須臾の終わり
◇
和歌に監禁されているはずの藍色が、俺の部屋にやってきた。
みずと片時も離れないような生活は須臾の夢だと知っていたけれど、目を瞑って現実を逃避し続けたかった――それも、終わった。
藍色は清潔な包帯で片目を覆って、それ以外は普段と何一つ変わらないような見た目をしていた。スーツを着こなし、白髪は腰まで下ろされていて、もみあげには梅紐が留められている。包帯が異物であるかのように、藍色は藍色だった。
どうして、と言葉を発する前に、身体が吹き飛んだ。痛みは遅れてやってきた。
藍色に蹴られて、そして転がってベッド横の壁に激突した。
それだけのことだし、それはとても痛かった。
「ちょっと、あい! いろ、大丈夫!?」
みずが驚愕する声が聞こえた。かけつけようとしてくれたみずの肩に藍色は触れて止める。
心配されるのは嬉しいけど、体が痛くて呻くことしかできない。
そんな俺を、藍色は見ていなかった。みずを、見ていた。
「今のはこいつの自業自得だから、お前の苦情は受け付けない」
「……わかった」
何かあったのだと察して、みずは渋々頷いた。
藍色の包帯に触れていいのか、きっと迷っていることだろう。いい子で、だから俺は辛い。
「でも、やめてよ、あい。僕の親友を傷つけないで」
藍色は、ちょっと驚いたような反応を見せた気がするが――俺の視覚が、身体の痛みで動いたのを、勘違いしたのかもしれない。
藍色は迷った素振りで間を開けてから、みずへ尋ねた。
「お前は、今でも色葉は親友か? これからも親友か」
――親友でしかないか
言葉にせずとも意図は良くくみ取れた。
「……? 当たり前でしょ。いろは、僕の大切な、たった一人の親友だよ。これからもずっと、変わるわけがない」
優しい言葉に、俺は傷ついた。
みずの顔が、背中越しで――俺と藍色の間に入っているお蔭で――見えないのが救いだった。
「そうか、わかった。みずが言うなら、それでいい」
「……ねぇ、あい。どうしたの。その瞳の怪我は一体どうしたの。教えて。僕がいろと一緒にいる間に、何があったの」
みずは勇気を出して、藍色の眼帯にふれた。
痛みが落ち着いてきたので、藍色の手が、包帯の上を軽くなぞって苦笑したのがよく見えた。
「私がドジを踏んだだけだ、大丈夫だ」
「大丈夫って、でも! ……なんで、いろも、あいも。僕には何も教えてくれないの?」
冷たい、湖のような声色だった。藍色は首を横に振る。
「心配するな。ちゃんと後で教える」
「本当に、教えてくれる?」
「ああ。約束だ。……色葉がお前に何も言わなかったのは、私が口止めをしていたからだ、だから、あいつは何も言わなかった」
藍色の流れるような嘘を、
「うん。わかっているよ」
みずは露も疑わない。
藍色が俺への善意から、嘘をついてみずを騙すフォローに回ったわけではない。
それは、佐京色葉が、みずの『親友』でしかないことを補強したのだ。
そして、藍色は片目の原因に関して嘘を重ねて、俺たちがしたことを隠す。真実を吐き出すことを、藍色は許さない。
「綾瀬、みずと一緒に帰ってくれ。私は少し色葉と話したいからな。みず、ちょっと家で待っていてくれ」
「いろを蹴ったりしない?」
「しないしない。ほら」
「ん。わかった。じゃあまたね、いろ」
藍色が優しくみずの頭を撫でた。そうか、綾瀬さんも一緒だったのか、と俺は遅まきながら気づいた。藍色に隠れて、見えていなかった。
いや、藍色が怖かったから、それしか見えていなかったのだ。綾瀬さんとみずは一緒に玄関へ向かった。
扉が閉まる音がして、静寂が訪れてから、藍色は未だ床に倒れたままな俺の元へやってきた。起き上がる気力はなかった。
「なんだ? 私が怖いのか? 今更過ぎないか、色葉」
藍色が嘲笑するように言った。
「……和歌は?」
「へぇ」
意外そうに藍色は、近づけてきた顔の瞳を丸くした。
「何もしていない。私を解放すれば何もしないと約束した」
「そう」
弟のことで安堵なんて別にしたくなかったのに、それでも良かった。
「案外、弟思いだな。お兄ちゃんは。あんな杜撰な監禁が成功したのは、私だったからだ」
「知っていたから監禁したし、砂上の夢くらい見てみたかった」
「わかっていると思うが色葉……私は何もしなかった。それでもお前は私を拘束することを選んだ。だから、自業自得だ」
「わかっているさ。俺たちを殺さないために、無抵抗でいてくれたんだろ」
和歌が電話をしてきてから、走って藍色の元へ行ったが、それでも十分以上の時間はかかっていた。
それだけの時間があれば、片目を傷つけられた藍色が蹲っているだけなわけがないのだ。痛みがあったって、藍色は他人を殴ることは出来る。
藍色は、ただ、俺が来るのを待っていた。
そして、俺は和歌の味方をした。
「お前の弟をうっかり殺すわけにはいかなかったからな」
殺人鬼だって人間だ。怒りがあれば、痛みがあれば、加減を間違えることだってある。なら、暴力を振るわないことがあの時、殺さないための藍色がとれる正解だった。
だから、和歌は――俺たちは、藍色を監禁するという暴挙が成功した。
監禁しようとしたときだって、藍色であれば抵抗できた。
最初から状況を暴力で打破できたのに、藍色は選ばなかった。
「しかし、色葉。お前の行動は聊か想定外だ。和歌と結託するとは思わなかった。お前がそこまで愚かだったとは私も予想外だったよ」
「…………」
「どうした、色葉? 顔が引きつっているな」
「…………俺は」
「は、無駄に優等生なだけあるな」
藍色が歪に笑って、俺は殴られた。みずとの約束を藍色は守る気なんてなかった。いや蹴ってないから守ったのか?
