第二幕 -孤独に対する恐怖-
――母さんが死んだ。それを身を持って実感することになったのは翌朝のこと。
リビングに行っても、テーブルに食事が置いてあるわけでもなければ、台所からトントンとリズムよく料理を刻む音が聞こえてくるわけでもない……一言二言、親の文句が飛んでくることもない。
もう二度と、『行ってらっしゃい』とか、『お帰りなさい』とか言ってくれる人はいないんだ。
「…………独り、か」
――リビングでぼーっと突っ立っていると、インターホンが鳴ったので受話器を取る。
「警察の者です、宮川奈津子様のご遺体の件で参りました。それと葬儀屋の方も一緒です」と言ってきたので、玄関のドアを開けた。
そこには二人のサツと黒服の女がいて、あたしの身元を確認するなり、「事件性がないかどうかを調べるため、一時的に遺体を引き取らせてほしい」と言ってきた。
よく分かんなかったけど、とにかく頷いておく。
「事件性がないと判断できましたら、遺体をお返ししようと思うのですが………他にご家族の方はいらっしゃいませんかね?」
「…………あたし一人です……」
「そうなんですか、分かりました。それで遺体の引き取りはどうされますか?」
「…………よく分かんないんで……お任せします……」
あたしが何となく頷いてると、サツの一人が女に話しかける。
「えーっと……それでしたら、葬儀屋さんの方でお任せしたらいいですかね?」
「はい、こちらのお宅は"娘さんお一人でご親戚もいらっしゃらない"みたいなので、これから多分この娘さん、施設の方に行くことになるでしょう……」
「あぁ…………」
「奈津子様は生命保険をかけていらっしゃったとのことだったので、この娘さんに火葬手続きを取って頂いて、費用についてはそこからのお支払いという形になるでしょうね」
――ぼんやりとしてて危うく聞き逃しそうになった。今『施設』って言った?
「それでは、また詳しいことは追って連絡しますね」
「書類の方も後日郵送しますので」
サツと葬儀屋の女はそう告げると、家から出て行った。
――施設。そうだよね……そうなるよね……
「あーあ……口うるさいやつもどっか行ったし…………気楽でいいなぁ…………」
自室に戻ってベッドに突っ伏して、思ってもいないことをぼやく。
――――何となく、スマホを取り出してみる。
電話帳から杏奈と里緒菜の番号を表示して……すぐに消す。
「何やってんのかな……あたし…………」
外の街の空気が吸いたくなって、あたしはとぼとぼと街中を歩き続けた。とにかく、どっかに消えてしまいたい……喧嘩相手でも探そうかな。いっそのこと……もうどうにだってなればいいんだ。
――家の近くの公園を通りがかった時、フェンスの向こうの少し離れた木陰で誰かが集団リンチされてるのが目に飛び込んできた。
「やめろぉおおっ!! いだいいいっ!!」
……あれ、里緒菜の声じゃん?
距離があって顔がよく見えなかったけど間違いない。四人組の高校生が里緒菜を取り囲んでた。
「あぁっ?! 『やめろ』?! いやでーすっ! やめませーんっ!! ふざけんなよこのブスがっ!!」
「大したことねーじゃんこのゴミ。いっそこのまま殺していいんじゃね?」
「あっははは!! 見ろよこの顔! ネットに晒してやろうぜ!」
「じゃあさ、動画撮ろうぜ? こいつの顔をドアップで映してさぁ、動画編集してコメントつけて流してやんの! そしたら俺たちぼろ儲けじゃんっ!!」
「「あははははは!!!」」
――どうにかしてやりたいと思ったけど、四人組相手じゃどうしようもないよ……
だってあたし、ほんとは喧嘩とか強くねーし、そういうの全部里緒菜に任せてたから…………
だから……見てることしかできなかった……
そいつらのリンチはどんどんエスカレートしていって、しまいには高校生の一人が学生カバンの中から大きな石のようなものを取り出し始めた。
まさか、いくらなんでもそこまでは――
「このクズがっ!!」
――思わず目を背けた。あたしは…………怖くてその場から動けずにいた。
