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ありがとう、と言えなくても……  作者: デルタミル
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第三幕 -疑惑の病院潜入作戦 前編-

 ――あたしは今、須々田総合病院の六〇六号室に『心療内科』で入院してる。

 どうやってそんなことができたかって……? それを語るために、今から数時間前に遡る必要があるね。






 ――数時間前。




 公安の男に言われて、大人しく家で待つこと十五分。


 インターホンが鳴ったので受話器を受け取ると、「こんにちは宮川さん、"あなたの母親の親友"としてここに来るようにってあの男に言われたんだけど、開けてもらっていい?」と女らしき声が聞こえてきた。「ちょっと待っててください」とあたしは答えて、一度受話器を戻す。

 玄関のドアにある覗き穴から誰が来たのか確かめようと試みた。


 ――三十代くらいの茶髪、縦ロールの髪の女……黒色のスカートスーツ……を履いてる。そうやって、覗き穴を覗き込んでいると、女はにっこりしながら覗き穴に向かって手を振った。


「ひっ……?!」


 ガシャンッ!


 思わずあたしは悲鳴を上げて、バランスを崩して床に尻もちをついた。今の物音は当然外にいる女にも聞こえているはず。


「もしかしてビビってるの? 可愛いところもあるのね。いいから早く開けてくれない? 話が進まないから」


 物腰は丁寧なんだけど、相手を威圧するような言い方だな……あたしは女の言う通りに家に招き入れることにした。

 それがそもそもの間違いだったのか、あたしはこの後とんでもない芝居をさせられることになったのだった……






 それから一時間後、あたしは"生きる気力を失くしたかのような本当に疲れた顔"をしながら、須々田総合病院の『心療内科』を受診し、待合席でぼーっとしてた。横にはあたしの母さんの"親友役"の『斉藤さいとう真理愛まりあ』さんが座ってる。


「大丈夫……まりなちゃん? 気をしっかり持ってね?」

「……………………うぅ…………」


 ――目の前の真っ白な壁を焦点の合わない目で見ながら、曖昧な返事をする。

 やがて、診察室からスタッフが出てきて「宮川まりなさん、どうぞ――」と声をかけられる。あたしは『はい……』と返事をして、すーっと立ち上がる。

ついに大芝居を打つ時がやってきたんだ――――






「――ということがあって、まりなちゃんはこんな若くして、辛い経験ばかりして……心身共にボロボロなんですよ」


 斉藤さんはいかにもって感じの悲しいエピソードを語りだし、目の前に座る男性の医者を魅了していく。


「……なるほどですねぇ…………宮川さん……宮川まりなさん、ちょっとこっちを向いてください」


 ――医者に言われるまま、あたしはぼんやりと医者を見つめる。


「……こんな早くに身内を亡くして、辛かったでしょう…………夜になるとうなされ、突然泣き出すというのは、ここに来られるほとんどの患者さんも体験してることでして……ちゃんとした環境で、療養される方がいいと思います」


 あたしは曖昧に頷く素振りを見せる。


「そうですね、やっぱり私も四六時中面倒を見れるわけではないので……独りにさせるのは不安なんですよね……」


 と斉藤さんは不安げな表情を浮かべつつ、そう語る。


「分かりました……では、まりなさん」


 名前を呼ばれて、ぼんやりとしたまま顔を上げる。


「…………はい?」


 ――今にも死んでしまいそうな声を出しながら、この世の終わりのような顔をしてやる。


「しばらくの間、この病院に入院しましょう。今は六人部屋の病室しか空いてないので、他の患者さんと同室になりますが、よろしいですか?」

「…………はい」











 ――――苦労したよ。入院までこぎつけるのにね。

 ほんの短い時間の間で問診票を熟知して『正常な人とはちょっと違う』ということを証明しなくちゃいけないし、そのために身動きや表情の動かし方もそれっぽくしなきゃだし…………でも『異常者』だと判断されると、今度は隔離されることになっちゃうから、バランスのとり方が難しかった。

 なんで『心療内科』で潜り込むことになったかというと、それは単純な理由で、話を通しやすいからなんだって。

 病気とか骨折なら一発で入院することになるけど、あたしはどこも悪くないし、かといって里緒菜と同じように頭を殴られるのとか嫌だったし……そしたら、『精神的なもので入院する方法』を取ることになったわけ。

