◆隣の席の男子が何故
◆→まちさん視点
私の隣の席は眉目秀麗、文武両道と有名な男子がいる。
佐久間静くん。お名前の通りに物静かな方であるが、その容姿と頭の良さで周りが彼を放ってはおかない。それ故、ちょっとしたトラブルに巻き込まれるのだが今のところ、漫画みたいな過激なことは起こってはいない。
何の因果か、席替えをしても隣になる。さすがに他の科目は離れる、と思われるだろうが、体育以外は本当に隣の席である。さすがの私もここまで来たら戦慄する。
彼にはファンクラブなるものが非公式に結成されているという。その方々にどう思われているのか、心配で仕方がない。
いや、彼とはクラスメイトで隣の席ということしかないのだが。特別親密にしているというわけでもないので心配することもないと思われるのだが、最近、妙に視線を感じる。
誰のものともわからず、とりあえず、ちょっと胸から胃にかけてヒヤリとしたものが落ちていくような感覚に襲われる日々が続いている。
そんな私にも、学校で憩いの時間はある。
それは、放課後。ここからは本当に私の時間である。
何故ならば隣の席の人とようやく離れられるから。
別に彼がこちらをつけ回しているわけではないのだが、この解放感は本当に凄い。
一日の疲れが吹き飛ぶ勢いで私が元気になる。
「あら、今日も来たの」
「はい、日野原先生。音楽室お借りします」
「はい、どうぞ」
意気揚々と音楽室の鍵を受け取り、踵を返すときに珍しく日野原先生から声を掛けられる。
「清水さん、あまり根を詰めすぎないようにね」
「いいえ、先生。根を詰めるなんて。この時間が私にとって最高の時間なんです!」
嘘偽りのない心からの想いを言ったのに、あまりにも満面の笑みだったからか嘘くさく思われたようで心配げに一言添えられた。
「コンクールはまだ先だし、喉を痛めないようにね」
あれ、ストレス発散で歌ってるってバレてる?
いやコンクールに向けてだから真面目に練習しているのは本当だが、彼の隣からの解放が嬉しすぎて逆に現実逃避になっているのかもしれない。
今日が終わったら明日が来るからね。
日野原先生は音大卒でいくつかコンクールにも出ている実力派。噂ではどこかのオーケストラの指揮者の経験もあるとか。
そんな耳が最高に良い先生だからこそのさりげない助言。無意識に喉に負担がかかる歌い方をしているのかもしれない。
「はい、気を付けます!」
気合いいっぱいに敬礼してダッシュで音楽室に駆けていく。
途中で生徒指導の先生と鉢合わせし、軽く注意を受ける。
「日頃から優等生だからはしゃぎたいのはわかるが、もうちょっと落ち着こうな?」
生徒指導兼学年主任というだけで個人的にあまり関わりのない先生にわりと深刻な表情で言われ固まる。
───わ、私って優等生って見られてたの?
「最近、何かあったのか? 日野原先生がやたらお前のことを心配してたぞ。『歌に変な力みがある』って」
日野原先生は私の心が見えてるんじゃないだろうか。そして目の前の生徒指導の先生も見た目に似合わず音楽家なのだろうか。
それだけの情報で『何かあったのか』と言えるなんて。
いや、この高校に入ってからずっとその『何か』はあったんですけど。ついでに現在進行形で、正直明日が怖いです、とは言えない。もれなく生徒指導室行きだ。主に宿題忘れの人が反省文を書かされると噂の部屋だ。この先お世話になりませんように、と連れていかれる男子生徒の顔を見て心の底から思ったのは記憶に新しい。
「すみません、以後気を付けます」
羽ばたこうとしたところを諌められた気分になりながらもそそくさと音楽室へ逃げ込む。
───ヤバイ。
かなりストレスが溜まってるかのように先生方から心配されてる。
何? 私ってそんなに追い詰められてたの?
