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詩の強気な発言に呆然として、地に根を張ってしまったかのように暫くの間動けなかった。
脳裏に焼き付いた詩の微笑みが強固で沈みゆく夕焼けとは真逆だ。
桜を纏っているかのような可憐なイメージは外面だけだったようだ、と思いながら足に生えた根を破るように重たい足取りで部屋へと戻る。
何となく、詩には自宅を知られたくなかったなと思った。強盗に入られたわけでもないのに。
靴を脱ぎ捨てて、鞄も床に放り投げてベッドへ倒れ込む。疲労が一気に押し寄せてきた。パジャマに着替えず、風呂にも入らずに寝てしまいたい。
詩のせいで疲労したわけではない。
いや、今まで俺に告白してきた子は断ったらあっさりと断ったから、不屈の闘志を見せられて面食らったのは事実だが。
そういえば、と親友の姿を思い出す。
柔らかい髪質に柔和な笑み。色素の薄い瞳と髪。華奢な身体。儚くて繊細な印象を外見から与えるみずは、大人しいが結構な頑固者だ。
詩もみずも案外似た者同士で外見の儚さは内面には影響しないんだな、そう思うと複雑な心境だ。
ベッドは気持ちいいが疲労は直に取ってくれない。疲労を感じるのは、詩ではなく、綾瀬さんのせいだ。
藍色の部屋に来訪者があったから無駄に緊張したし、綾瀬さんがいい人だったから藍色が殺人鬼であることを知っているのかがどうしても気になって落ち着かなかった。
その結果、藍色の目も気にせず聞きに走ってしまった。
そのことについて、藍色と会話をする羽目になったし、だからきっと疲れたのだ。
瞼が重たくなってきた。
眠ってしまいたいが、風呂にも入らないままではいけないし、やることもあると重たい身体を起こしてズボンのポケットからスマホを取り出す。
最近の着信履歴から母さんに連絡を取る。数秒まつと電話に出た。心なしか声が弾んでいる。
「もしもし。色葉だけど。うん、元気。来週の金曜日の夜実家に帰ろうと思っている。都合どう? 大丈夫? 土曜日には帰るよ。日曜日までいたいところだけどやることもあるからね、うん、わかった。土曜日、夕飯は食べてから帰るよ。それじゃあ母さんの手料理楽しみにしているから」
帰省したらみずと会える時間が無くなるから本心を言えば帰りたくはないのだけれども、仕送りをしてもらっている身としてはたまには顔をみせておかないと優等生の色葉じゃなくなる。
優等生で不安がないから両親は一人暮らしを許してくれたのだ。
それに帰省したら両親が喜んでくれる。嬉しい顔を見るのは嫌じゃない。
まぁ両親とは反対に、弟は嫌な顔をするんだろうけど。
連絡もしたし今日は早く寝て疲れを取ろう。今日が過ぎれば月曜日が待っている。
高校時代までは憂鬱だった月曜日が、今は明るい光を見せているのだから、月曜日も何が起こるかわからないものだ。
湯舟につかるのは面倒なのでシャワーで済ませる。
明日は一限からだ。朝はぎりぎりまで寝ていることが目に見えているので先に明日の準備も済ませてあとは寝るだけにしたところで夕食の準備だ。
文明の利器冷凍パスタの出番である。電子レンジで四分半待てば出来上がりだ。トレーがついているタイプなので洗い物も増えなくて重宝している。
適度に腹を満ちたので、気持ちは今すぐ寝たいが流石にそうはいかないのでテーブルの上に教科書とノートを開いて英語の予習を済ませておく。
きりがいいところで背伸びをして時間を確認すると、十一時になっていたので就寝をすることにした。
ベッドに入ってから目覚まし時計の時間を確認。これで寝坊の心配はない。
明かりを消しておやすみなさい。
翌朝。嬉しい月曜日がやってきた。
目覚まし時計が鳴る前に自然と目が覚めた。まるで遠足を待ち望む小学生のようだ。