「おい、こいつやべえんじゃね? 頭からめっちゃ血出てんだけど……」
「お、俺、何も知らねーからな! そういう約束で付き合ったわけじゃねーからな!」
「はっ?! 全部俺のせいにすんのかよっ!? お前らも殴ってたんだから同罪だろうが!」
「い、いいから、と、とにかく早く逃げようぜ!!」
――四人組の高校生たちは公園から猛ダッシュで逃げて行った。
「里緒菜っ!!」
あたしは木陰で倒れてる里緒菜のもとに駆け寄る。
「里緒菜っ! 大丈夫?! 今、救急車呼ぶから!」
「うっ……ぅうぅ…………まりな…………?」
「う、うんっ……大丈夫……?!」
里緒菜は悲痛の表情のまま、あたしにこんな言葉をぶつけた。
「まりな……あんた……見てたなら…………何で助けてくれなかったの…………? あたしたち…………友達…………じゃなかったの……? この…………人でなし……っ! うっ……! うぅう……っ!!」
「あっ……あぁ…………っ! ごめんね…………里緒菜……っ!」
百十九番にコールしたあたしは、公園の場所と状態を伝えた後、自分の名前を名乗らずに通話を切ってその場から逃げ出した。
色んな事が起こりすぎて、もう何が何だか分かんなくなって……あたしは現実逃避することを選んだ。
――数時間後、自室に戻ったあたしのスマホに誰かから電話がかかってきた。
画面を見てみると、着信の相手は『里緒菜』だった。出ようか出ないか迷ったけど、あたしはその電話に出た――
「……もしもし……里緒菜……?」
「あ、まりな?」
――きっと、さっきのように責め立てられるんだ、そう思って――
「ごめんね、里緒菜…………」
――もう一度謝ることにした。
「え? ……あぁ、さっきあたしが言ったこと? あたしこそごめん、ちょっと言い過ぎた…………まりなも、親が大変なことになってるんだもん……仕方ないよ……」
「――昨日の夜……死んだよ」
「……………………そっか…………」
――里緒菜はあたしをそれ以上責めなかった。その代わりに、『救急車を呼んでくれてありがとう』って言ってくれた。
別に、あたしは感謝されるようなことなんて何一つしてないのに……
里緒菜の頭の傷はそんなに酷いものじゃなかったらしいけど、後遺症がないかを調べるために一週間検査入院することになったらしい。何事もなければいいんだけど。
「明日にでも見舞いに行くよ」
「あたしのことは気にしなくていいのに……まりな、これから大変なんでしょ…………?」
「……うん」
「大丈夫だって! 退院したらまた暴れまわろ? あ……でもやっぱ寂しいから会いに来てっ? ここ、個室だからさみしーよー!」
…………すっかり意気消沈してたあたしにとって、里緒菜のその可愛らしいセリフに救われた。
「あっははは……! はいはい、じゃあ部屋番号教えてよ」
「うん、部屋番号は――」
部屋番号を聞き出して、少し話をした後で通話を切った。
これからのことなんて考えたこともなかったな。施設送りになったら、その後どうなるんだろ……もし、どこの施設にも入れなかったら……ホームレスってやつになるのかな。団地暮らしだし、家賃払えなかったら追い出されるだろうし……電気も水道も使えなくなるよね……母さんの生命保険の残りで生活するっていったって、一カ月も持たないかもだし……バイトでも始めた方がいいのかな……
あれ? そういえばバイトって保護者が必要じゃなかったっけ…………はぁ……メンドーだな……
――――翌日。
「おぉっ?! 宮川じゃんっ?! お前がまともに学校に来たのって初めてじゃねっ?!」
「ほんとだ、まりなだーっ! えーっ!? いつも街中で暴れまわってるって思ってたけど……」
――久々に教室に行ったと思ったら、まるで人をいない者扱いだ。
「いや、学校の中で暴れまわるのはマジで勘弁してほしいわー!」
「はっきり言って迷惑だしー、街中で暴れまわる分には良いんだけどねー」
――周りのクズは言いたい放題かよ。しょうがないじゃん、あたしたち三人揃って意味があるんだしさ。
「……ん?」
そういえば、杏奈はどうしてるんだろう?
