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アマービリタ  作者: しや
30/30

向き合った今と、未来の一週間

「色葉。帰るぞ」


 鳶が晴れ晴れとした顔で、身体が痛いと文句をいいながら屋上を去ったのを確認してから、藍色は座り込んでいる俺に対して、手を差し伸べてきた。


「あ、うん」

「何を呆けているんだ?」

「いや、藍色に飛ばされた衝撃で、身体が痛いのがまだ残っているだけだけど……」


 真面目に普通に痛い。

 藍色に直接、蹴られたり殴られた時と比べても遜色ない気がする。

 屋上がせめて土の上だったまだ良かったのだろうけど――服は汚れるけど――コンクリートは痛いよ。


「受け身くらいとれる練習するか?」

「えぇ……いや、こんなことがおきるの人生でそうないからいいよ。練習がそもそも痛そうだし、そんなところに頑張る労力かけたくないし……」


 仮に受け身上手になったとして、いざという時使える気が全くしない。


「交通事故にあいそうになったときとかには、役に立つんじゃないか?」

「役に立つよりも先に死んでいるか、大怪我するだろうから、結局、意味ない気がする」

「死にかけで助かる可能性だってあるだろ」

「それはそうかもしれないけどさぁ……。遠慮するよ。真面目な練習とかしたくない」

「……色葉」

「何?」

「悪かった」

「うん」


 鳶は藍色の関係者だから、その謝罪は素直に受け取った。

 藍色はスーツが汚れるのも構わず、床に座った。

 言葉を吐き出すのを迷うかのように、藍色の視線が泳ぐ。

 真面目って本来、苦手なんだよな。そういう空気を含めて。


「……私は別にお前のメンタルなんて興味はない」

「知ってる」

「だから、私に対する罪悪感も、みずに対する息苦しさも、お前の自業自得だ。弱っているのも傷ついているのも放置している。だが……鳶のことでお前に負担をかけたのは私が悪い」

「はは、こんなの俺の自業自得でしょ。はぁ……。ねぇ藍色、それでも疲れた。疲れたよ」


 何を間違えたのか、もはやそれはどうでもいい。ただ、疲れた。

 床を転がった痛さも、それを助長しているかもしれない。

 おかしいな。詩のお蔭で夜が眠れるようになったはずなのに。詩を抱きしめてみればいいかな。みずだと思えばいいのかな。

 馬鹿らしい。意味のないことだ。

 眠れない夜の気配に怯える。

 何も考えず、寝転がって空でも眺めたら晴れやかになれるのだろうか、なんて考えるけど一度転がったとはいえ、心理的にこれ以上身体や服を汚したくないと拒否反応が出るからやめた。自暴自棄になるには、理性が邪魔をする。


「ちっ」


 藍色がらしくもない顔で、わかりやすく舌打ちをした。


「お前の傷を癒してやる必要はないが、そこまで落ち込まれていると流石に面倒だ。吐き出せ。付き合ってやる。酒は必要か?」

「酒はいらない」

「なら、今聞いてやる。色葉の望む言葉はかけないがな」

「俺は本当にただ、みずと一緒にいたかっただけなんだ。親友と、ルームシェアして暮らすとかさ、夢じゃん? 叶えたかった」


 ぽつり、ぽつりと。言葉が零れる。何度も同じことを言っている。藍色に愚痴っている。

 同じことを何度繰り返して、何度藍色に尋ねれば気が済むのだろうか。

 未練。その一言で片づけられるのに。未練がましく繰り返えす。


「和歌がやったことは本当に愚行だし馬鹿だと思っているけど。和歌の提案は魅力的だったんだ。俺ではどうすることもできなかった回答の一つを和歌は示した。誘惑に抗えなかった。馬鹿だろ?」

