◆隣の男子の名前は覚えてます
◆→まちさん視点
午前の授業が終わり、お楽しみの昼食タイム。
私は隣のクラスに行き、親友の梨花を誘って中庭へ。
母が作ってくれた弁当の中身は鞄に入れる際、自分で蓋を閉めるのでわかっているが、隣に友達が一緒だと味わい深くなる。
至福の時を噛みしめていると梨花がアンニュイな顔でこちらに箸を向けた。こら。
「そういえば。まちってさ、なんで佐久間のこと“静くん”って下の名前で呼んでんの?」
「ぶっふ」
いきなりの静くんチョイスにお茶を吹き出すところだった。
「あー、それは…私もよくわかんないんだけど、深い事情がありまして──…」
それは五月中旬あたりのことだった。
朝のまだ誰も来ていない時間帯に教室の扉を開く音がして、そこに目を向けると静くん───その時は“佐久間くん”と呼んでいた───が僅かに目を見開いて立っていた。
誰もいないと言ってもクラスメイトに挨拶をしないわけにはいかない。
「おはよう、佐久間くん」
「……おはよう」
それだけで終わるはずだった。でも、彼は私の隣の席に荷物を置いただけで座りもせずそこから動こうとしない。
不思議に思って視線を彼に移したらバッチリ目が合った。
なんか、凄く怪訝そうにこっち見てるんですけど。
「佐久間くん、朝練?」
「……あぁ」
「そう、頑張るね」
「……英語?」
「うん、辞書学校に忘れてたから昨日出来なかったの。ぎりぎり間に合うかな」
凄い視線を感じる。
顔を見てるんじゃないよね? 文字を見てるんだよね。ヤバい、スペル、ミスった。しかも、訳の振り仮名も間違えた。
「……名前」
「え?」
「静でいい。英語の時の、そっちの方がしっくりくる」
何を言われたのかすぐにはわからなくて固まった私を余所に、彼は表情ひとつ変えずに朝の空気広がる廊下に颯爽と戻っていったのだった。
え、返事とかしてないけど。
それって“Mr.”もつけた方がいいんですか、とかいろいろ考えて結局英語の宿題が終わったのはホームルーム直前だった。
本当にあれは危なかった。もはやその記憶しかない、と言いたいが本人を目の前にするといやでも思い出すもので。
今のところ、英語の時ぐらいしか彼の名前を言う機会はないのでまだクラスの皆にはバレてはいないけれども。
プリントを渡す時に「はい、佐久間くん」と無意識に言ったらいつもと眼差しが違い、鋭かったのでそこからは名前を言うのは控えるようにしている。
いつどこで聞かれているのかわからないので、その日から『静くん』呼びをこっそり頑張っている。クラス外にいること前提だが。
「だって彼、凄い美人さんなの。見た?」
「見た」
「それで表情は“無”なんだよ。たまに表情変わったな、って思ったら目力凄いの、わかる?」
「わからん」
「わかって。私の日本語おかしいけど、こう、フィーリングで!」
「錯覚じゃね?」
「錯覚であってほしいってこの前神社にお願いしてきた」
「それは神様も困るでしょうよ」
そもそも、名前呼びは許可制なのだろうか。もしや、差し入れ隊の女子たち一人ひとりに名前で呼ぶように言ってる? まさか。そんな感じ、しないけど。
「まぁ、そんなことがあったんだねーってことで」
「感情がこもってない」
「まぁまぁ。てか、まちってホント、ありのままを受け入れるね。来るもの拒まずっていうかなんていうか…」
「拒む隙もなく、皆上がっていくから私、見守るしかないのよ」
まさに自分の家に上がり込まれた、という表現がしっくり来る。
『困ります!』と静止の声を掛けてもずんずん入っていくの。挙げ句の果てには、置き土産もちゃっかりしていくんだから…。返そうとしても後の祭り。放置するのも憚られて結局は頂くことになったのだ。
───この場合は“名前呼び”だから消化不良を起こしているが。それはさておき。
「ねぇ、聞いて梨花」
「うん、なぁに?」
「今日のホームルームでさ、席替えしたのよ」
「はいはい」
「それでね…、また静くんの隣になりました」
この日一番、大きな笑い声が中庭に響いたのはゼッタイに私のせいじゃないと思う。




