◆隣の静くんを突き出す
◆→まちさん視点
昼食の時間。今日は珍しく母が体調を崩したのでお弁当はなし。というわけで、購買に来ている。
今日は早めに放課後練習は切り上げて母のために雑炊をつくろう、と購買のおばちゃんを見ながら意気込みを新たにしていると、肩をポンポン、と叩かれた。
無意識に顔をそちらに向けると、白の体操着が視界いっぱいに広がった。少し顔を上げると、見覚えのある人が凄んでいた。
あ、この目力、お久しぶりです。そんなことが一瞬頭の中に過ったが、絶対に口に出してはいけないと口をしっかりしめた。
「あの時の女子だよな? え、と、清水さん? シズに伝言、ありがとな」
確か、バスケ部部長であり主将と呼ばれている橘先輩だったか。スポーツ刈りが大変お似合いな凛々しい顔つきと体格に恐れおののく前に、殊勝に頭を下げられてこちらが恐縮である。「あ、いえ…」と無難に会釈して答え、その場はそれで終わると思ったのだが、現実はそんなに甘くなかった。
「少し、話があるのだが」
まさかあの有名人のファンクラブよりも先に、彼と同姓である部活の長である人に呼び出しをくらうなんて誰が想像しただろうか。
思わず糖分を欲して余分にパンを買ってしまったのは本当に反省である。
場所は変わって、中庭に差し掛かる廊下。
購買で会ったのだから当然橘先輩も購買で食料を確保し、丁度会計が同じタイミングで並んで支払い、相手を待つことなく自然と並んでここまで来た。
高校三年生は赤のジャージである。バスケ部ということもあり、身長がお高い。隣に並ばれたらたちまち自分が小さくなったような錯覚を抱く。自分の学年は上履きでバレるがわざわざ足元を見て確認する人はいないだろうな、とよくわからない余裕を胸に抱きながらこの道のりを歩んできた。
中庭が私の目的地なので自然と足を止めてしまったのを合図に、彼はこちらに向き直った。
真正面はやはり迫力があるな、と思うが、以前ほどではない。男性の先生だと思えば全く怖くない。
「その節は、迷惑をかけた」
その節って、どの節だ。瞬時に心の中でツッコんでしまったが、よくよく考えると彼との接触は記憶を遡ってもあの一度しかないのであの節か、と納得する。
放課後の時間、音楽室で一人で歌の練習をしていると大声で人探しをしていると乱入してきたのがこの方だ。あの時の鬼気迫る勢いの彼と、今目の前にいる彼を比較するとだいぶと落ち着いていらっしゃる、と感心するばかりだ。
「いえ、たいしてお役に立てず…」
なんとなく彼の言いたいことがわかり、無難な対応として頭を下げようとしたら、彼に止められた。
「あぁ、いや、謝るのはこっちであってそっちが言うのはお門違いだ。それについても神矢にもスッゲェ怒られた。本当にすまねぇ」
「え、あ、はい…」
この謝罪は遠慮したらいけないな、と素直に受け入れておく。
今の会話の中で我が合唱部部長の神矢先輩の名前が挙がったことに少なからず驚く。神矢先輩とは合唱部先輩の中で唯一の男性部員だ。目の前の先輩と同姓であるからそこまで違和感はないが、なんとなく意外な気がしたのは内緒にしといたほうがいいだろう。
神矢先輩は率直に言って温厚な方だ。怒るという言葉を知らなさそうな穏やかな表情が印象的なお人なのだが、目の前の彼が完全にしょぼくれているのでその状況があったのだと察することしか出来ない。
普段から穏やかな人が怒ると怖い、とよく聞くが、神矢先輩もその傾向にあるのかもしれない。
彼を怒らせるなんてよっぽどだな、と思う反面、何でそんなに怒られたのかいまいちピンと来ていないので予想がつかなくて少し恐怖する。次お会いするとき、私はどんな表情をすればいいんだ。
「それで、シズもそっちに入り浸ってるって? オレが暴走しちまったせいでいろんな方面から迷惑かけて本当に申し訳ねぇ…」
(ん?)