「後のことを考えても、それでも振り払えないほどの魅力だったのか?」


 鳶が去った後の、誰もこない静かな屋上は、心地よかった。多分、泣いても誰も来ないし。冷たさが、程よく心を弱くさせる。


「うん。だって、もしも仮に俺が力づくでみずとのルームシェアを望んたとしてだ、そのために藍色をどうにかしなければならかったとして、だ。俺にはそれは不可能だろう? ねぇ藍色?」

「それはそうだな。お前の弟だから、私の判断は遅れた。お前の弟を殺すわけにはいかなかったからな。その迷いをうめたのは、確かに和歌だけだ」


 仮に俺がどれだけみずとルームシェアをしたいと願ったとして、その感情の行きつく先がみずを監禁するという物騒な手法になったとしても、俺一人では不可能だった。

 藍色という物騒のエキスパートがいる限り、無謀どころか、不可能という言葉に置き換えられるのだ。

 俺が頭をどれだけひねって作戦を考えたとしても、犯罪のプロである藍色を交わすことができないだろう。

 そうなると、藍色をどうにかする必要性が出てくるが、それこそ不可能だ。

 不意打ちだって無理だろう。毒をもるか? 毒を手にする手段がない。そもそも藍色が毒に耐性があったらどうする? そんな化け物じみたという思考を一笑することはできない。

 何せ、非現実的な殺人鬼という存在だ。

 それ以前に――俺が、藍色を殺すことを選べない。

 つまり、この時点で、終わっていたのだ。


 けれど、和歌というイレギュラーがそれを可能にしてしまった。

 永遠に人を監禁し続けることはできない。

 素人がそれをすれば、相手を死に至らしめることになるだろうし、失敗すれば藍色からの反撃をうける。

 和歌が、現状を打破するジョーカーであったのと同時に、藍色は全ての状況を覆すことができる王でもあった。


「終わった後のことは怖いよ。相手が藍色だからね。人の命なんてなんとも思ってないような人でなしのろくでなしだ。だから、後のことは考えないことにした」

「馬鹿だな。思考に蓋をしようとしても無駄だ。一応、お前のめんどくささは知っている。考えないことなどできなかっただろう」

「うん」


 だから無駄に度数の高い酒に手をだした。


「私に殺されるかもしれないことを。殺されないまでも痛めつけられる可能性も。そもそも私が仕返しとして監禁する可能性だってあったんだ」

「え、最後のは流石に考えていなかったな……」

「温い。やられたことをやり返すには、同じことをするのは相場だろ」

「…………」


 否定はできないが、考えたくない事実だった。その未来がなくてよかった。藍色は、温くなってくれたのだ。


「私はお前を上手に痛めつけることも上手に監禁することも、下手な手法で殺すことも、なんでもできた」

「うん」

「それらを色葉はちゃんと考えた。そのうえで天秤を傾けた」

「そうだよ。考えたくないことを先送りにはした。未来はみないことにして、みずと一緒に二人だけでいられるという現在だけをみた。見られなかったけどね……そこまで心は器用じゃない。藍色が怖かった。けど、一度監禁してしまった手前、今更やめることもできなかった。ごめんなさいと土下座して謝って、それで終わる話じゃないことも理解していた。許されないことだとわかっている」