深呼吸をして全身に新鮮な空気を気持ち的に取り込んでからベッドから起き上がり、洗面台で顔を洗う。ひんやりとした水が気持ちいい。着替えを済ませて身支度を終える。
朝食はスーパーで買っておいたインスタントコーヒーとメロンパン。もぐもぐと食べながらリモコンを手に取りニュースを見る。ニュースは好きじゃないが話題として必要な時もあるので、その時のための仕入れだ。適当なところで切り上げる。
一限は億劫だ。
みずと同じ講義を受けていたら良かったのだが、残念なことに一限は違う。ならさぼろうぜという誘惑を乗り越えて外に出る。
二限はみずと同じ講義だし、今日はみずの卵焼きが食べられる日なので、一限の憂鬱さなんてそのうち吹き飛んでしまうのだが、最初は面倒に感じられてしまうのは仕方ない。
外は晴天だ。雲一つない晴れ晴れとした陽気に満ちている。
なんとなく、晴天だといいことがありそうで嬉しい。夏に晴天はうんざりするから好きじゃないけど。春夏秋冬で晴天が許されるのは夏以外だと思う。
通学路の途中で詩と遭遇するのではないかと思ったがそんなことはなかった。
再会したら流石に無視はできない。
本性を見せて引き下がらせた方がいいのだろうかと思わないでもないが――きっと詩は優等生の色葉に幻想を抱いているのだろうから――女子の井戸端会議のようなネットワークは正直恐ろしいので、変な噂を流されても困る。
大学の教室に入って、真ん中よりやや前の位置に座る。大体いつもここだ。
一番前だと露骨すぎるかなって思って真ん中あたり。座っていると、同級生ががやがやと入ってきた。隣に座った同級生とあたりさわりのない会話をする。
早く二限にならないかーなと適度に真面目に講義を受けていると終わった。早歩きで二限の教室へ移動すると真面目なみずが真面目に前の席に座って本を読んでいた。
「みず!」
「いろ、おはよう」
前から声をかけると、読みかけの本を閉じて、みずが笑った。ふんわりとした癖のある髪の毛には黒いヘアピンがとまっている。
「おはよ。ヘアピンどうしたんだ?」
「寝癖が直らないから、あいに借りたんだ」
「あいつ女子セット持っているもんな」
長髪だから割と髪の毛グッズを藍色は持っている。
「みずは何の本を読んでいたんだ? この間の小説の続きか?」
「それは読み終わったから今度はこれ」
カバーを開いてタイトルを見せてくれたそれは、なんだかめんどくさそうな本だった。
隣に座って鞄を椅子の横に置いてから、筆記用具を取り出しておく。黒い筆箱に味気のないルーズリーフだ。
講義が始まるまで、みずと喋る。講義中のみずは、真面目に授業を受けていて真剣な眼差しだ。丁寧すぎる字で板書をノートに写している。そんなことしなくても、みずは好成績が取れるのに本当に真面目だ。
九十分は長いはずなのにあっという間に終わったので、お昼の時間だ。卵焼きだ。みずの手料理だ。
学食へ向かうと時間が時間だから学生でにぎわっている。
目算、弁当を持参やコンビニ購入よりも学食メニューが多い。お盆に乗っている人気メニューは日替わりランチだ。
空いている場所にみずと向かい合わせに並んで座ると、手提げの中からみずが弁当を二個取り出して、小ぶりじゃない方の弁当箱を俺に渡した。
「はい。弁当」
「ありがと」
受け取って俺は代わりに五百円を渡す。みずが俺の弁当を作ってくれる代金だ。
みずの弁当なら毎日千円出したって後悔はしないが、五百円で勘弁してもらっている。
千円だしたらみずが受け取ってくれなさそうだし。受け取ってくれないだけならまだしも弁当を作ってもらえなくなったら困る。
いつも弁当を開ける瞬間は楽しみでそわそわとする。遠足は楽しみじゃなかったけど、遠足を楽しみにする小学生の気分だ。
