鳶は笑う
コーヒーとメロンソーダーを飲み終えて会計を済ませた後、鳶は藍色に俺を渡さないように、俺とまるで恋人同士のようなくっつき具合で歩き始めた。
この人、藍色のこと好きなのにいいのかなと思わないでもない。
藍色は特に何も言わなかった。
通行人の誰かに不審に思われることもなく到着したのは、藍色が借りているマンションの前だった。見慣れた光景なのに、心がざわつく。
「僕は屋上が好きだな」
「一応立ち入り禁止だが」
「だから好きなんだよ。そういう禁止されているものって、破りたくならない?」
「破りたくなった結果が、今か?」
「そーだよ。何? 僕に興味をもってくれた?」
「それはないな。今も、昔も」
「知っている。僕が知らないわけないだろ」
鳶は、楽しくなさそうに小石を蹴った。
屋上へはすんなりと侵入することができた。
ここ結構いいマンションなのに警備ザルでいいのかな、施錠ザルでいいのかなとか思ったけれど逆に治安のいいマンションだから施錠をしっかりする必要もなく、みな立ち入り禁止の札を守っているのかもしれない。
いやまぁマンションの名誉のために言っておくと施錠はちゃんとされていた。ピッキングされたが正しい。この人たち、なんでもありだよな。
世間一般の常識持ち合わせてほしいとは思うが、俺がやらかしたことを思うと自分に返ってくるだけなのでやめた。
屋上は当然だが静かだった。
空気が美味しいのではないかと錯覚する空模様。夕日は沈みかけて、夜との境目を作っている。
鳶はダンスをするように俺を引っ張って前へ進んだ。
そして――鳶の軽やかな舞いが、ヒールの音を立てて終わる瞬間に、藍色が動いた。機敏な動作で、スーツの内ポケットから取り出したナイフを突き出す。
「え?」
鳶は驚いた。掴まれていた腕が緩んだすきに、藍色が俺の手首を強く掴んだ。勢いのせいで身体の重心が崩れる。鳶から俺を奪い返すように、藍色は俺を突き飛ばした。
足はもつれて、身体は倒れる。両手をつく暇もなく、当然勢いも殺せずコンクリートの床を身体が転げた。
「いっ――」
痛い。どこが痛いのかわからないくらい全身が痛い。足も捻った。呻きながらも、身体を起こして藍色と鳶へ視線を向けると、決着がついていた。
藍色が拳銃を鳶に向けている。
鳶は、横たわっていた。死んだのかと焦ったが、鳶の笑い声が聞こえて安堵した。
鳶と藍色の攻防を見る時間すらない。
俺がコンクリートを転がっている間に終わっていた。早すぎる。
「ちょっと藍色! 反則だ! 君、普段は武器を持ち歩いていないじゃないか!」
「色葉に何か起きたことを察していれば、万が一のことくらいは考える」
鳶は藍色が無手だと思った。
だから鳶は、強行に出た。だが、藍色は武器を持ち出していた。鳶は言っていた。藍色の方が強い、と。
それは片目というハンデだけでは覆すことができなかったのだ。いや藍色の不意打ちが成功した割合の方が高いのか、見えない間に終わっていた以上判断はできない。
「どうして? 色葉に不審な動きはなかったはずだけど」
「色葉が私に電話をかけてくることは滅多にないからだ。不測の事態とかでなければな。なのに、日常会話だけをしてくるなど不自然だろう。何かあったと勘繰るのが普通だ」
そう。俺から藍色に電話するときはほとんどない。ましてや雑談をするような電話はしない。
逆に、藍色から電話がかかってくる方が多いくらいだ。
例えば、俺がみずに友達ができるのを阻止しているから抗議してくるときとか。
ゆえに、藍色は電話が鳴った段階で何あったのではないかと疑った。
藍色が尋ねてきた『色葉、どうした――大丈夫か? ……風邪が悪化したのか?』という電話口の嘘の問に、何も答えなかったことで、不測の事態を藍色は確信した。
「何。君たち別にそんな仲良しじゃなかったの?」
「あぁ。そうだ」
藍色はみずの多分恐らくな保護者であり、俺はみずの親友。そこにある繋がりでしかない。みずがいなければ、出会うこともなかった人だ。
けれど、鳶はそれを知らない。
鳶にとって俺は、藍色の自宅を知っているのに藍色に殺されないでいる稀有な人間でしかない。
そして、藍色の交流関係を知っている鳶にとってそれは、俺と藍色が親しいと思えるだけの理由になる。
「ずるいなぁ。親しくないのに僕から助けようとするなんて、おかしいだろ」
拗ねたように鳶は言う。子供のような言い草。
俺は鳶と藍色がどのような顔をしているのかはわからない。近づく勇気はないから声だけをきく。
「仕方ないだろ。色葉に死んでほしくないという、あいつの親友がいるのだから」
「なんだそれ、ずるいな」
「鳶。私はもうお前の仕事は受けない。だから、お前も私に二度と会うな」
「は? 都合が良すぎないか? 僕を殺さないわけ?」
「誰が好き好んでお前の望み通りのことをすると思うんだ」
「あははは。面白いねぇ。僕に自殺願望があるとでも? だとしたら僕への解像度が低いことになるんだけど、失望しちゃうよ」
「自殺願望がないことくらいは知っている。私が人を殺すのが好きなお前に対して、望みを叶えてやるつもりはない、と私は言ったんだ」
「良かった。僕のことを理解してくれているようで。でも、なんだそれ、酷いな。色葉に気を使って、とかじゃなくて? 今までの様子を見る限り、彼は血とか苦手だよね。死体も見たことがなさそうだ」
「何故、私があいつに気を遣う必要があるんだ」
「なんだぁ残念」
「お前らは、私を温くなったとか甘くなったとかいうが、だとしても、そんなものが必要ない場面はいくらでもある」
「そこまで落ちぶれてはいないようで良かったよ」
「鳶に自殺願望がないことも知っているが、だが、お前は私の殺人が好きなことも知っている。私の殺人を眼前で、最前線で、一番近くで、見られるのならば、お前が私に殺されることを望んでいることもな。だが、私がそれを叶えるかどうかは別だ」
「本当に残念だ。色葉に手ひどいことをしていれば、君は僕を殺したかい? 単純に君を呼び寄せるだけにとどめたのは僕の失策かい?」
藍色は少し悩むように言葉に間を置いた。
「色葉が傷ついていたとしてか? 私は色葉のために何をするつもりは全くないが、かといって……私が原因で怪我をしたのならば責任はとるべきだな。なら、殺さない程度に鳶を殴っておいたかもしれない」
「なんだいそれは。失望するねぇ」
「だろうな。中途半端な手段など鳶が望むものではないからな」
理解しあっているからこそ、お互い望むものは選ばない。
一方的なラブレターを、藍色は一方的に破り捨てる。
「鳶。お前は間違えた。私はお前を殺さないし、お前は私にこれ以上執着をするな。それに対して私が応じることはない」
「……駄目だよ。藍色」
「何がだ」
「君が僕の望みを叶えなかったように、僕は君の望みを叶えない。いつか、君は僕の望み通りに僕を殺しておけば良かった、もしくは僕の望み通りに人を殺し続ければよかった、そう思うことだろう」
予言者のように、魔女のように鳶はいった。藍色は失笑した。
「好きにしろ。お前に私をどうこうできると思うな」
傲慢な言葉に、鳶は満足したようだった。