 超えてはならない一線だったとわかっている。


「それでも、甘美だったんだな。それは今でも、変わらないか」

「うん。馬鹿で愚かで、結局みずと一緒に暮らしていた間も、終わりを――藍色を恐れていて、安らぐことなんてなかったけど。でもみずと一緒にいられるのは楽しかった」

「そうか……。わかった」

「何が?」

「一週間。やる」


 藍色が我儘な子供に付き合うような親の顔で、言った。


「私は理由をつけて一週間旅行でもしよう。その間、お前はみずと一緒に住めばいい。私の家を好きにしろ。それで満足して心の整理をちゃんとつけて、諦めろ」

「何を突然、どうして。いや、でも……」

「鳶が心配なら、その必要はない。あいつは捨て台詞のようにあぁいっていたが、そんなことをするやつではないことくらい、私はわかっている」

「俺を人質もどきにしたのに?」

「だが、お前を傷つけなかっただろう」


 それはそうだ。できたかもしれないけど、選ばなかった時点で、答えはわかっている。


「みずと、一週間過ごすのは嫌か?」

「嫌じゃないよ。嬉しいよ」


 嘘を嘘で塗り固めた俺は、みずと会うのが息苦しくなっていた。

 楽しい日々を積み重ねたはずなのに、それと同じくらいつらい。

 みずは俺を親友としかみない。


「もちろん、お前が私の瞳の真相を話すことは許さない」

「うん」

「だが、お前がこのままふにゃふにゃしていても正直……そうだな。私の調子も狂う。いつものクズのほうがましだ。殊勝になられても困る」

「なんだよ、それ。俺は別にクズじゃ……いや、今はもう否定できないか」

「だるい」


 藍色のさっぱりとした感情は、うらやましいな。


「だから一週間。みずと一緒に遊べばいい。楽しいと苦しい思い出が、いつまでもお前の心に重りのようにのしかかっているのならば、楽しいだけの思い出で塗りつぶせ。とはいえ、完璧には無理だろう。こびりついた記憶を、本当の意味で消すなら、生きている限りは、お前には無理だ」

「そうだね。それはそうだ」


 よくて記憶喪失で失ってしまうか、それとも佐京色葉という存在そのものが、この世からなくなるかの二択でしかない。前者のような都合のよさはありえないし、後者もありえない。自殺という選択肢は俺にはない。


「優等生の色葉。お前なら、あと一週間くらい大学をさぼったところで問題ないのだろう? まぁ問題があるのならば冬休みでもまって、そこで実行すればいいが。全て、お前の好きにしていい一週間をくれてやる」

「そうだね。いいよ、優等生の色葉はすでに三週間学校をさぼったんだ。冬まで待たないでおくよ」


 優等生の仮面をたたむことはできないけれど。いや、もしかしたら、大学内ではすでに佐京色葉って――とは思われるかもしれないけど。

 俺にはみずがいればいいのだから構わない。

 優等生の佐京色葉よりも、親友のみずの方が、俺にとっては大事な存在だ。


「これが私から提案できる、お前の心を落ち着かせる落としどころだ」


 あぁ――本当に、藍色は甘くなったのだと、過去を知らない俺でも実感できる。

 今更だが、藍色の殺人鬼としての姿を愛している鳶にとって、今の藍色はどれほど別人に等しく憧れが遠のいたような存在だったのかということがわかる。


「有難う。藍色」

「ほんとうにな。色葉に一生苦しめと突き放すことだって容易だが……鳶のせいでお前の心労を増やしてしまったのは事実だし、何より」


 藍色は少しだけ言い淀んだ。


「いつまでも過去を引きずっているのも、だるい。本当にめんどくさい。うざったい」

「ごめんね、藍色」

「お前が悪いのだから謝る必要性はない」

「うん」


 謝ったところで過去は変わらない。

 藍色が許してくれるわけではない。それでも、ちゃんと整理する必要がある。だから藍色もちゃんと俺を見ている。


「藍色を監禁して、和歌の――弟の手伝いをして、ごめんなさい」

「あぁ」


 鳶のことがあってから、藍色に殴られた時の恐怖は――この男は人殺しなのだと再確認したときの――消えていた。


 まあ、結局のところ、藍色は藍色だしというところに落ち着いた。


「藍色はもう鳶さんの仕事は受けないつもりなのか?」

「そのつもりで手をきった」

「前は、足を洗うのは難しいっていっていただろ」

「あぁ、そのことか。何も私に仕事を依頼してくるのは鳶だけではない。それだけの話だ。鳶は一番私に仕事をもってきた。あいつは私が人を殺す姿を好んでいたからな。率先して回してきていたというか営業していたというべきか」


