代価
みずが特別だった。
だから、藍色が殺人鬼だろうと、どうでも良かった。
みずが幸せだったら、それでよかった――はずだった。
それなのに、親友という関係に満足できなくなった。
他にも沢山の人たちが持つ名前ではなく、オンリーワンのなにかを渇望した。
切実な願いなのに、実行できないでいた。天秤が揺れ動かない停滞の中で、揺蕩っていたのに、和歌の愚行により親友以外を目指せるチャンスが巡ってきた。
変化に縋って藍色を監禁して、みずと一緒に暮らす夢想を現実にした。
どこかに消えないように、言葉で部屋に閉じ込めて。消えることに恐怖しながらも親友じゃない関係を求めて。
藍色の言葉通り、俺が行ったことは『手ぬるい』のだろう。同意はする。
けれど、みずを泣かせろと?
――それはできない。
藍色を、殺せと?
――……それもできるわけがない。
結局。何もできなかった。
ああ、全てが億劫だ。何もしたくなくて、何も考えたくなくて。
ベッドに全てを委ねた。
目が覚めて、時計を確認すると翌日の昼になっていた。
起きる気も、食事する気にもなれずに、枕に顔を伏せていると、ピンポーンと音が鳴った。出る気もないので無視する。
藍色ならば、無理やり入ってくるだろう。
部屋の鍵、藍色に開けられたままだし。
宅配なら不在表が入る。
しばらくするとまたピンポーンと音がした。無視する。
藍色ではない。施錠など、あの男の前ではふざけたことに、防犯にもならない。知らずに安堵した。藍色はめちゃくちゃ手加減して殴ったのはわかるけど――正直もっと痛めつけられても不思議ではなかった――それはそれとして痛いものは痛い。痛みが身体に残るうちは、藍色に会いたくなかった。
また音がした。いい加減しつこいと思っていたら玄関が開く音がした。なるほど。宅配ではない。
和歌か? それとも詩か? 大穴で不在を確認していた泥棒。最後は嫌だな。
枕から顔を上げると、そこにいたのは綾瀬さんだった。
寝転がったままは失礼な気がして身体を起こそうとしたのを、そのままでいいよと綾瀬さんは優しい声でいった。
「色葉君の様子を見に来たよ。勝手に入ってごめんね」
「……なんで? 藍色が?」
「うん。まぁ。そんなところさ。まったくあいつもひどいな」
「俺たちは?」
俺と、弟は? 綾瀬さんは藍色の唯一の友人だ。俺たちはその友人に酷いことをした。
「藍にたいしてしでかしたこと? 君が藍に殴られたことが自業自得なら、藍が君たちにされたことも自業自得でいいよ」
綾瀬さんはさっぱりといった。禍根のない言葉は不安になる。
「どうして……?」
「どこかで代価は支払うべきだ。オレも、いつか……藍を見逃した罰を受けるだろうね」
「綾瀬さん……」
「殺人鬼を――犯罪者を見逃していい道理は、どこにもない。そんなものありはしないから」
顔から表情を伺いたくなかったので、俺は目を瞑った。
代価。殺人鬼の払う代償。だから、綾瀬さんは、藍色が片目を切りつけられて光を灯さなくなっても、三週間程監禁されていた事実すらも自業自得だと言い切るのか。
だとしたら、俺と和歌がしでかしたことに対する代価は何か。
「それに、本人たちが納得しているなら、外野が口出すことじゃない。色葉君と藍が話をつけるべきことだよ」
「…………どうして、ここに」
「さっきもいったけど。藍に様子を見てこいと頼まれてね」
「仕事は……」
綾瀬さんは、飲食店勤務だから休みは不定期なはずだし、連休は恐らく珍しいだろう。偶々藍色が来た日に偶々綾瀬さんの仕事が休みだったとはあまり思えない。
「ああ。休んだ。でも大丈夫だよ。君たちが気にすることじゃない。仮にオレが職を失ったら、再就職までは藍が給料をくれることで話がついているからね。生活が保障されているなら、お休み万歳だ」
笑っちゃいけないところだけれど、綾瀬さんが休日万歳と笑うからつられた。
「ま、とはいえ普段は真面目で他の人の急用の時とかも臨機応変に対応してあげていたから、繁忙期に突然の横暴な休み方をしても許されるので、全然これくらいで職を失うことなんてないんだけどな」
真面目が顔になっているような人は、仕事ぶりも真面目だったようだ。
「こういう時のための無遅刻無欠勤! 普段から信頼の貯金は大切だよね」
「そこには同意ですね」
俺もそのタイプなので。とはいえ、綾瀬さんは、俺と違って優等生の仮面を被っているわけではないだろうが。