慣れた慣れたと吹っ切れた気分でいたが、実はそうではなかったのか。
そういえば、三日前ぐらい口内炎が出来てたっけ。ほうれん草食べなさいっていつもよりお弁当にも多めに入れられていたのを思い出す。
「……とりあえず、発声から!」
気を取り直して声出しをしていく。
ようやく気持ちが落ち着いてきて、いつもの声になってきたところで、文化祭で歌う曲も少しやろうと楽譜を取り出す。
「先輩方と合わせるのはまだだって聞いてるけど、通しで歌う可能性はあるよね。今のうちに暗譜しとこ…」
コンクールは今までちょくちょく練習していて、いつも火曜日と木曜日のお昼休みに合唱部で集まって声を合わせている。
だから最近の私の放課後練習は文化祭のパート練習である。
この学校の文化祭は文化部にスポットを当てているようで、演劇、吹奏楽部、合唱部が主にステージを担当する。文化祭の盛り上げるイベントとして、吹奏楽部と合唱部の合同演出がある。合唱部からは六名が選抜される。その一年生枠に入れたのだ。合唱部全員で歌えることも楽しいが、今回は憧れの先輩方とそして吹奏楽の演奏で歌える、ということで私は今から期待で胸が高鳴っている。
音をイメージして、リズムを数える。息を吸って、音を紡いでいく。
そう、この時間が私の至福。
音が高すぎず低すぎないように、テンポが遅れないようにと気を付ける点はあるが、今日一日、一番無心でいられる時間だ。
教室にいる時のように肩肘張らなくても、女子の視線に苛まれることもない。
(私が、私でいられる時間)
大きく、伸び伸びと声を音楽室に響かせる。
あぁ、なんて気持ちいいんだろう。
流れる雲に音が届くようにと意識しながら歌っていく。
最後の一音まで大切に。
日野原先生の言葉を思い出し、最後の音を紡ぎ終わった時だ。
「ここかぁッ! シズ!!」
バァンッ、と物凄い勢いで音楽室の扉が開かれた。急に夢から醒めた感覚を味わう。目を白黒させて現れた男子を見やる。
「はぁッ!? 女子!?」
女子ですが、何か。
そんなことさえも口に出せない迫力でその男子はズカズカと音楽室に入ってきたかと思うと、私の前に立ちはだかる。
何かを探すように首を巡らせ、最後に私に焦点を当ててきた。
蛇に睨まれた蛙よろしくただただ目の前の男子を見つめるしか出来ない。
スポーツ刈りの茶髪の彼は何故かお怒りモードのようで凄い目力だった。
「おい、女子。シズを見なかったか」
「ぞ…、存じ上げませんが…」
この人誰だ。そもそも人探しでそんな目力いるか? と現実逃避気味な思考に発破をかけてなんとか言葉を紡ぎだす。
私の言葉に目の前の彼はぴくり、と片眉を動かした。
ひぃぃっ! と内心悲鳴を上げていると目の前の彼は急に肩の力を抜いてため息をついた。
「そうか。っかしぃな…、ここだと思ったんだが」
首もとに手を置いて参ったような顔をしているが、最初のインパクトが凄すぎて何も言葉がでない。
ビクビクする私を余所に、彼はまた一通り音楽室内を見渡す。
「あ~、いなさそうだな。怯えさせて悪かった。 あ? 楽譜? あぁ、練習中だったのか。邪魔しちまったな」
ホントに(いい迷惑です)。なんて生意気なことを言う度胸などなく、無難に「い、いいえ…」としか言えなかった。
「……お前、もしかして“清水さん”か?」
「え!? 」
二呼吸分の沈黙の後、目の前の彼から自分の名前が出て来て大いに慌てる。
「違うか? 違わないよな?」
「あ、はい、合ってます、よ?」
え、既に疑問じゃない。
彼の尋ね方に不審感が募る。距離を置きたいのに、彼の目力で身動きが取れない状況が大変歯がゆい。
「ふ~ん、案外普通だな」
────は?