しゃがみ込んで藍色は膝を肘置きにして頬杖をつく。
「流石に、腹は立っている」
けほけほとしている俺を無視して、藍色は感情を押し殺した夜のような静けさで言った。
「みずが、お前を親友だと言わなきゃ、殺してやっても良かったさ。けど、お前はみずと親友でい続けたほうが殴られるよりしんどそうだったからな」
「…………」
「みずと共依存にでもなりたかったか。お互い唯一無二の称号が欲しかったか。親友なんてありふれたものじゃ我慢できなくて、互いで補える依存すら求めた果てに、結局、お前は何もできなかった。変えられなかった」
何か、音にしようとして失敗した。
「手ぬるい」
藍色は、簡単に断言した。
「『親友』以外を求めるなら、それこそ鎖でつないで束縛をすれば良かったんだ。最悪の最善すら尽くせず……お前は、みずが快適に過ごせるような環境を作って過ごした」
藍色は部屋の状況から、俺とみずが一緒に過ごした時間の大体を把握したようだった。
「だって……俺は」
「お前も、弟も困ったときは、『だって』と言い訳ばかりだな。みずに求めていることを明確に言葉に出来ないくせに」
「なら、藍色はわかるの? 俺が親友じゃないなにかを欲しがっている、そのなにかがなんであるかを」
「エスパーじゃないんだ、お前の感情を言語化してやる必要もない。わかっていても、教えるつもりもないけどな。何にせよ、失敗だよ。色葉」
いっそ、この感情が恋であれば良かったのに。そうすれば、パズルのピースが綺麗にハマってくれた気すらしてしまう。
「和歌の方は、まあ、何もしない方が最終的には辛くなるだろ。あのガキは私の素性を知らない。片目を傷つけてしまったことは一生傷として残る。善良な人間が他人を傷つけて、その罪を精算できずに幸せをなれるとでも? ののかと一生を誓って幸せでいられたとしても陰って残る。なら、それで許してやる。お前も、私の素性を和歌に教えてなんてやるなよ」
「…………そう、だね」
「さて、と。安心していいぞ色葉。あと一発で終わらせてやる」
「え、ちょ、まっ――!」
藍色の拳が見えた。理不尽で正当な暴力は怖い。
反射的に、床を這って逃げようと身体が動いて失敗する。左手で口を塞がれて、右手で殴られた。
「……なんだ、泣いているのか?」
「あのね! ふつーに、痛くて、涙がでるにきまっている、だろ!」
「良かったな、この程度で済んで」
「……っ……さい、あく」
事実が最悪すぎる。藍色は本当にもう暴力を振るうつもりもないようで、胡坐をかいて床に座った。みずの約束通を守ってか、蹴られることもなかった。どうせなら暴力を振るわない? って約束をしてほしかった。
「それは此方のセリフだ。何か言い返すことは?」
「最悪だよ!」
藍色が面白いものを見る目で笑った。
「いいか、色葉。私が片目を失った理由も、何もかもは嘘で塗りつぶして、それを真実にする。お前も、真実にし続けて、みずと親友で居続けろ」
「…………」
「保身も何もかもを投げ捨てることすらできなかった色葉に、これ以外の結末でもあると? とはいえ、まぁどんな手段をとったとしても無理だっただろうが」
「なにがさ……」
「情を捨てたとしても、お前はみずと共依存にはなれない。お前がどれだけみずを欲しがったとしても、みずと一緒にいたいと思っても、その執着や依存の方向性がみずと合致することはない。あの子と、重なる感情はもう色葉にはない」
「しっているさ、知っているから……俺とみずしかいないような場所で、一緒にいてみたかったんだよ。藍色がいなくて、閉じた場所だけで、それだけでさ……それだけでも、俺は良かったんだよ」
もうかなわないけど。でも、あの日々は、俺にとって確かな幸せだったんだ。
「愚かだな。なら、私を殺せばよかったのに」
「は? そんなの、できるわけないだろ!?」
「馬鹿だな……。だから、終わったんだよ。お前の幸せな時間が」
藍色は立ち上がって、静かに部屋を後にした。俺はまだ床に転がったままだった。
僥倖とでもするべきなのだろう。殺人鬼を監禁してこの程度なのだから。
殴られたのだって、手加減してくれたのはわかる。わかるけど、痛くて蹲ってしまう。涙がとまらないほど何もかもが、苦痛だった。