でも、公安の調べによると、心療内科でも死者が出てるらしい。しかも『精神的衰弱死』として……つまり自殺だ。

舌を噛みきって死んだヤツもいれば、壁に頭を何度も打ち付けたせいで死んだヤツもいれば、どこから盗み出したのか知らないけど、メスを握って頸動脈を掻っ捌いて死んでたヤツもいたらしい……

公安の言うことを信じるなら、マジで洒落にやらない話だよ。




 ――それでようやく六〇一号室に潜入した時には、もう日が沈み始めてた。


 とりあえず、病室に入って荷物をベッドのすぐ横にある棚の中にしまう。荷物と言っても、外出用に使ってた紫色のポーチだけだけど。そのポーチの中には電源を切った状態のスマホとリップクリームと爪切りしか入ってない。まぁ、今は使うこともないか……


 その後、パジャマタイプの病衣に着替えて少ししてから、看護師がポニーテールの髪をなびかせながらやってきて、「後で夕方のお薬をお持ちしますね」と言って病室から出て行った。

 その後、あたしのベッドの左脇にあった来客用の椅子に座っていた斉藤という人が、小声で『今日はまず、同室した患者を把握しておくのと、この病院の構造を頭に叩き込んでおきなさい、わかった?』とあたしに耳打ちして、すっと顔を離し、「じゃあね……まりなちゃん…………またお見舞いに来るからね……」と、とても寂しそうな表情を作って病室から出て行った。

 演技でそんな顔してるんだろうけど、『ガチであたしのことを心配してくれてるのかな?』って思ってしまうほど、あの女の演技スキルは高いものだった。




 ――さてと、まずは状況を確認しておかないとね。


 ここは六人部屋の男女混室で、入り口から見てベッドは横向き、左列と右列にそれぞれ奥から順に三台並び、備品の配置の仕方も左右対称になってた。

 あたしのベッドは病室から入って一番奥の左側、つまり窓際にあった。隣同士の患者のことを考えてか、それぞれのベッドの左右にはカーテンが仕切られてる。


 自分のベッドの上で仰向けになっていたあたしは、身体を起こして向かいにいる患者を凝視してみた。


 …………向かいのベッドの足元の柵にかかっているネームプレートを見てみると、カタカナで『シライシ アカリ』と大きな文字で書かれてる。結構若いなぁ……いくつくらいの人なんだろ。髪は艶のあるロングストレートて、とても優しそうな顔をしてるんだけど……どこか影を感じる人。いや、ここ『心療内科』に入院してる患者だから当たり前か……

 その人は身体を起こした状態のまま、ぼぅっと窓の外を眺めていた。なんか気になるものでもあるのかと思って、あたしも窓の外を眺めてみる。


 六階は思ったより高くて、外の街並みが良く見える。この時間帯はちょうど『ご飯時』なのか、車や人の往来が激しそうだった。

 きっと、家に帰ったら用意された夕食にありつくんだろうな……それとも、これから家族みんなでどこかレストランに行って贅沢でもするのかな……

 あたしは不意に、杏奈と里緒菜と三人でバカ騒ぎをやっていた頃のことを思い出し、目頭が熱くなる。




「…………ぐすっ……うっ……」


 ――いきなり誰かのすすり泣く声が聞こえてびっくりした。一瞬自分の声かと思ったけど違う。

 もう一度向かいの患者に視線を戻すと、その人は窓の外を見ながら泣いていた。


 …………ひょっとしたら、この人もあたしと同じようにこの街並みを見てたのかな。きっと、何か大事な物を失くして、ずっと苦しんでるのかもしれない……

 そう思っていると、あたしの視線に気が付いたのか、シライシという人はこちらに顔を向けた。あたしは咄嗟に目を逸らす。

 そうだ、あたしは今"病気のフリ"をしてるんだ。本当に苦しんでいる人に対して、どーのこーの言う資格もないし、関わる資格もない。



「…………初めまして……かな? 『ミヤガワ』さん……?」


 ――向こうの方から話しかけてきた。


「えっ……あ、はい……初めまして……『ミヤガワ』です…………」


 そうやって自己紹介をするとシライシさんって人は優しく微笑み、なんだか気恥ずかしくなったあたしは思わず視線を逸らした。


「よろしくね……?」

「う、うん……」


 あたしは自分の髪を弄り回し、きょろきょろと視線を迷わせる。正面を向いたらシライシさんと目が合いそうだったから。ま、まぁ向こうから話しかけてきて無視するわけにはいかないもんね……でも、なんか照れるんですけど。