窮屈じゃない優等生に俺もなれたら良かったのに。あぁでも、その場合はみずと出会えないか。出会って友達になったかもしれないけど、今ほど特別ではなかったはずだ。なら、いらないや。今のままでいい。
「というわけで、食事を持って来たよ。食べやすいようにおにぎりとかにしていたから。ベッドで食べるの気にしないならそのままで食べな。ほら、藍に蹴られてたし……」
殴られてもいます。まぁそこは綾瀬さん見ていないけど、言い淀んでいるところ見ると、もう一発くらいは殴られてそうだなーと綾瀬さんは思ってそうだ。正解は二発です。
「大分手加減してくれたんで、そこまで痛いわけではないですよ。どうして。本当に……綾瀬さんは、藍色の友達なんですか」
「あはは。そんなのオレがききたいよ。困るよねー」
快明に綾瀬さんはいった。
元々お喋りは嫌いじゃないけど、今はもっと誰か――藍色やみず、和歌以外と話して気を紛らわせたかった。
隣でみずが寝ていない現実を忘れたい。
綾瀬さんはそれに付き合ってくれるような気がした。詩も、この場にいたら良かったのになんて思った。おかしい。詩はただのはた迷惑なストーカーなのに。
「全部、藍色から聞いているんですか?」
「うん。ねえ知っている? 色葉君」
「何をです?」
「オレは大学の時から、藍の友人をやっていたんだけどさ、横暴なのは今も昔も全く変わらないんだけど、でもオレがこうして仕事を休んでまで関わっているのはね、昨日初めて、藍に頼まれたからなんだ」
「初めて……頼まれた……」
「だからさ、みずゆき君も、君のことも藍は大切に思っているんだよ。なんでも一人で解決できると思っている、いや違うな……解決できる男が他人を頼ったんだから。オレの方が威圧感なくて人と会話をするのに適しているからなんて理由で今日も仕事を休ませて、ここに寄越した。それって、もう君たちは藍の生活範囲ないの人ってことだよね」
「……はは。殺人鬼が何言ってるんだか」
「本当だよ。本当に……あいつに罪がなければ、どれほど良かったのか。オレがあいつを通報できれば、どれほどのハッピーエンドだったのか、わからないよ。ずっとそれをオレは思い続ける」
「じゃ、死んだら地獄で謝ればいいですよ」
「あはは」
綾瀬さんは心底楽しそうに笑った。少しだけ、あどけない表情で。
「そうだね。そうしようか。いやでも……」
綾瀬さんは真剣な表情で言った。
「藍と同じ罪の重さは嫌だな……」
「あはは」
今度は俺が声を出して笑った。それはそうだ。
いくら何でも、趣味でも仕事でも人を殺している男と、その男を見逃した友人で地獄の罪状が同じだったら困る。
綾瀬さんはお休みということだし、藍色の大学生活のことでも聞こうかな?
「藍色は、どんな大学生だったんです? 正直一ミリも想像できないんですけど」
「今のまんまだよ」
「ますますわかりません」
「オレもどうしてあんな講義に真面目に出席しないやつが学費を払っていたのか今でも理解できない。学費の無駄遣いだ」
藍色が不真面目な大学生なことはわかった。
まあ教科書開いて英語の予習とか想像しろという方が無理だ。
綾瀬さんが帰ったあと、おにぎりを食べた。美味しかった。
この人が作る料理は本当に、どれも美味しく少しだけ気力がわいてきた。
ベッドから起き上がって水分を取ったら、シャワーを浴びたくなった。
凄いなぁ綾瀬さんは。
生活らしい生活をしてから、寝た。
なんでもなくはないけれど、なんでもない日は続く。
みずは今でも変わらず親友だし、藍色はみずの保護者だ。
俺の家にみずがいたのは、藍色が仕事で迷惑をかけないため緊急的な措置で、大学にもいかないように俺に頼んでいたという物語で決着がついた。
みずではなく俺にだけ告げたのは、みずに不要な心配を抱かせないためというフォロー付きで。藍色が片目を包帯で覆うことになったのは、仕事の結果に成った。一から百まで嘘で塗り固められたそれを、俺と藍色は真実としてみずに伝えるし、真実にする。
俺の感情に蓋をして、何事もなかったようにみずと親友でい続ける。それが、一番多分しんどかった。
藍色と会話をするのは、正直ちょっと緊張した。だって怖かった。
「安心しろ。別にもう殴る予定はない」
らしくもなく気を使われたが、予定はない、のところでその恐怖は消えた。下手にもう殴らないといわれる方が嘘っぽい。
今まで通りの日常。
変化を求めたのに何一つの変質もなかった。
今まで通りの日々は胸が苦しくなる。しんどい。
だからだろうか、家にやってきた詩を俺は招き入れた。