今、ちょっとわからない内容が入っていたけれど、とりあえず神妙な顔をして俯いておく。
シズ、というのは佐久間静くんのことだろう。バスケ部所属であり、期待の星、とつい最近小耳にはさんだ。静くんはクラスメイトで、私の隣の席にいる男子である。それだけではなく、他クラスをも通り越して全学年にも『ハイスペック王子』として名が轟いている超有名人である。
容姿端麗、文武両道、顔は不愛想であるが心遣いがもはや紳士レベル、と噂されている。同年代でそこまで気遣えるのか、と驚きを通り越してドン引きレベルであると私は思うが、一般論はそうではないらしい。
その噂の彼が、つい先日音楽室の隣の部屋である練習室に隠れていることが発覚した。目の前の橘先輩が立ち去って後、自分から姿を現していらっしゃったので、私が見つけたわけではないのだが。
彼はなんと『清水さんの声が好き』と言い出し、その日から何故か放課後の時間は欠かさず私の歌の練習を見に来ている。最後までがっつり見聴きしているわけではないのだが、何か開き直ったかのように堂々と練習を見に来ているのが少し気にかかっている。
入り浸っている、という表現はきっとそのことを示しているのだとは思うが、橘先輩の暴走とは…?
掘り下げて聞いていいものか、と悩む前に、彼は驚きの言葉を発した。
「コレ、俺の連絡先だ。どうしてもシズが邪魔な時に連絡してくれたらすぐに回収しに行く」
彼は体操着のポケットからおもむろに取り出した紙切れを私の手に握らせた。
この人、個人情報ポケットの中に入れてたのか。大胆な行動に仰天するのと同時に、あることに気付く。
「え、部長公認なんですか?」
静くんが放課後の部活動を抜け出すことを部長が止められない、とはそれいかに。
さすがにそんな聞き方はできないが、それと似たようなニュアンスで訊ねると彼は重々しく頷いた。
「漢の約束に二言はない」
武士道を語りだしそうな口調であった。
そういえば、静くんこの前『交渉する』って言っていたっけ。何したんだ、彼は。
「ホントは清水さんをマネージャーに引き入れたら万事解決だったんだが…。今更だが、マネージャーになるつもりはないか?」
「遠慮させていただきます」
まさかそれを神矢先輩に相談したのか。それは私でも怒る。
シュンッ、と目に見えて肩を落とした橘先輩には悪いと思うが、もう少し反省するといい。
そんなことがあった放課後。今日も今日とて静くんは練習を見に来ている。
楽器室からメトロノームを取りに行き、音楽室に戻ると既にスタンバイしているような様子にもう慣れてしまった自分が恐ろしい。
彼は無表情でありながらも美しいという形容詞がなんとも似合うお方だ。人形のように整った、という表現がぴったりだ、と何度も思う。
彼はまっすぐと黒い瞳をこちらに向けている。無機質なようで、その奥には熱のようなものが見えるからあまりその瞳を直視するのは好きではない。
いや、今日は特にその吸い込まれそうな、何もかも見透かすような瞳が随分心にこたえる。
「―――? 清水さん、今日何かあるの?」
まさか訊いてくるとは思わず、内心ドキリとする。
「うん、今日はお母さんが体調崩しちゃって…いつもより短時間で終わらせようと思って…集中しないと…」
スマホでメッセージを飛ばし、何食わぬ顔で鞄にしまう。
「そう…。だから、弁当じゃなかったの?」
「あ、うん…」
よく見ているな、と感心する反面、少しの恐ろしさが心に芽生える。
しかし、その感情はすぐに吹き飛ばされることになる。
「邪魔するぞ!!」
以前来た時と同様に扉がバァンッと大きな音を立てて開いた。その扉の先には橘先輩が仁王立ちしていた。
「シズ! ココにいたのか! 今日は最初から参加してもらうと伝えていたはずだぞ!!」
「知りませんでした」
「そう言うと思ってこうして迎えに来た! 観念するんだな!」
しれっ、と返した静くんの返答にこたえることなく橘先輩が意気込み新たに宣言する姿は頼もしいような、なんだか可笑しいような…私は一体どんな表情をすればいいんだ。
迷いながらも少し困ったような表情で静くんに視線を移すと、バチッ、と目が合った。
ガラス玉のような黒い瞳が、一瞬あやしい色を見せたのに、内心ヒヤリとする。
「わかりました。今日はもう部活に行きます。清水さん、また明日」
「あ、うん…。また…」
そう言い終わると、彼は颯爽とこの場を立ち去った。
―――ヤバい。
もしかしたら、静くんにバレたかもしれない。
もちろん、今日は母の看病のために練習は早めに切り上げるつもりであったし、いつもより集中したいと思ったのも本当だ。
でも、こっそり橘先輩にメッセージを飛ばしたのはさすがに卑怯だったかな、と静かな音楽室を見渡して少し後悔した。