 いやな営業すぎる。そんなキャリアウーマンみたいに仕事はしないでくれ。


「だが、だからこそ、あいつとの関係は親しいから、鳶だけならばどうとでもなる」


 命さえも、か。そこは訪ねなかった。藍色は鳶を殺さなかったわけだし。


「なら、今のまま藍色は特に変わらないということか?」

「そうだな。変わらない。だから色葉、お前は心配しなくていいぞ」

「みずの生活? それは心配していないよ。藍色の預金知らないけど」

「通帳には別に貯金していない。金庫に入れてある」


 運転免許も本物か怪しいもんな藍色。


「じゃあ暗証番号教えて。万が一の時のために」

「私に万が一はない。教える必要はない」

「家の合鍵を頂戴よ、じゃあ」

「私の金銭と合鍵の価値を等価にしたところで合鍵を渡すわけがないだろ」

「いや、そこは流石に頂戴よ! ほら一週間旅行に出かけるんだろ! 藍色は!」

「調子に乗ったか?」

「乗らせてくれたんだよ。藍色が! ……ねぇ藍色」

「なんだ?」

「次いでだからもう少し調子に乗っていい?」

「いいぞ」


 藍色は、太っ腹な心でいってくれた。

 まったく、年上とはいえ十歳以上離れているわけではないというのに。物騒だけど安心感がありすぎるのはなんなのだろう。


「一週間、みずと藍色の家では過ごさない。その代わり、俺と藍色とみずで、一週間旅行しよ」

「……どうしたんだ? 頭でもうったか?」

「調子に乗っていいっていったのは藍色だろ!」


 急に心配される筋合いはない。

 いや、まぁ俺が藍色と旅行しようといっている段階で正気が疑われるのは重々承知だけど。散々みずとルームシェアしたいっていっていたからな。


「仕方ないだろ。どうせなら、皆でわいわいして、そして諦めようと思ったんだ」

「私を含んでか?」


 藍色は静かに笑った。こうしてみると、静謐のような外見をしているな。


「そう。それが、一番いいと思ったんだ。俺が……そうしたいなって、思った」

「そうか。ならそうしよう。好きな旅行先を選ぶといい。できれば国内がいいが、希望するなら海外でもいいぞ」

「それパスポートが面倒って話だろ……旅行に犯罪持ち込まないで……」


 本当に勘弁。


「あと、今の俺はちょっと元気だからさ。旅行の前に、詩に会ってくることにした」


 藍色の素性を知っているかもしれない彼女に対して、もう俺とは合わないでと正面から断る。

 告白だけでなく、今までのなぁなぁの関係もないことにする。

 友達でいることが誠実なのか、それすらも拒絶するのが誠実なのかわからないが、どちらにしろ俺が悪いのだ。

 藍色は渋い顔をした。

 詩を殺すことが容易なこの男に対して、詩は殺さなくて大丈夫だよと伝える。


「保証はない」

「でも、藍色は鳶が、大丈夫だということを保証してくれた。なんの証拠もないのに。なら、俺だって詩の人柄を見たうえで、仮に藍色のことを知っていても大丈夫だと保証するよ」


 藍色が鳶を知っているように。

 俺も詩を知っている。


「わかった。好きにしろ。……まぁ、最悪が訪れたとしても」

「藍色なら、大丈夫でしょう」

「あぁ」


 詩との関係を終わらせよう。

 俺は、詩を――好きになることだけはない。

 詩から向けられる感情が、友愛だけならば、上から目線になるが、受け入れても良かった。

 親友はみずだけだが、詩と友達になるくらいなら俺は――いや、詩のことを友達だと、多分もう思っている。

 でも、詩が俺に望むものは友情ではない。

 恋であり愛情。

 それを、俺が詩に与えることはない。答えることはない。

 俺は詩とは友達にしかなれない。でも詩が望むものは友達ではない。


 佐京色葉は、君の恋人にはならないことを告げよう。

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