周りを見渡してみたけど、杏奈の姿は見当たらなかった。今日は学校に来てないのかな? もしかしたら街でぶらついてるのかも。
放課後、早速あたしは里緒菜の搬送先、『須々田総合病院』へ足を運ぶ。
母さんが運ばれた病院と同じ病院っていうのにはちょっと妙な縁を感じたけど、それよりあたしはどんな顔をして里緒菜に会いに行こうか考えてた。
ほんとは杏奈も誘って行こうかと思ったけど、さっき電話した時、電話に出なかったのでそのまま放置することにした。
――改めて病院を見上げてみると、九階建てということもあって結構大きかった。
病院の中に足を踏み入れて、里緒菜から聞いてた部屋番号を探っていく。西病棟と東病棟に分かれてて、里緒菜は西病棟の五階の五〇一号室にいるらしい。
エレベーターで五階に上がって里緒菜の病室まで歩いていく。
――そして病室の前に立ち止まって、少し深呼吸する。里緒菜、怒ってなければいいけど。
ドアを開けると、「あ、まりなっ! 来てくれたんだ!」と笑顔で出迎えてくれた。
里緒菜は「今すぐにでも退院してまた暴れまわりたいー」なんて言い出したけど、やっぱり万一のことを考えてちゃんと療養してほしいと思う。母さんみたいに手遅れになったら怖いし……
そういえば、里緒菜はこんな目に遭ったことをサツに話したのかな?
気になって訊いてみたところ、「いやー、被害届出そうか迷ったんだけど……あたしらってこれまで色んな事やってきたわけじゃん? その辺を警察に突っ込まれたらまたメンドーなことになるなぁって思って……」と苦笑いを浮かべながらそう話した。
ってことは、通報しなかったと。まぁ、警察沙汰になったらメンドーなことになるのはあたしだって同じなんだけど……やっぱり心配だ……
――――それから二、三十分くらい世間話を交わして、あたしは病室を出た。でもよかった……里緒菜、思ったより元気そうで。
学校に通って放課後に里緒菜の見舞いに行く……そんな日々を四日続けた次の日の朝のことだった。
教室に入ると、クラスの連中がやけに騒がしくしてた。
「ねぇ、どうかしたの?」
「あ、まりなっ! 聞いた?! 昨日の夜、里緒菜が死んだって!」
――は? なんだって……?
「なんかね、友達がね、里緒菜の親から聞いた話らしいんだけどさ、夜中に突然電話がかかってきたらしくて、高熱が出てどーのこーのって!」
「……待ってよ……どーゆーことかちゃんと説明してよ!」
「えーっと……なんだっけ…………『娘さんの容態が急変し、高熱を出して危篤状態になっています』……って言われたらしくて、駆け付けたときにはもう死んでたんだって」
――頭の中が真っ白になった。
母さんに続いて、里緒菜まで……
「確かー、『脳出血』を起こしてたってハナシだったね」
クラスの女子たちの話をぼうっとしながら聞いてると、突然教室の隅っこにいた男子たちが騒ぎだした。
「はっ?! えっ?!! これヤバくね?! おいっ、お前ら、これ見てみろって!」
男子たちがスマホを見ながら周りを手招きしてたので、気になってあたしもそいつのスマホを覗き込む。
「ついさっきアップされたらしいんだけどさ……」
そう言って見せてくれたのはどこかの動画サイトにアップされた一本の動画。アップロード日は今から5分前。そしてタイトル名を見たあたしはぞっとした。
「ちょっと貸してっ!」
男子からスマホを奪い取り、もう一度そこに表示された画面を見てみる。
『苗木里緒菜を死に至らしめた男子高校生、逮捕の決定的瞬間!』
「ちょっとみんな黙っててっ!」
あたしは騒ぎ続けていたみんなを静かにさせた後、音量をマックスにして、動画の再生ボタンを押して一部始終を見ることにした。
「今、パトカーがわたしの家の隣に停まってまーす」
息を潜めながら喋ってるのは撮影者の女? 家が映ってる。本当に隣に住んでるのか分かんないけど、カメラアングルはちょうどそいつの家を正面にして左側面から玄関前を映してた。
パトカーから制服警官が三人出てきて、その玄関のドアをノックする。
そして出てきたそいつは……里緒菜を大きな石みたいなので殴ったあの高校生だった。顔が少しぼやけてるけど間違いない。
マイクの感度が良いのか、警官の声がはっきりと聞こえてくる。
「高野圭四郎くんだね? キミには『傷害致死』の容疑がかかってる」
「はっ? なんのことっすか?」
「とぼけても無駄だよ。数日前、この近くの公園で女子高生の頭を殴ったでしょ? 調べはついてるんだよ」
「いや、俺じゃねーし!」
「他の少年たちも一緒にいたんだよね?」
「そいつらがやったんだろ、俺ちげーし!」