蓋を開けると、栄養バランスが考えられた鮮やかな野菜が目に飛び込んでくる。綺麗に彩られた配色は見ているだけで美しい。卵焼きはもはや眩しいくらいの光を放っている。
下段の白米は炊き込みご飯だった。栗がころんと入っている。
「いただきます」
「そうだ、いろ。今週の土曜日、あいとお好み焼きをするんだけど、いろもどう?」
折角の美味しい炊き込みご飯を味わうことなく飲み込んでしまった。栗が喉に詰まりかけた。
「……ごめん、土曜日は実家に帰ることになっているんだ」
今すぐ実家に連絡してキャンセルしたい。
むしろドタキャンしたい。友達と遊びに出かけることになったで別に文句は言われないが、寂しそうな顔をされるのはわかっている――弟には喜ばれるだろうけど――ことを考えると罪悪感がないわけではない。何より約束を反故にはしたくない。
「りょーかい。また今度お好み焼きしよ」
この狙ったかのようなタイミングは藍色が企んだんじゃないかと思いたいが、そんなわけはないので偶然を恨むしかない。
「あぁ、今度こそ食べたい。食べよう」
肉好きな藍色がお好み焼きを食べたいといいだしたのは、酒と一緒に組み合わせて食べたくなったからだろうが、ビールにお好み焼きはあうよな。
みずと遊べないのは残念すぎる。昨日の軽率な行動をした俺を殴りたい気持ちを抑えて卵焼きをぱくりと食べる。美味しい。
平日はあっという間に過ぎ去って金曜日の夜が訪れた。
土曜日にお好み焼きを食べられない未練を残しながら実家へ帰省する。
そこまで遠いい距離ではない。本来なら大学だって自宅から通える距離だ。
だが、大学受験をするときに一人暮らしをしてみたいと両親にお願いをした。
部屋が2LDKと一人暮らしにしては広いのは、後々和歌と二人暮らしになる予定が両親の中でプランとして出来上がっているからだ。あの時の不本意な顔をしながらも両親に抗議できず悶々とした和歌は面白かった。
住宅街の一角にある実家に帰宅すると、母さんが笑顔で迎えてくれた。エプロンをして夕飯を作っている最中だったのだろう、腕まくりをしてあった。
「おかえりなさい、色葉」
「ただいま」
「お父さんはまだ仕事で帰ってきていないの。お腹すていると思うけど、夕飯待っててくれる?」
「うん、大丈夫だよ」
「和歌は部屋にいるわ」
「なら、和歌にあってくるよ。夕飯何か手伝うことはある?」
「特にないから、お父さんが帰ってきたら呼ぶわね」
「わかったよ」
靴を脱いで廊下を歩いて階段を上がる。
二階にある部屋の隣通しに俺と和歌の部屋はある。
荷物を部屋においてからわざわざ向かうのも面倒なので、そのまま扉をノックして返事を待たずに入る。どうせ和歌は返事しないし。
弟の和歌はベッドでスマートフォンを寝転がっていじっていた。
「なに」
うっとおしそうな冷たい声がかけられた。
「最初の一言くらいお帰りって言えないのか」
「帰ってこなくていいのに」
「そもそも振り返ろよ」
「ヤダよ。好き好んでお兄ちゃんの顔とか見たくないし」
「仕方ないだろ。たまには帰らないと母さんが心配する」
「じゃあ俺の部屋までこなくてもいいじゃん」
ずっとスマホをいじっている和歌の機嫌は悪いのが一目でわかるが、とりあえず居座ろうと絨毯の上に胡坐をかく。
「何か予定あった?」
「デートする予定だったのに、お母さんが今日はお兄ちゃんが帰ってくるわよとか、にこにこしていわれたら予定延ばすしかないじゃん」
不機嫌な理由はそれか。なるほど。弟は弟で俺ほどじゃないにしろ親の前ではいい子だ。
「お兄ちゃんに予定を変更させられるとかひどい。ほんと最悪。早く帰ってくれない?」
「残念だが今日は泊まることになっているよ。だから明日もデートはお預けだな」