 ――その時、ちょうどタイミング良く入り口の方から足音が聞こえてきて、カーテンの向こうからさっきのポニーテールの看護師が顔を覗かせた。


「宮川さん、夜のお薬をお持ちしたので、飲まれてください」


 そう言ってベッドに備え付けられたテーブルの上に、アルミ包装された白い錠剤が一つと、一杯分の水が入ったコップが置かれた。


 ――でも問題が一つ。"あたしは病名を偽って入院してる身"で、健康体なんだよね。つまり、薬を飲むとかえって身体を壊す危険があるわけだ。だから"飲むフリをして吐き捨てるように"ってあの斉藤って人から言われてる。


「――――ミヤガワさん?」


 看護師が目をうるうるさせてこちらを見る。なんていうか…………不思議と言うことを聞きたくなるような不思議な目だ。看護師の胸ポケットについてるネームプレートをちらりと見てみると平仮名で『まつした』と書かれてた。なんだよ、可愛い子ぶってんのかよ……ムカツク。


 まったく……演技をするのも結構大変だなと思いつつ、あたしはアルミ包装紙を指で押し開け、中から錠剤を手の平に落とし、それを口に放り込む。

 奥歯の方に錠剤を逃がしながら水を含んで、上手く水だけを飲み干した。


 ――看護師はあたしが薬を飲むのを確認すると、空になったコップを回収して、向かいの患者にも同じようにしてテーブルの上に薬とコップを置く。

 それで看護師があたしに背を向けている間に、あたしは右手の人差し指と親指で口元を覆いながら、そっと錠剤を吐き出し、指で摘まんで枕の下に隠した。まぁ、この薬は後でトイレにでも流しとけば大丈夫っしょ。



 ――――少しして、ベッドの左横、棚の上に立てかけられた電子時計を見てみると、もう夜の六時半を回ってた。多分晩飯が運ばれてくるのは七時くらいかな。

 あたしは枕の下に隠した薬をそっと手に忍ばせ、フロアを散策することにした。この病院の構造をある程度把握しておきたいし。



 病室から出ると、右手と左手に通路が広がってる。右手はすぐ壁に突き当たって左に通路が続き、左手は直線上に通路が続いていた。まずあたしは右手から進んでみることにする。

 すぐに壁に突き当たって、角を左に曲がり、少し長い通路を歩いていく。右手に病室が並んでいて、左手は一面壁になっていた。あまり病床が少ないのか、病室から病室までの間隔は広かった。一番奥が六〇一号室か……ここからちらりとだけど、スタッフステーションの端っこが見える。

 六〇一号室がちょうど壁際になっていて、また左に通路が続いていた。ちなみにその左に曲がってすぐ右手にはスタッフステーションがある。

 中で看護師たちが忙しく作業をしている。そのうち、三つ編みの看護師があたしの顔を見るなり、優しく微笑んで会釈してきた。あたしも適当に会釈しておく。


 ――スタッフステーションの前を通り過ぎていくと、通路の途中で左手にエレベーターが設置されていて、その向かいには非常階段があった。

 そのまままっすぐに行くと、左手には西トイレがあって通路が広がってて、正面は連絡通路みたいな場所に出るみたいだ。多分ここが西病棟と東病棟の中継地点なのかも。

どうやら病棟の構造は漢字の『回』の形をしてるっぽいね。


そしてそのまま正面にあるほんの少しの連絡通路みたいな所を歩いていく。両側は全面ガラス張りになっていて、体当たりしてガラスが割れたりしたら、そのまま真っ逆さまに落ちてしまいそうだ……

連絡通路の向こう側には、また同じようにスタッフステーションや病室があるのが見える。


 まず東病棟に入ってすぐ右に曲がると、左手に東トイレ。そして右手には『遊戯室A』と書かれた表札が目に入った。

 もしかしたら、患者同士で集まってなんかする部屋なのかも。その奥にはもう一部屋『遊戯室B』が用意されてた。あたしはその通路を歩いていく。


 東病棟も西病棟と似たような作りで、点対称の構図になってるっぽかった。建物のバランスを取るためかどうかはわかんないけど。

 

 病室を通り過ぎてフロアをぐるりと回り、遠くに西病棟へ続く連絡通路があるのを確認しながら東病棟のスタッフステーションの前を通り抜けていくと、通路の途中で左手に妙な扉があるのを見つけた。赤い扉だ。