「『目撃者』もいるんだよ。キミの写真を見せたら間違いないってさ」
「はあっ?! ふざけんなよ! 何で俺だけなんだよ! 他の連中も殴ってただろうが!」
「じゃあ女子高生に対して暴行を働いたのは認めるんだね? 死因は、『何か重たいもので頭部を殴られたことによる脳出血』だ。病院側も、この頭の傷が死因に直結していると判断した。他の少年たちは暴行罪の罪には問われるだろうけど、そこまで重い罪にはならないから安心するといい。でも、キミの場合は別だっ!」
「ちょっ……何でだよ……これじゃ話が違ぇじゃんか……!」
「大人しく署まで来てもらおうか」
警察は無理やり高校生の腕を掴もうとする。
「ちょっと待てよっ! あれだったら問題ねぇって話だったからやったのにっ!!」
高校生は叫びながら暴れだした。
「こらこら! 暴れないっ!! 『公務執行妨害』で緊急逮捕っ!!」
「ふざけんなっ!! 俺はただたの――!?」
――何か男子高校生が喋るより先に制服警官たちがそいつの口を押さえ込み、すぐ傍に停めてあったパトカーの後部座席へと押し込んだ。
大きなサイレンの音を鳴らしながら、パトカーは遠くに行ってしまった……
――動画を見たあたしたちはしばらく茫然と立ち尽くしてた。
殺人とかそういうヤバイのってさ、ドラマとかニュースの話だけだって思ってたから…………こうやって実際に目の前にしたら…………ちょー怖かった。
クラスのみんなが集まってるのに、誰一人喋らずしーんと静まり返ったこの空気は、学生生活の中じゃ初めてのことだった……
――どうしてだろう? あたしの周りにはもう誰もいなくなっちゃった……
母さんは肺癌の末期で死んだし、里緒菜は高校生に殴られた頭の傷のせいで『脳出血』で死んだ。そしで……杏奈はなぜかあたしと目を合わせようとせずに距離を置くようになって……
なんか煮え切らないような変な気持ちを抱えたまま、こうしてまたなんとなく街中を歩いてる。
どっかに行きたいわけでもなく……ただ、なんとなく。
「…………うーん」
あたしは一度立ち止まって考えてみた。この煮え切らないような変な気持ちの正体が何なのか。それはきっと『違和感』なのかもしれなかった。
母さんが末期の癌で死んじゃったのは分かるけど、なんで里緒菜は死んだ?
里緒菜の頭の傷はそんなに酷いものじゃなかったらしいけど、後遺症がないかを調べるために一週間検査入院することになったって話じゃなかったっけ?
そうだよ……今思えばやっぱおかしい! 確かにあたしはバカだけど、バカなりに物事を考えることだってできるし。
あたしは交番に向かって歩き出した。次第に歩を進めるスピードはどんどん速くなって、最終的には走り出してた。
「――あのっ!!」
交番に駆け込むと、あの時あたしを説教した若いサツが椅子に座ってた。
「あっ、キミはっ?! またなんかやらかしたのか!!」
とりあえず、あたしは受付の机を叩きつけて怒鳴り散らした。
「はぁ?! 違ぇーしっ! それよりもおかしいんだって!」
「『キミの頭の中』が?」
「おまっ、ふざけんなっ! ちゃんと聞けよっ! 里緒菜が死んだの、知ってんだろ?!」
「『里緒菜』? あぁ、キミの悪友の『苗木里緒菜』か。死んだってどういうことだ? まさかキミ、殺人までやらかしたのか!」
――あれ……? なんか変だ。
「ちょっと待って? あんた、なんにも知らないの?」
「いや、まったく? ちょっとこっちに座ってどういうことか説明しなさい」
――――『違和感』。いや、これは『危機感』だ。あたしの五感が『それ以上は深入りしない方がいい』って本能で訴えてるんだ。
あたしは咄嗟に笑顔を見せると、少し声のトーンを明るくして適当にごまかすことにする。
「――え、あーごめんごめんっ! 里緒菜がさ、"病気かなんかで死んだ"って聞いてさ、全然そんなそぶり見せなかったから"おかしいだろ"って……」
「んっ……?? えーっと? つまりどういうことだ!?」
「お前みたいなカスでもいいからちょっと愚痴りたくなったってことだよっ!! ぶぁあーかっ!!」
「――な、なんだと貴様ぁっ!?」
顔を真っ赤にしたサツが机を叩いて立ち上がったので、あたしは慌てて交番から逃げ出した。
「待てぇええっ!! 宮川まりなぁああっ!! 貴様ぁあっ! 二度と交番に来るなぁああっ!!」
――ちょっとなんか言われただけですぐブチ切れてくるあたり、あのサツもまだまだクソガキなんだなーって思った。
――再び街中をとぼとぼと歩く。なんだろ……あたしはいつから『徘徊したくてたまらない病』になったっていうんだろ……?