「最悪。どうしてお兄ちゃんは俺のお兄ちゃんなの?」
「お前より早く生まれたからだ。そもそも、彼女とデートだったらデートするから帰り遅くなるっていえばよかっただろ。あぁいや、恋人ができたっていってないんだっけか」
「当たり前でしょ」
高校生だもんな。
余計な干渉をされるかされないかは別として、彼女がいることを告げる必要もないし告げたくもないだろう。
だから、和歌は俺が帰ってくるから渋々彼女とのデートをあきらめざるを得なかったのだ。どんまい。
「ののかちゃんだっけ」
和歌が好きな恋人の名前を思い出して尋ねると和歌がため息をついた。
「そうだよ。それ以上のことはお兄ちゃんに教えることなんてないけどね。というか聞かないで。お兄ちゃんに、ののかのこと知られたくない」
和歌の彼女をみたことはないが容姿は知っている。何故知っているかといえば和歌が写真を見せてきたのだ。
彼女を知られたくないのに彼女の写真を見せる矛盾の解決方法は至極簡単で、街中でもしこの子と歩いているのを見かけたら話しかけないでね、と釘を刺すためだ。
和歌の中学の時に一度新調された学習机を見る。机にはクラスの集合写真はこれ見よがしに飾ってある。卒業旅行のもある。面白みがないが、面倒な詮索はされなくて済むのでありふれた写真で、俺の部屋の真似だ。弟本人がそういったので間違いない。
和歌の部屋は全体的に落ち着いた色合いで統一されている。本棚には参考書のほかに漫画が娯楽として見え隠れしている。何か目ぼしい漫画がないかなーと目線で探すが、好みが被っていないので中々これだと直感にこない。
「明日夕飯食べたら帰るから」
「朝にかえってよ」
「気持ちは朝に帰りたいな。お好み焼きがあるし」
「なんの話?」
「こっちの話。どのみち、俺が早く帰りたくても、もう母さんに夕飯食べて帰るっていってあるから無理だよ」
「最悪」
和歌は会話するのがおっくうだとばかりに投げやりに答えている。
俺も別に弟と会話を楽しみたい趣味はないのだが、多少は弟のことを知っておかないといけない。友人に弟のことを聞かれて「知らない」なんて冷たい兄を演じるわけにはいかない。
和歌も和歌で俺をどうでもいいと思っているがお兄ちゃんなんて大嫌いというわけにもいかないので、会話を続けるのだ。
興味がないくせに世間の顔色をうかがう兄弟なんて、文字にすれば滑稽だが、日常だ。
「お兄ちゃんは彼女いないの?」
「いないよ」
「猫被りの性格はいいのに?」
「告白はされるけど断っているからね」
「最低。全国のもてない男から刺されても文句言えないね。刺されればいいのに」
「恋人がいるお前も刺される要件満たしているからな」
「で、どんな子だったの?」
「お前よりは年上だから、どんな人だったのってせめてきこうね。人目でお嬢様だってわかるような雰囲気と外見をしたお嬢様」
「逆玉の輿ねらえたじゃん。結婚はしないまでもヒモにならなれたじゃん。なんでやめたの?」
「ヒモにならないよ。大体ヒモは俺のキャラじゃない」
「人間のクズみたいなんだからヒモだって同じでしょ」
「ヤダよ。クズは隠せるけどヒモは隠せないでしょ」
評判が一気に地のそこまで落ちてしまう。築きあげたものが崩れるときは割と一瞬だ。
「まぁお兄ちゃんのキャラなら、たまにおごって普段は割り勘って感じだね。お嬢様に庶民の味覚はあわなくてやりくりが大変そう」
「だから付き合わないって」
「ふったってことは好きな人はいるの?」
「……いないよ」
「ふーん。かわいそうな人」
「人を憐れむな」
「仮にお兄ちゃんに好きな人が出来たとしても、お兄ちゃんの性格じゃ無理だよね。本性しって幻滅されるのがオチだ」
「俺の本性を知って幻滅しないでいれくれる恋人がいいね」