「……なにこれ……『隔離病棟直通エレベーター』?」


 その赤い扉にステンレス製の横掛金がかけられてあって、輪っかの部分は南京錠で施錠されていた。多分この先がエレベーターと思うけど……まるでその赤が血を連想させるみたいですごく不気味だった。

 ……そしてその扉の隣に通常のエレベーター、向かいに非常階段があって、正面に連絡通路。その左手にさっき見た東トイレがある。


 とりあえず東病棟のトイレに入り、用を足すついでに隠し持っていた錠剤を処分した。


 ――再び連絡通路を通り抜け、西病棟へ戻ってきたので、今度はさっきの左側の通路に出てみることにした。

 すぐそばにある西トイレを通り越して、突き当たりを左に曲がる。そして通路の右手に病室がずらりと並び、その突き当りにある自分の病室、六〇六号室へとようやく戻ってきた。


 とりあえず大体の構造は把握できたと思う。後は自分のベッドに戻るついでに、全員の患者の顔と名前を確認しとこう。


 ――病室に入り、まず手前から一列目、右が『ウエスギ リョウ』、短髪で二十代後半くらいの青年男性がベッドで横になってる。左が『モトヒラ ヘイハチ』、スキンヘッドで四十代くらいのオッサンが、備え付けのテレビを寝ながら観てた。

 次は二列目。右が『イシカワ リョウコ』、ボサボサの長い髪を垂らした四十代くらいのオバサンが、ベッドで仰向けになって何かぶつぶつ呟いてた。独り言なのか、ちょっとヤバイ状況なのかは分かんない。

 そして左の患者の名前を見ようとして――


「…………」


 その患者と目が合った。髪の長い男、まだあたしと同じくらいの年か、それ以上か。ソイツはベッドから身体を起こした状態であたしを見上げてた。

 なんだろ……ソイツの目を見てると、どんどん吸い込まれていくような……そんな感じがした。




「――――きみは……『招かれざる客人』だね?」




 ――ソイツは小さな声でそう言うと、薄く微笑んだ。

 あたしは聞こえないふりをして、ネームプレートを確認する。『モチヅキ ハヤテ』か。なんか変わったヤツだな。


 そして何事もなかったかのようにその場を通り過ぎて、一番奥の列に着く。あたしのベッドの向かいにいた『シライシ』というおねーさんは、布団をかぶって寝てるみたいだった。あたしはそのまま自分のベッドに入り込み、晩飯の時間まで寝ることにした。




 ――しばらくして、病院食が運ばれてきた。出されたのは……白米、麻婆まーぼー茄子なす、ドレッシングのかかった野菜サラダか。

 そういえば、母さんが死んでからまともな飯なんて全然食ってなかったな……


 まずは気になる麻婆茄子から食べてみる。うん、辛すぎず、食べ応えがある。野菜の方も口に入れてみると、ドレッシングが丁度いい量なのか、こっちも味がしっかりしてて文句なし。あとは白米か。

 ――この白米はちょっと柔らかすぎるんじゃないかな。なんか歯の悪いジジイやババアが食べるような固さだった。あたしはどっちかっていうと固めの白米が好きだ。そういえば、母さんの作るご飯も固めだったっけ……



 とりあえず、ここの病院食は食べれなくないことはわかった。まぁ、不味いよりはマシだよね。




 ――そして夜の八時を過ぎた頃、今度は三つ編みの看護師が病室にやってきた。


「『ミヤガワ』さん、寝る前のお薬をお持ちしましたよー」


 看護師はアルミ包装された白い錠剤と、一杯分の水が入ったコップをベッドの上のテーブルに置いた。

 あたしはさっきと同様に薬を飲むふりをして、水だけを喉に流し込む。なんか飲むところをじっと見られるっていうのも気持ち悪いなと思いつつ、看護師のネームプレートを確認する。