しばらく考え事をしながら歩いていると――
「――んっ?! んんんーっ!?」
いきなり後ろから誰かに目と口を塞がれて、強い力で後ろに引きずられた。
「んんんっ! んんんっ!!」
「し、静かにしろっ! お、お、お前のせいでっ、わ、私は……っ! 私は会社をクビになったんだっ!!」
……あれ、この声なんか聞き覚えがあるような……
「わっ?!」
いきなり解放されたかと思ったら、強い力で背中を押された。その衝撃で地面に鼻を打ち付けて、鈍い痛みが走る。
鼻を押さえながら、顔だけを上げて周りを見渡してみる。ここはどっかの路地裏か……?
あたしは尻もちをついた状態で、後ろに振り返る。
「……あっ」
――そこに立ってたのは、あの時にカツアゲしたズラリーマンのオジサンだった。
「お、お、お前のせいで……お前のせいでぇえええ……っ! くそぉおおお…………っ!」
オジサンは手を震わせながら、ズボンの右ポケットに手を突っ込む。そして、何かを取り出しながらこっちに近づいてきた。太陽の光でキラキラ反射するそれは間違いなくナイフだった。
「――クビってどーゆーこと? あたし、何もしてないんだけど?」
「とぼけるなぁっ!! わ、私の会社宛てにメールが届いたんだ!」
ズラリーマンは左手でスマホを取り出し、こっちに投げてきた。受け取って画面を見てみると、それは実際のメールのスクショ画像みたいだった。
そのメールの内容というのはこんなものだった。
差出人:船橋秀太郎
宛先:株式会社アヴァルム 責任者 様
件名:私の婚約者が受けた暴行について
本文:高校一年の私の婚約者に対し、非道な暴行を働いたサラリーマンがそちらの会社にいる。そのサラリーマンに暴行を振るわれた後、九万円を目の前に置かれ、こう言われたそうだ。『暴行されている写真をネットに流されたくなかったら、三万円でこの写真を買い取れ』と。そのサラリーマンは婚約者を無理やり頷かせた後、三万円を抜きとってその場から逃げ去ったと。婚約者はその後、勇気を持ってそのサラリーマンを追いかけ、勤務先を突き止めたそうだ。そのサラリーマンの写真を添付しておくのでどうか適切な対応をお願いしたい。こちらとしてもあまり警察沙汰にしたくないので。
――そして添付画像を見てみると、ちょうどその勤務先の玄関から中に入っていくズラリーマンの後ろ姿が左斜め後ろのアングルから映されていた。
確かにどっからどう見てもこのズラリーマンだった。
「いや、こんなの知らないし」
「と、とぼけるなっ!! お、お前が例の彼氏ってやつと画策したんだろう!! そ、そのせいで……私は……っ!!」
「あたし、こんなの送り付けてないっ!! それにほんとはあたし、彼氏なんていないし! なんかの間違いだって!!」
「う、うるさいっ!! クビになったことが妻にバレたら…………!」
ズラリーマンはおろおろしながら右手を震わせ、こっちへにじり寄ってくる。
「責任……取ってくれ……頼む……!」
「あたしじゃないっ!!」
そう叫んだのと、ズラリーマンが「うわぁあああっ!!」と叫びながらナイフを振りかぶったのはほぼ同時だった。
あたしは目を瞑って自分の死を悟った……
…………いつまで経ってもナイフが振り下ろされなかったので、気になって目を開いてみると、なんか横に黒いヤツが立ってて、ズラリーマンの右手をしっかりと握ってた。
「――やめておけ、こんなくそ野郎相手に、アンタがその手を血に染める必要はないんだ」
「あ、あんたは誰だ?! こ、この女のせいで……!」
「ちなみにそこの女が言っていることは『真実』だ。本当に何も知らない」
「何でそんなことがあんたに分かるんだっ! 現に私はクビになったんだぞ!」
「それはアンタの会社を堕落させようと画策した何者かが、そこの女を巻き添えにしてゆすりをやっただけだ」
「な、なんだって!? し、しかしっ! そんな証拠なんてどこにも――」
「――ある。それはすでに俺たちが掴んでる。そのメールの発信元も分かってるからな。じきにそのメールが虚偽の物だったと証明されて、アンタは会社に戻れると思うぞ」
「ほ、本当かっ?!」
「あぁ、俺たち『公安』をなめないでもらいたいな」
「こ、『公安』……っ!?」
