと、おねーさんは布団を被って横になった。
あたしも足元のカーテンを左の窓際まで引っ張って、布団を被って横になる。
そして頭側にあるカーテンを少し開き、棚越しに「ちょっとっ、モチヅキ……っ」と小声でモチヅキに呼びかける。
モチヅキも足元のカーテンを閉めた後、頭側にある棚の隙間から顔を覗かせる。
「――どうしたのさ?」
「いや、『どうしたのさ』じゃなくて! あいつだよね……っ!? 『偽者』……っ!」
「うん、そうだね」
「『イシカワ』さん連れていかれちゃったじゃん……! どうすんの……!」
「どうにもならないよ……むしろあの状況で、患者を留まらせる方が逆に危険だ」
「どうして……!」
「あの患者の錯乱ぶりを見て、何も思わなかったのか? さっき駆け込んできた看護師だって、もう見慣れた連中じゃないか。それなのに、いきなり看護師を見るなり怯えだすだなんて…………いくらなんでも異常だよ」
「確かにね……」
「それこそよく似てるじゃないか……『禁断症状』とさ」
「――――っ!」
『禁断症状』…………薬物を摂取してたヤツが、いきなり量を減らしたり止めたりした時に出る症状だっけ……さっきの錯乱状態がその一つだとしたら……
「――――僕も最初は変な薬物でも打たれたのかと思ってた。でもここ数日間、あの患者の様子を見る限り、そんな様子はなかった。なぜなら、一般的に知られる禁断症状というのは、薬物を突然止めてから四十八時間以内に現れるとされているからだ。まあ、たまに数日後に現れるものもあるけどね」
「えっとつまり……? この二日間以内に、あんな錯乱状態になるような原因があったってこと?」
「あぁ、そうだよ」
「――なるわけないじゃん」
あたしは鼻で笑ってやる。薬物依存者でもない限り、錯乱するなんてことあるわけないじゃん。
「――――なるほど…………これで全て納得できたよ」
「は?」
モチヅキは確信を持った顔でこう言った。
「きみはやっぱり…………毎日出されていたあの薬を"一度も飲んだことがない"んだね」
「えっ……」
――なんでそんなことがわかるわけ……?
「病院から説明を受けてるはずなんだけどね…………あれは『向精神薬』と呼ばれる種類の薬でね、精神病の治療に使う薬から抗うつ剤、抗不安薬、睡眠薬、さらに幻覚を起こさせるような薬物すべてを含めてそう呼んでいる。そのため、患者ごとに成分量や飲む頻度が調整されているんだよ」
あぁ、なんか医者がそんなこと言ってたような気が……
「精神病を患った患者はその薬を服用して、精神を落ち着けたり、眠れない夜を乗り越えたりしてるのさ……でもね――」
モチヅキは真剣な表情になって続ける。
「――その分、『禁断症状』というか『離脱症状』も酷いんだよ……」
「それとあのおばさんと何の関係が……?」
「そのおばさんがここ数日間に飲んでた薬が本当に『向精神薬』だったのか……」
「それって……?!」
「そう、全く効き目のない違う薬を飲まされていたか、そもそも『向精神薬』として機能していなかったか……いずれにしても、あのおばさんの病状が快方に向かっていたとは、とてもじゃないけど考えられないね。だから…………」
「『この病室に留めとくのが危険だ』って、そう思ったわけ?」
「あぁ、そうだよ。逆に暴走されて襲いかかられる方がとても危険だ。それなら、隔離病棟に居てもらう方がまだ安全さ」
「でもあの隔離病棟は――」
「――なぜそこまでしてあの隔離病棟に拘るの?」
「えっ……?」
「自分達のことより、他人のことばかり目を向けているようにも見える。ひょっとして、きみがこの病院にやってきたのは…………『この病院にまつわる死の真相』を解き明かすためなのかい?」
「…………」
…………あたしはそれを『違う』と言い切ることができなかった。だって実際にその通りだったし。
もうこいつには何もかもお見通しなのかもしれない。
「きみにはきみの事情があると思うから、それ以上に理由は聞かないよ。でも……もしその通りなら…………どうか『この病院』を解放してやってくれないか」
「……えっ?」
「『この病院』に巣くっている闇を、追い払ってほしい。このままだと気味が悪くて、ちゃんとした療養ができないからさ…………もちろん、手伝いならいくらでもしてあげるよ」
「モチヅキ…………」
――すでにあたしの正体も見破られてる。なのにこいつは、『あたしの目的』のために協力をしてくれると言ってる。味方が増えるのは心強いけど……甘えちゃっていいのかな……
迷った末にあたしは答えた。「――わかった」と。
「ふっ……」
初めて見せたモチヅキの笑顔は、最初に出会った頃の不気味な顔とは全然違って年相応のものだった。
「――――今の話、本当なの……?」
そういえば、おねーさんの存在をすっかり忘れてたな……まさか、あたしのベッドの下に潜り込んでずっと聞き耳を立ててたなんてね…………しかも事の顛末を全部聞かれてたなんて…………
――――おねーさんはあたしのベッドからすっと離れて自分のベッドへ戻ると、自分の所のカーテンを端から端まで全部閉めきってしまった。怒らせちゃったかな……そりゃそうだよね。あたしは病気でもなんでもないのに、ここに来たんだからさ……しかもこの病院の調査のために。
それで自分たちと交流を持たれてたんだって知ったら…………ショックだよね。
「ごめん…………」
誰に対して言ったわけでもなく、あたしはそう呟いた――――
(第五幕へ続く)