『おかむら』ね、ちょっと『陰キャ』っぽい表情をしてるな。



「はい、それじゃあコップを持って行きますねー」


 そう言って看護師は空になったコップを持って隣のカーテンの向こう側へと消えて行った。




 ――看護師が完全にいなくなったのを確認して、あたしはトイレに行って用を足し、口の中に含んでた錠剤を吐き捨てて流した。




 ――『病院内で起こっている異変の調査』、それがあたしに課せられた仕事だ。

 夜の九時、消灯時間を回って一時間経ってから、あたしは"トイレに行くフリ"をして病室から抜け出し、夜の病院を探索することにした。




 ――廊下は真っ暗で、唯一非常灯の明かりだけがうっすらと廊下を照らしてた。

 マジでキモいくらいに周りは静まり返ってる。これだけ静かだったら、なんか騒ぎが起きたらすぐに気づくだろうに……

そんなことを考えながらトイレとは反対の方角の通路を歩いてると、電気が付いてるスタッフステーションの中から出てきたおさげの髪の看護師とすれ違う。


「――あら? どうかされました?」


 看護師にそう尋ねられてあたしは、


「――トイレです」


 って言って看護師の横を通り抜ける。


 そしてスタッフステーションの前を歩きながら、中にいる看護師の数を数えていく。

 ……あれ、一人だけ? 夜勤看護師はさっきの巡回看護師と合わせて二人体制なのかな。

 そしてエレベーター前を通過し、連絡通路前へ。


 ここから同じく東側の電気が付いたスタッフステーションの中がちょっとだけ見えるけど、そっちにも看護師がいるっぽい。今のところ確認できた看護師はこれで合計三人だった。


 ……それだけ多くの看護師がいるにも関わらず、患者が死ぬってどういうことなんだろ……?


 そして連絡通路前から左に曲がってトイレの中へ。さすがにないとは思ったけど、念のためトイレの中も調べてみた。

 どっかに血跡がないかとか、誰かのSOSエスオーエスを求めるメッセージが隠されてないかとか、くまなく探してみたけど、そんなものはやっぱりどこにもなかった。

 仕方なく病室に戻って、そのまま眠りに着いた。入院生活一日目は何事もなかったと……











 ――入院生活二日目の朝の六時。


なんでそんなメンドくさい時間に起きなきゃいけないのか。答えは簡単だ。


「『ミヤガワ』さーん、朝のお薬の時間ですよー」


 おさげの髪の看護師に優しく起こされ、仕方なく起きる羽目になった。なんだ、この母性的で癒される声は。『いけだ』か。

『いけだ』看護師は、目の前のテーブルの上に薬とコップを置くと、すぐ隣にいる不気味な患者の所に移動した。

 あたしは寝ぼけたまま、出された薬を飲むフリをして水だけを飲み干す。


「ふふっ、『ミヤガワ』さんって、朝に弱いんですか?」

「――ふぇっ?!」


 すぐ真向かいから女の声が聞こえてきて、あたしの眠気は吹っ飛んだ。

 シライシさんはベッドから身体を起こして、あたしに微笑みかけてた。

 あたしは慌てて右手人差し指と親指で口元を隠し、薬を手に忍ばせる。


「えっと……まぁ、そんな感じ? ――あ、そんな感じ"ですね"っ」


 つい、いつもの癖でため口で話してしまったので、慌てて言い直す。


「無理して敬語で話さなくても大丈夫だよ……? 気軽に話しかけてね。私も……ため口で話すね」

「あっ……そ、そう……?」


 ――まぁ、向こうがそれでいいって言うなら、あたしも気楽でいいんだけどさ。

 なんていうか、ちょっとやりずらいんだよな……この人。だってあの交番で話した『風見』とかいう女と似た雰囲気を感じるんだもん。

 目と目が合う度、シライシさんはあたしに微笑みかける。まるで子供に接するような優しい目をして。




「シライシさんって…………若いの?」


 とりあえず、適当に質問してみる。


「いくつくらいに見える?」


 ――出た、このくそメンドーな質問。実年齢より老けた数字を言ったら、『わたし、まだそんな年齢じゃないんだけど?』って返ってくるやつだ。今度は若く言ったら言ったで、『わたしって子供っぽく見られてるってこと?』って文句を言われるんだろう。

 マジで返答に困る質問なんだよね。




「うーん、分かんない。いくつなの?」


 ――『分かんない』と返しておく方が一番無難に思えた。


「私ね、今二十七歳なの、ミヤガワさんは?」

「あたし? 今、十七だよ」

「十七なんだ……! じゃあ高校二年生かな?」

「うん、まぁ」

「その金髪もなんか可愛いね。元気いっぱいの女の子って感じがする」

「そうかな……?」


 ――あの風見ってサツもそうだったけど、なんで初対面の女って髪を誉めたがるのかな。憧れ? ただの話題作り? それともインパクトが強いから?