「さぁ、そのナイフを収めてさっさと立ち去ってくれないか。俺はそこの女に用があるんでな」
「……わかった……」
ズラリーマンはナイフをズボンの右ポケットにねじ込むと、こけそうにしながら街道へ走っていった。
「――さて」
黒いヤツは尻もちをついたままのあたしの前髪を乱暴に掴んできた。
「ちょっ、なんなんだよっ!! 離せよっ!!」
「アンタには少し痛い目を見てもらわないといけないんでな」
黒いヤツはあたしをそのままうつ伏せにするようにして地面に叩きつけて、右腕を背中側へ引っ張られた。
「痛ぁああいっ!!! やめてよぉおっ!!」
痛みに耐えながらそう叫んでも、その男の力が弱まることもなく……男は言った。
「なんだ、この程度か? あれだけグループの中でリーダー気取りしてたくせに、いざ一人になると何もできないじゃないか」
「う……うる……さい……っ! 離せよ……っ! このくそ野郎っ!!」
あたしは一心不乱にじたばたするけど、男の力にはまったくかなわなかった。
「おいおいどうしたよ、この前、あのサラリーマンをボコボコにしたらしいじゃないか? えぇっ!? その時みたいに威勢よく俺をボコボコにして見せろって。なんだよ、興ざめだな。この街で暴れまわるくそみたいな不良がいるって言うからどんなやつかと思えば……何もできないクズが」
「うるさあああいっ!!」
「ちっ……なんだよ、ぎゃーぎゃー騒ぐだけのクソ野郎か。そういうのをビッグマウスっていうんだ。わかるか? アンタはただの口だけの人間なんだ。大したことを言うわりに、いざとなったとき、何もできないんだろ? 違うのか?」
「うっ……!」
『口だけの人間』、そう言われた瞬間、あの時に言われた里緒菜の言葉が蘇った。
『まりな……あんた……見てたなら…………何で助けてくれなかったの…………? あたしたち…………友達…………じゃなかったの……? この…………人でなし……っ! うっ……! うぅう……っ!!』
「うっ……ぐすっ……うぅううう……くっ……」
気付けばあたしはぼろぼろと涙を流して泣いていた。
「おいおい、勘弁してくれよ……今度は泣き落としか? そうやって相手の懐に潜り込んで、油断させた隙にイッパツぶちかまそうって魂胆か? 甘いんだよアンタは」
「ぐすっ……うっくっ……うぅう……うぅ…うっ……」
それでもあたしはみっともなく泣き続けた。
「怖かった……ずっと一人が怖かったんだよぉお……っ!」
あたしは心の奥底にあった本当の気持ちを曝け出したのだった。
――ずっと一人が怖かった。寂しかった。あのロクでもないクソ野郎がいる家庭で過ごすのが怖かった。毎日のように母さんを殴って……毎日のように怒鳴り散らして……
いつの日か、あのクソ野郎が母さんを見捨てて出て行ってからも、ずっと心細かった。母さんもいつかいなくなっちゃうんじゃないかって思って……
何とかかまってもらいたくて……母さんにきつく当り散らしてた。自分はここにいるんだって、自分には力があるんだって。周りの連中に知らしめることで、誰も攻撃できなくして……
誰かを従わせれば、ソイツは何でも言うことを聞いてくれる……無意識のうちにそんなことを思ってたのかもしれない。
だから、あたしと似たような気持ちを抱えたヤツらと一緒にバカ騒ぎをやってた……
あたしはどうしようもないバカだった。自分の気持ちに素直になれなかった。
本当は何もできない人間なんだって認めるのが嫌で嫌で仕方なくて、自分自身からも逃げてた。
母さんが死んだとき、とても怖かった。これから自分がどうなるのか、その時になって初めて考えた。本当に一人になったとき……すごく辛いんだなって。それで里緒菜も死んで、杏奈もあたしを避けるようになって……周りに誰もいなくなって……やっと気づいた。
あたしは…………周りに甘えてただけだったんだって。
――気がつけばあたしは、誰かに許しを乞うようにして、そんな言葉を男に吐き出していた。
そしてあたし自身が、一番望んでいることであろうこと言葉を漏らした。
「誰か……助けてよぉ……」
誰にも振り向いてもらえず、相手にもしてもらえず、そうやって見捨てられ、この世から忘れ去られるなんて……そんなの…………絶対に嫌だ!
