◆隣の席の男子は運動部
◆→まちさん視点
いそいそと帰り支度をする。このまま何も見なかったことにしてこの場を後にしたい気持ちをグッと押しころして、恐る恐る彼の鞄を手に取る。自分の鞄より、結構軽かった。宿題とか、必要最低限のものだけなのだろうか。
鞄の中身が非常に気になるが見てはいけない。いや、チャックが開けっ放しだったから閉めるときにチラッと見たような気もするけど記憶が曖昧なのでノーカウントだ。
「………行くか」
そうして、人目を忍ぶように体育館へ足を運ぶ。
誰か部活終わりの人が通りかからないかな、と出入口に至らないところのベンチで腰を下ろす。
それにしても、疲れた。
座って一息ついてしまったら、ドッと疲労が押し寄せてくる。家に着いたら夕食まで起きていられるかしら、と一抹の不安が頭をよぎる。
今日の宿題は数学二ページと英語が三ページほどだったか。英語の単語帳五ページの暗記と明日の小テストも忘れてはいけない。そんな付け焼き刃でいい成績なんて私には取れないことはわかっているけれど、一応目は通しておかないとなぁ、と考えていたところに声が掛けられた。
「あっ! まちさん! そこにいるのは合唱部のまちさんでは!?」
その声を聞いて、一瞬絶望を抱いた私の予感はのちに正しかったと言えるであろう。穏やかな夕暮れ時に気持ちのいいほど響く女性の声は、演劇部の長谷部さん。七変化する声音を持つと噂される彼女が体育館から出てきたのを私は見逃さなかった。
何故、文化部が体育館から…?と思われるだろうか。それは、演劇部は場馴れの意味も持って時折、練習時に体育館の舞台を使うのだ。
体育館の舞台は文化部にとってなくてはならないお披露目の場所。故に、彼女がそこから出てきたことにはなんら疑問はないのである。ただ、引っかかるものがあるとすれば、何故彼女は私を見てそんなあからさまな名前を出したのか。それに尽きる。
彼女との共通点はしいて言えば同学年ということと、文化部であることだけだ。それ以上のつながりもなく、知人程度のはずだ。むしろ知人というレベルも怪しい。それなのに、どうして期待の眼差しを向けてこちらにやってくるのだろう。
「ちょっと一緒に来て! お願いがあるの!」
そうして体育館に連れて来られた私の眼前には、体育館の端っこに休憩している運動部と、舞台上ではその場面の小道具なのか人より大きい道具が点在していた。アレ、舞台袖に入るものなのだろうか。
「部長ーー!! 合唱部の清水さん、連れてきましたーー!!」
その良く通る声で叫ばくてもよかったのでは、と思えるほどあっという間に注目の的になってしまった。
ボトルを傾けて水分補給している静くんとも目が合った。ほんの少し目を瞠ったように見えたのは私の気のせいだろうか。
「はあぁ!? おい、長谷部ッ! オレは人じゃなくてCDラジカセ持ってこいっつったんだ!」
「いいじゃないですか! 時間ないんですから!」
「いいわけあるか! 返してこい!」
怒声とも取れる声に逞しくも反発する長谷部さん。お相手はきっと、じゃなくて確実に演劇部部長の志賀さんだ。体育館の舞台を使わせてほしい、と合唱部の部長と日野原先生に声を掛けている姿はよく目にしている。
体育館の舞台を使用するには生徒会ひいては学校側の許可が必要だ。そして許可を得たところで何時いつまでも使えるわけでもなく、時間制限制である。それは文化部だけでなく運動部が使うことも考慮されているからこその時間制限ではあるが、演劇部は特に小道具もあるのでバスケやバレーのボールが飛んできて壊れては困るという点で、その時間は文化部で最もシビアだと耳にしたことがある。
特に志賀さんは文化部だけでなく、運動部にもあらかじめ舞台を使う時間帯を相談しているので随分と丁寧で大人しい印象を抱いていたが、今の怒号を聞いて少し認識を改める。
ここまで怒っていらっしゃるのは見たことがない。あの人、きっとスイッチが入ったら豹変する人だ。
それは悪い意味ではなく、役者としていい意味での豹変を意味する。文化部、というか、舞台上に上がる者たちのあるあるである。
そんなふうに見つめていると、舞台袖で手を合わせている人が視界に入る。
『ごめんね』
神矢部長である。我が合唱部の部長が、何故。
いや、先程の会話を思い返せば自ずと彼が既に巻き込まれて、ついでに私にも火の粉がかかったことが推察される。
だが、そこまでの流れがいまいち掴めなくて戸惑う私を、そのまま引っ張っていく長谷部さん。部長に叱られたというのに、その足取りに迷いなんてなかった。
「いいえ、このまま歌わせます!」
彼女の発言に「ん?」と首を傾げる。いや、合唱部であるから歌うことしか取り柄がないようなものだけど、それにしたって状況がどうなってるのか全くわからない。
「歌?」
「そう、合唱部のまちさん、『白雪姫』歌えるよね?」
「え、どれ?」
その題名に心当たりのある歌がいくつかあるので思わず訊ねると彼女の目が驚きに瞠られた。それでも気を取り直したかのように出だしを口ずさんでくれ、一つに絞れた私は『それを演劇でするのか』と感嘆した。