 ――それから十数分くらい雑談した後、看護師が持ってきた朝飯にあたしたちはありついたのだった……

 あ、そうそう。忘れないように、朝飯食ったらトイレに行ってこいつを棄てておかなきゃね……






 ――朝の様子を観察する限り、多分フツーの病院とどこも変わりはなさそうだった。『心療内科』で死人が出たっていうのは、ほんとにただの偶然じゃないかな。潜入する場所を間違えたんじゃないかって後悔し始めたくらいだ。




 それから約一時間後の朝の九時を回った頃、あたしたちは例の東病棟にあった遊戯室Aという部屋に移動していた。そこには他の患者たちや看護師たちも集まってる。

 さて、これから何が始まるのかと思えば……


「いちっ、にっ、さーんっ、しっ、ごー、ろくっ、しちっ、はちっ」


 ラジオのスピーカーから流れてくる『ラジオ体操』の声に続いて、朝の体操が始まった。ラジオ体操なんてやったの、小学生以来だよ。


 ――朝の体操が終わると、病室ごとのグループに分かれて、何かミニゲームみたいなものが始まった。看護師が披露するマジックだったり、すぐ近くにあるゲーム機で患者たちが遊んでたり、音ゲーとかやり始めたり……

 グループごとに看護師が付きっ切りでみんなの世話をしてる中、一人だけ部屋の隅でぽつんと座っている患者がいた。



「シライシさんっ」


 そう言ってあたしはシライシさんの隣に座る。


「シライシさん、一緒に混ざらないの?」


 そう尋ねると、シライシさんは言った。


「――不意に、お姉ちゃんたちのことを思い出しちゃって……」


 シライシさんは静かに語ってくれた。

 自分には十歳年上の姉がいた。その姉はとても良い男性と出会い、子供にも恵まれ、幸せな結婚生活を送ってたんだと。

『いつか自分にも良い人が欲しい』と、姉を羨ましがってたそうだ。


 そして……去年の夏の夜、シライシさんの姉は六歳になった子供の誕生日を祝うため、美味しい料理店に行こうと、子供を連れて旦那さんの車に乗って三人で出かけていたそうだ。

 その道中、突然左から車道に飛び出してきた子供を避けようとしてハンドルを右に切り、ちょうど対向車線からやってきた大型トラックと激突。




 …………大型トラックの運転手は大怪我を負ったものの、一命を取り留めた。でも、もう一方の三人は帰らぬ人となった。ほぼ即死の状態だったらしい。


 それからシライシさんは毎日のように事故のことを思い出し、苦しむことになった。夜になれば、家族連れで歩く人や車の往来を見るたびに、胸が締め付けられて、涙が込み上げてくるんだと。

 …………昨日、シライシさんが病室の窓から見ていた景色は、本来そこにいるはずだった自分たち家族の姿を映してたのかもしれない。

 昨日のこと、今日のこと、これからのこと、生きてさえいれば話し合えてたかもしれない未来のことを……ずっと思い描いてたのかな。




「――ごめんね、暗くなるような話をしちゃって……でも、ミヤガワさんには何となく、話したくなっちゃって……」

「ううん、別に謝る必要なんてないんだよ」


 ――誰かに聞いてもらうことで楽になることってあると想うし。家族を亡くして辛い気持ちと向き合っていくのは、ほんとに大変な事なんだってこと、あたしにも分かる気がするから。