「高望みは諦めたほうがいいよ。そもそもお兄ちゃんって」
「何」
ごろんとベッドで身体を動かして和歌が初めてこっちを見た。けだるそうな、興味なさそうな、どうでもいい顔をしながらいった。
「――本当に好きな人には振り向いてもらえなさそうだよね」
「お前は俺に幸せになってほしくないだけだろ」
「え、当たり前でしょ」
真顔で性質の悪いことを言い出したぞこの弟は。
「俺がどんだけお兄ちゃんのせいで苦労したと思っているの」
「別に俺はお前に害をなした記憶はないけど? いいお兄ちゃんのつもりだったけど?」
はたから見れば兄弟仲はとても良好だったはずだ。誰から見ても、どんな評価を受けても仲の良い兄弟。その印象は崩れないはずだ。
「お兄ちゃんにはわからないよね。テストでいい点数をとっても「流石お兄ちゃんの弟さんだね」とか、ちょっと悪さすると「お兄ちゃんはいい子なのにね」って言われる弟の気持ち。俺が何をしたって俺の評価は「お兄ちゃん」に続くんだよ」
「あぁ、なるほど。その恨みか。そりゃわからないわ。俺は長男だから」
「お兄ちゃんが優等生で文武両道で明るくて親切な仮面を被っているから、俺まで「お兄ちゃん」に影響されなきゃいけない。高校受験の時だって、お兄ちゃんと同程度の偏差値がある学校に入らないといけなかった。いけないわけじゃないけど、色葉の弟がって視線は嫌だからね。お兄ちゃんは優秀なのに弟は落ちこぼれなのね、とか最悪すぎるでしょ?」
「人の評価を気にしない弟になればいいじゃん」
「それが出来たら世の中、苦労はしないよねって話」
「まぁでも、お兄ちゃんのお蔭で、ののかちゃんと出会えただろ?」
「うん、そこだけは感謝してもいい。俺は勉強好きじゃないのに頑張ったかいはあったよね」
そこだけは本当に感謝されるとは。本当に、弟はののかちゃんが大好きなのだと思うとちょっとののかちゃんに興味がわかないわけでもない。
果たしてこんなひねくれた弟を好きになった物好きの彼女はどんな子なのだろうか。写真で見た限りは大人しい文学少女ってイメージだったけど。
「なら大学受験も頑張れ。いっそお兄ちゃんよりも偏差値の高い大学にでも入ったらどうだ?」
「無理言わないでよ。二浪も出来ない」
「一浪で受かれよ」
「むーりー。お兄ちゃん程、俺は世渡り上手じゃないの。だからさ、せめて」
弟は血の繋がりを感じさせる顔でいった。
「お兄ちゃんに彼女が出来なければ、益々、俺はののかと一緒に居られて幸せでいられるね」
「うん、その理屈はおかしい。兄の不幸は蜜の味か」
「お兄ちゃんみたいなクズに彼女が出来たら最悪でしょ。でも俺には彼女がいる、それって幸せだよね」
「うん。その思考もおかしい。そもそも、和歌だって人のことを言えない程度には性格悪いでしょ。自分を棚に上げて兄の悪口をいうな」
「お兄ちゃん程、性格悪くないから閻魔様だって見逃してくれるよ」
「どうだか、同じ血が流れているんだぞ? そもそも俺はそこまで悪逆非道は行っていない」
「お兄ちゃんと同じ血が流れているって思うとどう考えても最悪。血を全部抜き取りたい。そして新鮮な血が欲しいな」
「どんだけ俺のことが嫌いなの」
「嫌いっていうかどうでもいい? いなければ最高だけどまぁいちゃったから仕方ない。だから消えてくれたら嬉しいなってやつ」
「それは普通に嫌いでしょ」
和歌のスマホが軽やかで綺麗な――ヒーリング効果がありそうな音を鳴らしたら、けだるげな表情が一変して嬉々としてそちらへ視線を移した。
俺のことなどもう視界に入っていないかのように真剣な眼差しで、一文字一文字に魂を込めているかのような手つきでメールの返信をしている。送り主は十中八九彼女であるののかちゃんだ。