「――まだマシな方だよ、アンタは」
「え……?」
男はそう言うと、あたしを解放し、すぐそばのアスファルトの上にあぐらをかいて座り込んだ。
あたしもそれにならうようにして、男の正面に体育座りをした。ヘルメットを被ったライダースーツの男は続ける。
「……よく覚えておけ。この世の中にはな、アンタのように助けを呼びたくても呼べない連中が山ほどいる。目や口を塞がれて、どこか冷たい場所に連れて行かれ、酷く陵辱を受けた上に殺されたやつもいる。ただ目が合っただけ、ちょっとかっとなっただけで理不尽に殺されたやつもいるさ。別に不幸の度合いを比べるわけじゃないが、そうやって叫び声を上げられる分、アンタはまだ救いようがあるってことだ」
「何が言いたいんだよ……?」
「アンタはただの甘ったれた不良娘だってことさ」
「……」
――あたしは何も言い返せず、そのまま押し黙った。
「だけどな……アンタのように、こうやってちゃんと本音を吐き出して、自分を省みることができる人間は少ないさ。そういった意味じゃ、アンタはまだやり直しが利く」
「無理だよ……やり直すなんて」
「どうしてそう思う?」
「だって……これからあたし、施設に入れられるんだよ? そうじゃなかったとしても、あたしは路頭に迷うわけだし……だったら、もう生きてる意味なんてないよ」
「早計すぎやしないか? その考え方」
「もうメンドウなんだよ、一生懸命に生きるっていうの」
「……つまり『自分はもう死んでも構わない』と、あんたはそう言いたいんだな?」
「そうだよ」
「……なるほどな、だったら死ぬ前に、俺たちの仕事を手伝う気はないか?」
「はぁ……??」
この男は何を言ってるんだろう?
「――生きるか死ぬかの大仕事になるが、どうせアンタ、もう生きる意味なんてないんだもんな?」
「それは……」
「この仕事を成功させた暁には、アンタに『新しい人生』をプレゼントしてやるよ。だが……もししくじった時は……」
「しくじった時は……?」
「正真正銘の死を迎えることになるだろうな。どうだ? まずは話だけでも聞いてみる気はないか?」
「…………」
あたしは渋々頷いて、男の話を聞くことにした。
――公安警察。公共の安全と秩序を維持することを目的とする警察だ、と男は自分のことをそんな風に語った。フツーの警察とは違って、政治犯とかテロリストとかそういったヤバイヤツらを取り締まっているらしい。
あまり表向きに捜査はせず、極秘裏に行われるため、たとえあたしたちが道端でその公安警察とすれ違ったとしても、その人を『公安警察』だと見抜くことはまず不可能なんだと。
「――で? そんな公安警察がなんであたしに仕事を振ってきたわけ? あたし、ロクでもないクズなんだよ?」
「――本当のクズってのは、自分のことをクズとは言わないものだ。アンタ、疑ってんだろ? 『苗木里緒菜』の死について」
「……なんでそれを?」
「アンタらはただでさえここらじゃ有名なんでな。アンタの母親が死んだ辺りから、ずっとアンタをマークさせてもらってたよ。アンタが例の暴行事件を目の当たりにして、ガキどもがいなくなった後で苗木里緒菜に駆け寄り、救急車を呼んだことも知ってる。苗木里緒菜が死を迎えた後、突然交番に駆け込んで騒ぎ立てようとしたこともな」
「…………見られてたんだ」
「そういうことだ。アンタは何かに気付き、交番に駆け込もうとして、すぐに引き上げたように見えた……なぜだ? それはアンタが『何か違和感のようなもの』を感じたからだろ?」
「…………」
この男なら信用できるかもしれない、そう思ってありのままのことを話すことにした。母親が死んだ辺りから、今までのことを……
「…………大体の状況は把握した。なるほど…………これで繋がったな」
「……どゆこと?」
「やっぱりこれは『闇社会』が関わっている」
「なにそれ」
「組織の規模、目的は一切不明。いや、そもそも組織なのかどうかさえ分からない、謎の連中だ。裏で巨額の資金を流用し、各々の目的で動いているようだな」