「部長! やはり私の見立ては間違っておりませんでした!」
「オレの話聞いてたか!?」
「―――というわけで、それをアカペラになっちゃうけど歌ってほしいの」
「え!?」
いろいろすっ飛ばされた説明で驚かない方がおかしい。というか、お願いしか説明されてない。
「マイクは作動するから、合唱部のまちさんのリズムで歌ってね」
「え、あの、一人で?」
「あたしが老人の役をするから、後はよろしく!」
「え、するなんて言って…」
ない、という言葉が続こうしていたのに、いつの間にか傍に来ていた静くんに鞄を引き取られ、代わりにマイクを手渡される。「あ、すみません」と思わず受け取ってしまった私だが手渡された人物が静くんということで二度見してしまった。え、君、運動部…。
「さぁ! 再開三秒前! 3、2…!」
「え?! あ、あの、神矢部長!!」
思わず声を張り上げて我が部長を仰ぎ見る。
本日の練習で叱られたのもあり、その上練習曲とは全く違うものを歌うことになってしまっている。私にはもう救いの手は神矢部長しかいない。
合唱部複数人ならばいいだろうが、今回歌うのはどうやら私のみのようだ。ノリで協力していいものと、悪いものがあるのはわかっている。これは、今後の合唱部に少なからず影響がある案件である。だからこそ、部長の許可が必要だ。
それがわかっているだろうに、演劇部の方々と一緒になって舞台袖に引こうとしていたのを私は見逃さなかった。私の叫びで「ん?」と振り返ってくれた辺り、次の答えが自然と察せられたが、それでも言わずにはいられない。
「私が、歌うんですか?」
「うん、そうだよ。ただし、“合唱部として”歌うんだよ」
その一言に覚悟を決める。
これは、演劇部から合唱部への『依頼』だと部長が判断したのだ。
それならば、私がうじうじするのはおかしい。
正直に言うと、昼間に叱られて『しばらくリップロールのみで歌うんだよ。それから周りの声を聴くこと』と言われた約束を破ることに躊躇いはある。
舞台前に立たされ、有無を言わされずに『歌えよ』みたいな雰囲気が辺りに満ちる。
ふー、っと息を整えて、口を開く。
演劇部さんたちはちょこちょこセリフを言っているが歌自体は歌わないようだ。ミュージカルな立ち居振る舞いに見惚れることもできず、歌詞と彼らの仕草をつぶさに見て音を紡ぐことしかできなかった傍らで、既に演目の内容を覚えている長谷部さんはさすがというべきか。さっきまで話していた声音と全く違う声で歌うし、喋る。というか、ちょくちょく笑い声を添えているのがもはや尊敬の域である。
───やっと、終わった。
最後まで歌いきり、一度礼をして、目立たない気持ちでゆっくりと舞台袖側に控える。歌は終わっても、まだ少しセリフはあるようだ。
マイクを誰に、どのタイミングで返したらいいだろうか、と思案しているうちに、程なくして舞台も終わり、神谷部長が先に出てきた。
無意識に背筋が伸びる。しかも一瞬、昼間叱られた光景が頭をよぎった。
彼は微笑みながら、言った。
「やっぱり喉に負担がかかってるね。初めて歌う曲で音程を意識してたんだろうけど、逆に音がぶつぶつ途切れてた。今度からは音のつながりを意識するといいよ」
「はい」
「あと、息が足りてないね。曲は違えど、そこは重要な点だから、引き続きリップロールで練習しといてね」
「……はい」
リップロールとは、唇をブルブル振動させたまま音を紡いでいく技術である。
息の量も、腹式呼吸でないともたないし、酸欠にもなりやすい。
低音が一番出ずらいので、腹式呼吸を意識する為にもよくやる練習メニューではあるが、しばらくこの練習方法とは気が滅入りそうである。
「ありがとうー!! まちさん! すっごく参考になった! また歌いに来てね!」
横から凄い勢いで突撃され倒れそうになるところを、できる限りで踏ん張り事なきを得る。
“また”はありませんように、と心の中で神に祈ったがその効果はいかほどだろうか。無難に「こちらこそ、どうもありがとうございました」と伝え、マイクを渡し、そそくさとその場から立ち去ろうとした。
だが、演劇部の志賀部長も何故か立ちはだかった。
まだ壁があるのか、と死んだ瞳で見上げるといかつい表情でこちらを見下ろす志賀部長と目が合った。
「こちらの問題だったのに、協力してくれてありがとう。アイツの言った通り参考にもなった。今回のは録画してるから、部員全員で見直させてもらう。本当に助かった」
それはぜひとも消去してほしい。普段の私ならば小さな声でもかろうじてその言葉を言えただろうに、今回の私は既にそんな元気はなかった。
長谷部さんと志賀部長には褒めてもらえたが、それを打ち消すように神矢部長が一刀両断したものだから私の気持ちもさすがに底辺についている。
思いっきりしょげている私は身一つで体育館を出て、真っすぐ家路につくことしかもう頭にはなかった。
家に着いてから不愛想な対応をしてしまったことに気付いて、頭を抱えることになるとも、この時の私は気付いていなかったのである。