『叫び声を上げられる分、まだ救いようがある』……か。

 ほんとに何も訴えられなくなったら、人は重圧に押しつぶされちゃうと思うし……そういう意味では、シライシさんはきっと回復傾向に向かってるのかもしれないな……

 だって、あたしの事を『話し相手』として受け入れてくれたんだもん。あたしには聴くことしかできないけど、それで楽になるなら……


 って、なんで見ず知らずの人のことをこんなに気にかけてるんだか。



「シライシさんって、優しいね」

「……えっ?」


 隣で座ってたシライシさんはこっちを見て微笑んだ。そして、あたしの頭をそっと撫でてきた。


「シライシさん……?」

「ごめんね…………」

「謝ってばかりだよ、シライシさん」

「うんっ……ごめんね……」


 シライシさんはまた感極まったのか涙を流してすすり泣き始めた。


「シライシさん……」


 …………周りを見渡してみたけど、すぐ近くに看護師はいなかった。だから……






「泣かないでよ……シライシさん……」


 あたしはシライシさんの背中側に回って、包み込むように優しく抱きしめた。

 それ以上は何も言わず、シライシさんが泣き止むまでずっと……




 ――少しして、異変に気が付いたのか、看護師の『おかむら』が三つ編みの髪を揺らしながらこっちにやってきた。


「シライシさん? どうされました?」

「ぐすっ……いえ、大丈夫です、ありがとうございます」


 シライシさんは泣きはらした目を軽く拭ってそう答えた。


「何かあったら、すぐに声をかけてくださいね」と言って、また『おかむら』看護師はその場から離れていった。


 再びあたしとシライシさんの二人きりになる。シライシさんはこっちに顔を向けて言う。


「ありがとう……“まりなちゃん”」

「べ、別に礼とかいらねーし……泣き止んで良かったじゃんか……」


 照れくさくなって、ついつい悪態をついてしまう。


「ふふっ……とっても嬉しかったなぁ……くすくす……」

「わ、笑った顔、可愛いじゃん、なんかムカつく」

「え? 本当? ありがとう! えへへ……照れてるまりなちゃんも可愛いよ」

「う、うっさい…………」

「ちょっと素直じゃないところとか含めて、可愛いっ」

「あ、あんま可愛いとか言うなっ、爆発しちゃうから」

「ふふっ……」

「マジで意味わかんねーし…………し、シライシさんのこと、おねーさんって呼ぶからね……」

「『おねーさん』かぁ……ふふっ、なんかいいなぁ。妹ができたみたい……! ね、まりなちゃん!」

「う、うっさい、おねーさん……」




 ――それからも、おねーさんはあたしの顔をずっと見ては、くすくすと楽しそうに笑ってた。

 まぁ……なんていうか……『ユーコーカンケイ』を築けたってところなのかな。こーいうのもたまには悪くないかなーなんて……

 あたしは自分の顔が火照っていくのを感じて、そのたびに悪態をつきまくっていた……




 ――しばらくして病室に戻り、昼の薬を飲んで、昼飯をむしゃむしゃと食い荒らした後、お待ちかねの昼寝タイムを楽しもうかなと思ってたところで、その空気をぶち壊そうとする非常にKYケーワイな人がカーテン越しに顔を覗かせてきた。


「まりなちゃん…………"具合はどう"……?」


 ――斉藤さんだ。前に家にやって来た時と同じ黒のスカートスーツを履いた女は、声を潜めてそう言ってベッドのすぐ左脇にある来客用の椅子に腰を掛けた。

 わざとらしい質問なんかしてくんなっての……


「うん…………"今のところ、大丈夫"……」

「そう……? "何か異変が起きたら、すぐに訴えるのよ"…………?」

「うん……」

「そうだ、気晴らしに屋上の庭園に行こっか」


 ――女は枕元にあったナースコールのボタンを押し、看護師に軽く説明した後、あたしたちは西病棟のエレベーターから屋上へ向かった……






「――大体、状況は把握したわ」


 と女は言った。

 庭園に設置されてある長いベンチに二人そろって腰掛け、あたしは入院してからこれまでのことをかいつまんで説明した。ほんとはおねーさんのことはあまり話したくなかったけど、それも『仕事』である以上、仕方なかった。




「ま、普通の病院生活を送ろうとしてたわけじゃない……という心がけは信じておくわ」


 嫌な言い方をする女だな。


「――何が言いたいの?」

「まぁ、あなたは『不良JK』だし? 仕事をすっぽかしてのうのうとしてるんじゃないかなって疑ってたの」

「は? なに言ってんの? ただでさえあんたら『フツー』じゃないんだから、そんな怖いことできるわけないじゃん」

「『フツー』じゃないって、酷い言い草だわ」

「……ちょ、ちょっと言い方は悪かったけどさ…………あたしには、もう後がないんだし……そうでしょ?」

「……とにかく、警戒は怠らないで欲しいわね。まぁ、今朝のニュースを観てたら、嫌でも警戒せざるを得なくなるでしょうけど」

「――『今朝のニュース』?」

「え、なに、病室に置いてあるテレビ、観てないの?」


 女は『この子、マジで言ってんの?!』って言わんばかりの顔をして、あたしの顔を覗き込んできた。


「いや、別にテレビとか観ないもん」


 そう答えると、斉藤さんは姿勢を戻して呆れた表情になって言う。


「最近の子ってスマホとかパソコンばっかりだものね……そっか、じゃあ知るわけないか。『今朝、森山杏奈の刺殺死体が路地裏のゴミ箱の中で発見された事件』について。その子の通っていた学校名も出てたし……これって確かあなたの同級生じゃなかったかしら?」