「……ヤクザみたいなもの?」
「もしそうであればまだ単純な話だったんだが……そのヤクザでさえも脅かす存在なんだよ。この前は『組ごと消された』って話も聞いたしな」
「…………うぇえ……」
マジもんでヤバイヤツらじゃん……
「話を戻すが、『闇社会』が次に手を出したのが……おそらくあの『須々田総合病院』だろう」
「えっ……」
「あの病院は、前年度と比べて今年度の死亡者数が圧倒的に多かった、それも桁が違う。一般の病院に比べて四倍の数字が弾き出され、明らかに異常な数値だったんだ。だからこの前、厚生労働省による調査があの病院に入ったんだが……何も不審な点は出てこなかったそうでな、お手上げ状態らしい」
「――その厚生労働省ってさ、あたしが前に見た銀髪の連中かな?」
「いや、厚生労働省の調査が行われたのはもう二カ月も前の話だ」
「えっ? じゃああたしが見たあの連中は……?!」
「『厚生労働省』の連中じゃない。おそらく『闇社会』の連中だろうな」
「……何をしに病院に……?」
「目的は分からんが、この圧倒的な死亡者数と何らかの関係性があるのは間違いない」
「そんな…………」
「それにおそらく……苗木里緒菜の死にも関わっている可能性がある」
「里緒菜が死んだことに違和感はあったんだけど……やっぱ……あんたもそう思うの?」
「あぁ。まず一つ目、苗木里緒菜の襲撃は計画的に仕組まれていた可能性がある。なぜなら、苗木里緒菜を殴る時に使用した凶器がその『カバン』の中から出てきたからだ。もし、衝動的にやったものなら、現場にあった身近なものを選んだはずだろ?」
言われてみれば……確かに変だ。
「二つ目、苗木里緒菜は警察に被害届を出していないにも関わらず、どうしてこんな早くに容疑者を特定することができたんだ? その女が死んでから、容疑者を確保するまでの段取りがあまりにも早すぎる。苗木里緒菜の周辺で誰かが警察に通報していたならまだ別だろうが……なんの連絡も入ってないらしいからな。逮捕に踏み切ったその警察は、『苗木里緒菜が男子高校生から暴行を受けた情報を予め掴んでいた』ことになる。もちろん、この件に関して『公安』は、一般警察には何も情報を流していない」
そっか……だからあの交番のサツは何も知らなかったんだ……もし、傷害致死に関わった学生が特定されてたら、フツーは交番勤務のサツにもその情報が伝わってなきゃおかしいもんね……そっか、違和感の正体はそれだったんだ。
「三つ目、アンタが見たというその動画を見る限り、苗木里緒菜の頭を殴ったその高校生は、おそらく誰かに雇われていた可能性がある。高校生がその真実を訴えようとした時、逮捕に踏み切った警察が慌ててその口を封じたところを見ると…………その警察もまた、関係者の可能性があるだろうな」
…………そんな……だったら警察ぐるみで里緒菜を殺したってことになるじゃん……
「まだ分からない点が多いが、少なくともあの須々田総合病院に何かあるのは間違いない、そこでだ――」
「――あたしに、『あの病院に潜入して来い』……そういうわけ?」
「それが『生きるか死ぬかの大仕事』だ。『新しい人生』をプレゼントしてやると言ってるんだ、悪い話じゃないだろう?」
それがどんなものなのかは分かんないけど……それより気になることを突っ込んでみる。
「なんで自分たちで潜入しないわけ?」
「今は情報こそが全てを支配する世の中だ。潜入捜査官の身元ってのはすぐにバレる。面が割れていない警察なんてものは"いないに等しい"んだ。だから一般人を潜入させる」
「……失敗したら、消されるかもしれないんだよね」
「そうだな、だから後はアンタが選ぶといい。本当に助けてほしいと思うのなら、その覚悟を見せろ。このまま何もせず、アンタの言うようにくたばる人生を選ぶか……生きるか死ぬかの大仕事を完遂させ、『新しい人生』を掴み取るか」
…………あたしには、選べる選択肢なんてもう一つしかなかった。どっちに転がっても、ロクなことにならないなら、もういっそのこと……
(第三幕へ続く)