「あぁ、いや。こっちの話。へ~、あんたが“清水さん”か…。ふ~ん…」
何やら考え込んだ相手に困惑を隠せない。もはや何故、私の名前を知っているのか訊ねる空気ではない。
もういっそのこと早く出ていってくれないかな。
「あー、ちょっと伝言頼まれてくれるか?」
「はい?」
「『夏の選抜メンバーにお前入ってるから金曜日の練習は絶対に来いって“橘”が言ってた』って」
「えっ、え?」
「シズ見かけたら言っといてくれな。バスケの問題なのにあんたに迷惑かけるのもなんだが、オレたちでもなかなかアイツを捕まえられなくてな」
てことで、頼んだわー。
と颯爽と去っていった彼を引き留めようとした手は空をかいた。
「………え?」
音楽室に一人残された私は思考も働かず、そのままの格好で固まっていた。
ようやくノロノロと頭が働いてきて、先程のやりとりをリピートする。
彼は一体誰だったのか。どうやらバスケ部の人であろうことはわかった。バスケ部の格好をしていたので、学年はわからない。
何を根拠に音楽室にあんな勢いで来たのか。何もかも謎すぎる。
いや、一番の謎は───。
「“シズ”って、誰…?」
「オレのことだけど」
───は?
独り言になるはずが、ありえないことが起こった。
音楽室の中には四ヶ所部屋がある。一つは私がいる、授業が出来る大部屋。もう一つは奥の方で楽器置き場になっている。そして、もう二つはそれぞれ小部屋になっていて『練習室』と銘打ってあり、どれもこの大部屋に隣接するようにある。
物音立てずにその練習室の扉を開けて“シズ”さんその人が姿を現した。
「し、静くん…?」
「うん」
いや、『うん』じゃないよ。
「なんでそこに…。ていうか、いつからそこに―――?」
「―――…清水さんがメトロノーム取りに行ってる間?」
「えぇ…」
なんで疑問形なんだ。しかも結構始めからいたことを告げられ、絶句する。
私の歌、がっつり聞かれたってことですか。音楽室だからと言って、防音対策はそこまでされていない。ましてや練習室との間なんて防音云々なんてそんな気の利いた構造はされていない。
ちなみに、お互いの部屋が見えるようにと窓もある始末。完全なガラス張りではないから、きっとさっきの怖い人が来ていた時は上手に下に隠れるように身を縮めていたのだろう。
最悪、歌だけでなく音の高さを調節している時の身振り手振りも見られている可能性もある。
親しい友人ならともかく、そこまで親しくない人に練習している姿を見られることほど恥ずかしいものはない。合唱部として練習中!というなら全く問題がないが、完全なる個人練習は話が別である。
先程の恐怖心から気を緩めようとしたところで次は恥ずかしさが最高潮に達したものだから四肢から力が抜けてその場でへたり込んだ。
「―――行ったか。部長もしつこいな」
そう言って、彼は音楽室の扉を閉め、鍵を、―――かけた。
ガシャッ、という無情な音が音楽室にやけに響いたのを聞いた。
(と、閉じ込められた!?)
「何してんの」
間抜けにも腰を抜かしている私を見て、静くんが眉根を寄せて言った。
さっきの怖い人と違う意味でその眼差しが怖いです。
恥ずかしいと怖いが交互に襲ってきたものだから既に頭は大混乱である。
静くんも気にしなくていいのに、何故か私の傍まで来て、わざわざ目線を合わせてきた。
ち、近い近い―――!!
「まぁ、あんな迫力ある人と話したらそうもなるか。大丈夫? あの人、人と会話するときの距離感バグってるから。怖かったでしょ」
「あ…う、ん…」
一番のドッキリはあなたの登場ですけども。
しかもそんなに喋ってるのも英語の時とか音読の時しか聞いたことないからそれにも驚いている。
真顔で言われてるのがまた怖いのだが、それすらも言葉にならない。
視線を合わせづらくてうつむきがちになる。
「…あの人、態度と声でかいけどそんな悪い人じゃないから。安心していいよ」
「う、ん…」
それは後半なんとなく『あれ、この人わりと良い人?』と思っていたから素直に頷く。
ていうか、言葉の端々に静くんの悪意が感じられるのは私だけだろうか。軽い悪口になってきている。
「それにしても、なんでココってわかったのかな。あの人、ホント野生児」
あ、完全に悪口だ。何、静くんって実は腹黒なの。
どんな表情で言ってるのだろう、と恐る恐る顔を上げると、いつもの無表情だった。
さすが、無愛想と言われるだけある。冗談なのか本気なのか全くわからない。
「あの人の伝言、ちゃんと聞こえてたからいいよ。明日の朝にでも了解のメールしとくし」
「えっと、あの人が“橘”さん?」
「うん。バスケ部の主将。…知らなかった?」
「すみません、運動部のことはあんまり…」
「いいよ。清水さんらしい」
それはどういう意味ですか。と言わなくてもなんとなくわかる。
有名人である静くんの所属する部活がバスケ部ということを知らなかったことがソレを指している。
これ以上自分の知識の浅はかさを思い知る前に、と今度は私から質問をした。
「なんで静くん、あそこにいたの?」
「隠れてた」
端的すぎる。明らかに諸々の理由を省いている。
「えっと、なんで?」
「静かだから」
ダジャレかと思った。気を取り直して―――って、あれ、意外と防音効いてた?