 ――耳を疑った。


「はっ……? なんの冗談だよ?」

「いいわ、ニュース記事を見せてあげる」


 そう言って女はスマホを取り出して今日の記事の画面を表示してあたしに見せた。




 確かにそこには、今朝の五時頃、この近くの路地裏にある大きなゴミ箱の中から女子高生の刺殺死体が発見されたと書かれていて、その身元が漆原高校二年生の『森山もりやま杏奈あんな』であることも発表されてた。写真も添付されてあって、そこに映っていた女子は、あたしらがずっと仲良くしてきた杏奈で間違いなかった。

 警察によれば、背中や胸部、腹部を十数ヵ所以上刺されていて、失血死したものと見られると。犯行に使われた凶器は現場から発見されず、犯人の手掛かりや目撃情報等も一切掴めてない――――そう締めくくられてあった。




「…………なんで……? 意味分かんないんだけど……?! なんで杏奈が? ねぇ……なんで!?」


 あたしは懇願するように斉藤さんの両肩を揺らす。


「落ち着きなさい……!」

「落ち着いてなんかいられるかよぉ!! こんなのってあんまりじゃんか! なんであたしの周りにいるヤツはみんないなくなるわけ?!」

「お願いだから落ち着いて……っ!」


 ――斉藤さんはあたしの両手を掴んで、静かに下ろす。ちょっと頭に血が上ってたみたいだ。


「これは警察内部の情報でまだ公にされてないことだけど……あなたのそのお友達の死亡推定時刻は『夜中の二時から四時までの間』よ」

「はぁ?? それで? それ以外に手掛かりないの?!」

「――ないわね」

「『公安』は何をやってたわけ?!」

「私たちが抱える案件は別にこの病院だけじゃないからね。最近じゃ、重火器なんかを不法で取引していた密売組織を追ってたし……人手が足りないのよ」

「…………そんな……」

「この後、私はとある要人の警護もしないといけなくてね……次にこうして話し合えるのは来週かもしれないし、来月かもしれない……」

「じゃあなに? 結局『自分の身は自分で守れ』ってこと?」

「…………そういうことになるわね」

「あんたも、あたしを見捨てるんだ……」

「別に見捨てるわけじゃないわ」

「もし、『闇社会』に襲われるようなことがあったら、あたしはどうしたらいいわけ?」

「そうね……じゃあこれを護身用に持っておきなさい」


 女はベンチの横に置いていた小さなバッグから、折りたたまれた小さな茶色の紙袋を取り出し、あたしに手渡した。

 あたしは受け取ってその紙袋の中を覗いてみる。


「――――こんなものであたしにどうしろって言うんだよ……バカじゃないの」


 あたしは涙を拭ってその紙袋の中から『それ』を取り出し、どこに隠すか考えた。

 この病衣、パジャマタイプだったから…………腰ポケットの中に突っ込んで、上衣の裾で上手く隠しとこう。


「…………それで……これからどうすればいいの?」

「――護身用にそれを持たせたんだから、そこから先は想像つくでしょ」

「意味わかんねーし…………」

「頭の悪い子は、早死にするわよ?」

「あんたが一番早死にしそうな気がするけど」

「生意気な小娘じゃないの」

「――――要するに……『刺し違えてでもこの病院に隠された真相を暴いて来い』……そういうことでしょ?」

「まぁ、そういうこと。それでこの病院に何か動きがあれば…………後は簡単だからね」

「…………わかった」

「それじゃ…………死なないようにね」


 女はそう言ってベンチから立ち上がると、スタスタと歩いて、エレベーターに乗り込んでいった……






 ――あれ……? なんだろう、違和感?

 なんで護身用でこんなものをを持たせられるわけ? しかもこのタイミングで……?


 あの人、確か……最初こんなこと言ってたっけ。


『……とにかく、警戒は怠らないで欲しいわね。まぁ、今朝のニュースを観てたら、嫌でも警戒せざるを得なくなるでしょうけど』って。


 その後で『死亡推定時刻』をあたしに教えた。それ以外に手掛かりはないとも言った。


『今朝のニュースを観てたら、嫌でも警戒せざるを得なくなるでしょうけど』


 ――――つまり『公安』は、杏奈を殺したヤツが『この病院』の中にいると疑って、それであたしに護身用でこのブツを渡したんじゃ……?

 …………"そいつはすごく身近にいる誰か"ってことじゃないの……?




 ――――最悪の可能性を考え始めた時、嫌な冷や汗があたしの背中を滴り落ちて行った…………






(第四幕へ続く)

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