漫画でも読んでから帰るか、と目についたタイトルを手に取ってパラパラとめくる。二巻まで読んだので満足して俺は久しぶりの自分の部屋へと戻った。
俺がいない間も母さんが綺麗に掃除をしていてくれたようで、埃がつもることなく清潔感が保たれているというか、一人暮らししている俺の部屋よりも綺麗だ。
モノクロをベースにしたシックな色合いの部屋は、一人暮らしさきとは違ったまた落ち着きがある。
ベッドはベッドメイクされたように清潔で真っすぐと伸びて皴がない。
鞄を置いて、上着をハンガーにかけてクローゼットにしまう。普段ならその辺の放り投げるが、実家ではそうはいかない。
椅子に座って、背もたれにもたれかかる。キャスターがころころと少し後退した。何かしようかと思ったが、欠伸が出てきたので夕飯まで仮眠をとることにした。おやすみなさい。
暫くして母さんの呼び声が聞こえたので目を覚ます。階段を降りようとすると同じタイミングで弟が部屋から出てきた。舌打ちをされたので苦笑する。
階段を降りてリビングへ移動すると父さんが母さんの食事の準備を手伝っていた。
「おかえり」
「ただいま」
俺と和歌も手伝う。夕食は母さんが腕によりをふるって用意してくれた肉じゃがに、みそ汁ときゅうりの漬物に、白いご飯の組み合わせは美味しかった。
満腹になったところで父さんがビールをくれたので貰って飲みながら最近の出来事を話した。大学で何があったかとかその辺の話題だけなら今も昔も豊富にある。満足な顔を見て、話題の選択はミスっていなかったと確信する。
和歌も同席していた。適当なところで的確に相槌や興味津々なふりをするのは俺の弟だなぁと思わせる空気の読み方だ。内心はお兄ちゃんの話に何て興味ないし早く部屋に借りたいんだけどってのがにじみ出ていたけど。
「さて、今日はそろそろ寝る準備をして寝るかな」
適当なところで会話を切り上げる。弟が嬉しそうに一瞬だけ表情を緩めた。隙があってまだまだだな、なんて思いながら風呂場へ向かう。バスタオルは既に用意されていた。準備がいいなぁと思う。湯舟にはお湯が入っていたが、ゆっくり浸かりたい気分でもなかったのでシャワーで済ませる。髪を適当に乾かしてから部屋に戻る。
眠気がやってきたのでおやすみなさいと瞼を閉じると疲れていたのか、気づいたときには朝になっていた。
一人暮らしだとつい不規則な生活になりがちだが、自宅にいるとアラームが鳴る前に自然と目が覚める。長年の日課は中々消えないものだ。朝食はクロワッサンだった。コーヒーを飲みながら食べる。
やや弟が寝坊して起きてきた。昨日は夜遅くまで彼女とメールでもしていたのだろうか。
とか思っていると心が読まれたのか睨まれた。
「わかりやすいなぁ」
「うるさい、黙ってお兄ちゃん」
小声で話しかけると文句を言われた。
昼は買い物に家族で出かけて、夕飯は家で焼き肉をした。サンチュに包んで焼き肉タレをしみこませた肉をご飯と一緒に食べるのは幸せだ。美味しい。
自宅まで送ってくれるという父さんの申し出を辞退しつつ、駅までは送ってもらう。焼き肉にビールを飲まなかったのは車を運転するためだろうから、全部断るのも申し訳ない。
最寄り駅まで到着して空を眺める。夜だが、街頭の灯で星はほとんど見えない。視線を映せば、眠らない街の人工的な光と、人々の喧噪がやかましい。
歩きながら途中でコンビニによって明日の朝ごはんを調達する。
このままみずの家に行きたかったが、断ってしまったからいけないなと遠慮していると、メールを告げる着信音がなった。
スマホを開くと、送り主は藍色だった。
うげっと思いながら開くと、そこには予想通りみずの作った美味しそうなお好み焼きが自慢だとばかりにでかでかと添付してあった。
やっぱり乗り込めばよかったな、とたどり着いた自宅を見上げながら後悔した。