「じゃあ、歌とか聞こえなかった?」
「? 聴こえたけど」
それのどこが静かなんですか。私のささやかな期待を返せ、と言いたい。
よくよく考えてみたら、橘さんの声が聞こえてたわけだから歌が聞こえていないわけがない。防音とはいかに。
―――もうダメだ。彼の顔を直視できない。こんな間近で見て改めて思うけど、この人半端なく美形だ。
これで頭も良いんだから神様って本当意地悪。性格は知らないけど。
「…聴かれるの、イヤだった?」
「イヤって言うか…とてつもなく恥ずかしいです」
「なんで」
「なんでって…なんで?」
それを聞きますか、あなた。
思わず彼を見上げると、整った顔で心底不思議そうにこちらを見つめる眼差しとぶつかった。
「清水さんの歌、オレは好きだけど」
「は…」
「聴き心地が最高にいい。安定感もあって、聴いてて飽きない。ただの声出しでも聴いてて楽しい」
「え、う…?」
「まぁ、清水さんの声自体好きなんだけど―――」
「ま、待って! ちょっと待って!」
なんか今、もの凄く恥ずかしいことを言われてる―――?
ベタ褒めじゃないですか。日野原先生にも言われたことないことを真面目な顔(無表情なだけ?)をして言っているのだからたまらない。
頭がのぼせるぐらいに顔が火照っているのを感じる。
何この破壊力。
「―――えっと、静くんってもしかして天然さん?」
本当は『声フェチですか』と言いたいところだったがそれを言ったら完全に私が変態だ。もれなく自意識過剰な人だ。
(『好き』とか…恥ずかしげもなく言ってる辺り、そんな自覚ないんだろうな)
ファンクラブの人が聞いたら発狂するであろうことを彼があっさり口にしたことに驚く。待って、そのセリフはぜひ表では隠してほしい。もしも他の人に聞かれたらもれなく私の明日がなくなる。
苦し紛れに尋ねたことは彼にどんなふうに伝わったのか。私の言葉を境に、少し彼の雰囲気が変わった。
「――――…ふぅん」
切れ長の瞳が、眇められた。気のせいか声音が低くなったような…?
「そういう清水さんは、鈍感? それとも、ソレって計算? だとしたらとんでもないな」
「―――は?」
「英語の時だってそう。オレがめちゃくちゃ緊張してるのに腹立つくらいに飄々としちゃってさ」
「え、あっ…?」
不意に横髪に触れられ、息が止まった。
さらさらと彼の手の中からこぼれる自分の髪を見つめるしか出来なくて完全に言葉が出てこなくなった。
「ホント、人の気も知らないで。清水さんって小悪魔だよね」
(はぁっ!?)
「まぁ、これから少なくとも一ヶ月は隣の席だし、イングリッシュペアってなかなか離れないらしいし、これからじっくりわかっていってもらうのもいいかな」
彼の手の中から私の髪が全てこぼれ落ちると、彼はおもむろに立ち上がった。つられて彼を見上げると、今までに見たことない表情で彼はこちらを見下ろしていた。
「これからもどうぞ…よろしく。清水 まちさん」
不敵な笑みで、彼はそう宣った。